この本は、単に江戸時代の科学者を紹介するのではなく、その人物の生誕地など縁の場所に行く紀行文のパートがあってから、生涯を簡潔にまとめたものである。著者のねらいは「彼らに興味が湧いたらぜひ実際にゆかりの場所を訪ねてほしい」というものだ。紀行文の部分は、その場所の土地勘がないとちょっとわかりにくく「旅行案内」としては物足りないが、「その人物が、縁の土地でどう評価され、どう顕彰されているのか」を感じさせるものともなっている。
ただし、紀行文がいちいち挿入されるため生涯の紹介が編年的でないのは整理に苦労する。また「科学史」を銘打っているが、科学の発展を辿るものではないから「人物誌」と呼ぶ方がよいと思う。
私は、先日読んだ新戸雅章『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』と同様、江戸の科学者の身分に興味があって本書を手に取った。『江戸の科学者』は11人しか取り上げられていないから、もうちょっと事例を知りたくなったのだ。
いつもの読書メモとはちょっと形式が違うが、江戸開幕から幕末に至る36人の生涯を、身分・勉強・業績のみに注目して下に簡単にまとめた。これはなかなか大変な作業だった。
さて、本書に基づけば、科学・工学的知識は概ね身分上昇に役立っていると言える。
特に江戸初期では、角倉了以・玉川兄弟・河村瑞賢は町人から苗字帯刀を許され、シドッチも士分になっている。江戸中期になっても、丹羽正伯や青木昆陽は町人から士分に取り立てられ、扶持を与えられた。
しかし江戸中期から幕末には、町人は士分に移動せず、町人のまま科学・工学を研究している場合が多い。これは、いろいろやっかいごとが多い武士よりも、町人の方がお金もあり、自由であったためと思われる。なお幕末における町人出身は田中久重しか取り上げられていない。おそらく、幕末では科学・工学が外圧に対抗するために実学として必要になり、武士が学ぶようになったことが影響しているのだろう。江戸中期では科学・工学は実学というより芸能であった。
一方、科学的知識によって弾圧された(身分が剥奪された)人物は、本書には出てこない。唯一、林子平の場合がそれに当たるかもしれないが、科学の内容が問題視されたのではなく、武備を訴えるという政治的な活動が処罰の理由である。蛮社の獄で処罰された渡辺崋山や高野長英の場合も、科学の内容が理由ではない。
西洋では、ジョルダーノ・ブルーノやガリレオのように科学的知識の発表で教会から処分されたものもおり、またダーウィンの進化論が神学との矛盾によって大きな問題が起こるなど、科学は神学と相克しながら発展した。しかし日本では、例えば仏教の須弥山説と実際の世界地図には大きな乖離があったのだが、これは深刻に受け取られていないようだ。日本人は科学的世界観と旧来の世界観との齟齬に鈍感であったのかもしれない。少なくとも、仏教勢力は新しい科学知識と対決していない。
また、西洋では科学者がキリスト教神学者でもあったケースが多く、例えばパスカルは神学者でもあったし、ファラデーは教会でも働いていた。ところが日本でも、仏教の寺院は知識人が集まる場でもあったが、僧侶は全くと言ってよいほど科学の発展には寄与しておらず、本書にも僧侶は一人も登場しない。僧侶は科学を敵視してはいなかったが、興味も持っていなかったということなのだろうか。科学史における僧侶の存在感のなさには興味が湧いた。ただし隠居後に剃髪した人や僧位を持つ医師を僧侶とみなせば、僧侶にも科学者はいる。
それから、本書には藩主クラスでの科学研究は土井利位しか取り上げられていないが、科学に興味があった藩主はもっと多いと思われる(例えば薩摩藩では島津重豪の例が想起される)。藩主クラスで科学はどう受容されたのかは興味深い。
本書を読んでも、近世における科学史の全体像は摑めない。どうやら近世科学史はまだまとまった一般向け著作がないようだ。出版を待ちたい。
第1章 江戸前期
角倉了以(りょうい):商人・医師の分家の嫡男→[川の開削事業]→幕府に重用された
千々石ミゲル:地方城主の四男(千々石直員(なおかず))の子→天正少年使節団の一員→[『天正遣欧使節記』で科学的世界観を解説]→イエズス会脱会→大村藩で知行600石を受ける武士→後半生は不明
玉川兄弟:町人?→[玉川上水の開削]→上水完成後、苗字帯刀を許され、永代の玉川上水役に
河村瑞賢:先祖は武士とする百姓→土木工事現場の人夫→漬物屋→人足集めの普請請負人→[沼田用水路開削]→海運業の元締め[奥羽海運を開く]→苗字帯刀を許される?→出家後[淀川治水]
西川如見:有力町人(貿易商)の子→[儒学を学び、天文・歴算を研究]→[地理学を研究](『天文義論』『日本水土考』『町人嚢』『百姓囊』など多数出版)
シドッチ:カトリックのイタリア人宣教使→[ルソン島で日本語を学ぶ]→日本に潜入→(新井白石が尋問し『西洋紀聞』『采覧異言』にまとめる)→二十五両五人扶持の待遇なるも切支丹屋敷に幽閉され5年で死去
第2章 江戸中期
丹羽正伯:医師鎌田氏(母方の姓が丹羽)の子(町人)→町医者→[稲生若水に指示し、本草学・薬草の研究]→幕府の後援のもと薬種調査→幕府医官(三十人扶持)、薬園地を与えられる→[幕府の事業として諸国産物調査](『庶物類纂』全千巻を完成)
青木昆陽:魚問屋の子→伊藤東涯の門に入る→加藤枝直の給地内に私塾を開く(同給地内に賀茂真淵も一時期住んでいた)→枝直は大岡越前守忠相(ただすけ)に昆陽を推挙、その仕官論文として[『蕃薯考』を書く]→享保の大飢饉で吉宗にも認められ[蘭学を学ぶ]→御書物御用達などに従事、前野良沢らを育てる。
建部清庵:一関藩の十五人扶持の藩医の子→[藩費で江戸遊学]→俸禄100石の藩医→[飢饉を受け『民間備荒録』を刊行]→[杉田玄白との問答『和蘭医事問答』を叙述](息子たちを玄白に弟子入りさせ、四男を杉田家の養子にした)
三浦梅園:医家に生まれる(身分不明)→藩侯侍読の綾部絅斎に[儒学を学ぶ]→天地の条理を実証主義によって探る道を得、[『玄語』『贅語』『敢語』をまとめた]→三度諸藩から招聘を受け、三度断った
前野良沢:筑前藩士の子→伯父の医師宮田全沢に養われ→中津藩医で食禄300石の前野家を継ぐ→青木昆陽に入門→[『解体新書』翻訳の盟主となり、オランダ語を習得]→中津藩主奥平昌高は良沢を庇護したが、弟子も取らず貧窮の晩年を送った。
小野蘭山:父は下級官人(地下)→稲生若水の高弟・松岡恕庵に師事→[本草学を学ぶ]→仕官せず家塾を開く[主著『本草綱目啓蒙』48巻]門人は千人を超えた→晩年、幕府の招聘に応じ江戸出仕、位は医師並・寄合小普請並→5度にわたる採薬旅行をした。
木村蒹葭堂:造り酒屋に生まれた→松岡恕庵の門人・津島恒之進に入門[本草学を学ぶ]→物産学を進め、小野蘭山に入門→画筆を揮い、博物学の挿絵を書く。奇書・器物・標本など厖大なコレクションを集めた
林 子平:小納戸衆兼書物奉行をつとめた下級旗本の次男→父が旗本仲間を傷つけ除籍→叔父の町医者林通明に養われる→姉が仙台藩主の側室となり、仙台藩士に。ただし部屋住→各地(長崎・蝦夷・江戸)を遊学→[朝鮮・琉球・蝦夷の位置関係を『三国通覧図説』にまとめた]→武備を訴えた『海国兵談』全16巻で外国襲来を煽ったとされ、江戸で入牢→本藩禁固となり病没
第3章 江戸後期
司馬江漢:江戸に生まれる(身分不明)→狩野派と鈴木春信に画を学んだ→平賀源内の西洋画を知り[銅版画に取り組む]→[洋画研究]のため長崎旅行→[窮理・天文・地理学に傾斜]→[日本初の銅版世界地図を製作]→[『刻白爾天文図解』等で地動説を説いた]
山片蟠桃:木綿屋に生まれる→升屋別家の養子となる→升屋本家で奉公→懐徳堂に通い、中井竹山の弟子になる→升屋本家の支配番頭となる→仙台藩の財政建て直しに一役買う→[『夢ノ記』で合理的宇宙観と無神論を述べた]
小野田直武:下級藩士の次男(兄は夭折、事実上の長男)→幼くして画才を発揮→江戸で平賀源内に会い、指導を受ける→藩から源内付の「産物他所取次役」を命じられる→[『解体新書』の挿絵を杉田玄白から頼まれる]→[蘭画に取り組む]→司馬江漢に影響を与える→帰藩し「御小姓並」になる。しかし画に打ち込んで普通の仕事はしなかった→「国元遠慮」を申しつけられ謹慎中に死去。
間 重富:質屋の子(六男だったが兄たちが病没して家を継ぐことになる)→麻田剛立に入門し[天文観測・理論を学ぶ]→高橋至時と共に改暦事業に抜擢され「天文方」に、土御門家と協力→伊能忠敬を指導→寛政の改暦の功により苗字帯刀を許される
大槻玄沢:オランダ流外科の玄梁の子→父が一関藩医となる→[父子ともに建部清庵の弟子]→杉田玄白に入門→オランダ語を教えてくれなかったので、前野良沢の押しかけ弟子に→長崎遊学、本木良永に一時学ぶ→仙台藩並医師に→[『重訂解体新書』、オランダ後入門書『蘭学階梯』など多数の著作を手がける]→幕府の天文方蕃書和解御用に登用される→[『厚生新編』を手がける]
稲村三伯:町医者の三男→藩医稲村三杏に入門[徂徠学と古医方を学ぶ]→稲村家養子に、四十俵五人扶持の跡目を相続→医学修行で京都へ→江戸へ遊学し大槻玄沢の弟子に→玄沢の弟子らの協力で(特に石井庄助の訳により)[蘭日辞書『波留麻和解(江戸ハルマ)』を出版]→実弟の借金問題で隠遁(家財を藩に返上)→密かに蘭学塾・医業を開いた。
鈴木牧之:縮緬業者・質屋の旧家に生まれる→14歳で画家に手ほどきを受ける→一時江戸に出て書家に入門→家業に勤しみつつ、余暇で文化人と交流→雪の結晶の図譜である『北越雪譜』を山東京伝と組んで出版
帆足万里:日出藩士の三男→三浦梅園の弟子に入門→懐徳堂の中井竹山に学ぶ→藩主より儒員に任じられ七人扶持(藩邸に塾を設け教える)→藩の家老となり財政改革にあたったがうまくいかず3年で辞職→[儒学と実学の調和を目指した。『東潜夫論』]→オランダ語を自習→[科学理解の集大成『窮理通』]
国友一貫斎:鉄砲鍛冶年寄脇の家に生まれる→様々な発明品を手がける→[空気銃、反射望遠鏡を開発]→[太陽黒点を観測]
土井利位(としつら): 刈谷藩の藩主の四男→本家の養子に→朱子学・漢学・画を学ぶ→古閑藩主に→京都所司代・海防掛老中など歴任→激務の中で家老鷹見泉石の学問的サポートを受けつつ、[顕微鏡で雪の結晶を観察、『雪華図説』『続雪華図説』にまとめる]
第4章 幕末期
渡辺崋山:田原藩の江戸詰の上士の長男→[朱子学・陽明学を学び画家を志す]→家老職・海岸掛→蘭学を学ぶ→[『外国事情書』などで物理(窮理)学を重視]、洋式船建造を訴える→画業専念のために退役願いを出すが不受理→蛮社の獄で幽囚の身に→画業・画論に専念→自決
宇田川榕庵:大垣藩侍医の長男→宇田川玄真に蘭学を学び養子に→[植物学を学び『植学啓原』を刊行]→[化学書『舎密開宗』(未完)]、多数の植物学・化学用語を定着させた。
箕作阮甫:津山藩医の第三子→家督を継ぎ七人扶持→[宇田川玄真に蘭方医を学ぶ]→江戸詰となり江戸で開業→[『泰西名医彙講』を皮切りに洋学に関する著訳書多数]→島津斉彬の依頼で書いた[『水蒸気船説略』は蒸気船技術書の基本に]→蛮社の獄後に、幕府の蕃書翻訳方に登用される→ペリーの国書を読む→蕃書調所を立ち上げ、後、洋書調所に改称され幕臣となった。
田中久重:鼈甲細工屋の長男→からくり技術で名を上げる「からくり儀右衛門」→[万年自鳴鐘製作]→[佐賀藩に招かれ精錬方へ、蒸気船「凌風丸」建造、大砲製造]→佐賀藩と久留米藩に半年ずつ赴任するようになった→久留米で製造所を設立。
江川坦庵(英龍): 韮山代官を世襲する家の次男→兄の早世で代官を継ぐ→名代官として活躍→大砲鋳造のための反射炉を建設、台場を建設→渡辺崋山や佐久間象山と親交。
高野長英:下級武士の三男→杉田玄白の弟子高野玄斎の養子→[蘭学・漢学を学び江戸遊学]→按摩をするなど苦学しつつ[オランダ語を習得]→長崎遊学→江戸で開塾、[『西説医原枢要』など多数の著訳書]→尚歯会に渡辺崋山らと参加、幕政批判書『夢物語』で蛮社の獄に遭う→逃亡し、捕吏に襲われ自刃。
プチャーチン:プチャーチン率いるロシア軍艦ディアナ号が下田沖に沈没→川路聖謨らは代船建造を決定→プチャーチンの協力の下、国産洋式帆船が製造された。
川本幸民:摂津三田藩医の三男→[漢方医の塾で学ぶ]→[坪井信道の門へ]→三田藩医となり江戸で開業→刃傷沙汰で藩邸に幽閉・その後5年間の蟄居生活→坪井信道とともに蘭方医として活躍→島津斉彬の知遇を得、薩摩藩御内用を兼ねた→蕃書調所教授手伝、開成所の教授(その間、薩摩藩籍で六人扶持)→[翻訳だけでなく自ら実験も行い、『気海観瀾広義』『化学新書』などをまとめた]
本木昌造:長崎のオランダ通詞の名門本木家の養子→海軍伝習所伝習掛(海軍伝習所の講義はオランダ語で行われた)→活字板摺立所取扱掛(洋書の印刷)→ウィリアム・ガンブルを招聘、活版伝習所設立→[鋳造活字に成功、新町活版所を創業]
小栗上野介:上級武士の嫡男→[安積艮斎に漢学を学ぶ]→日米修好通商条約批准書交換の使節として米国訪問→軍艦奉行→[横須賀製鉄所・フランス式陸軍伝習所・フランス語学校の設立]→幕末の動乱では主戦論を唱え、戊辰戦争後、斬罪に処された。
橋本左内:福井藩の奥医師の家の長男(父は西洋式医療を学び二十五石五人扶持)→儒学を学ぶ→緒方洪庵の適塾に入門→父の死後家督を継ぐ→江戸遊学→坪井信良に入門→福井に帰郷、医員を免じ御書院番に登用される→藩校で西洋の長所を取り入れる改革→安政の大獄で処刑
上野彦馬:父は長崎奉行御時計師(母は唐通事の娘)、事実上の長男→広瀬淡窓の咸宜園に入門→オランダ語を学び、ポンペについて化学を学ぶ→[写真術の研究]→津の藩校で化学とオランダ語を教える→長崎で上野撮影局を開業(営業写真師第一号)、写真師として活躍
【関連書籍の読書メモ】
『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』新戸 雅章 著
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江戸時代の科学者11人を紹介する本。気軽に読める江戸時代の科学人物誌。
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