島地黙雷は、明治時代に活躍した真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶で、明治5〜10年ほどを「黙雷の時代」と呼ぶほど、目覚ましく活躍した。しかし彼は宗教者として傑出していたというより、それは政治的な活躍であった。そのハイライトが本書の副題となっている「政教分離」をもたらしたこと、言い換えれば、「明治というあらたな時代のなかに仏教を位置づけた(p.3)」ことである。本書はその点を中心に、黙雷の人生をコンパクトにまとめている。
黙雷は天保9年(1838)、長州藩=周防国(現山口県周南市垰)の本願寺派の専照寺に四男として生まれた。彼は20歳の頃、友人たちと出奔し九州に赴き、肥後山鹿の光照寺原口針水について学んだ。文久元年(1861)に帰郷。長州藩が戦時体制に突入していった頃である。長州の真宗僧侶は「金剛隊」を結成。大洲鉄然ら多くの僧侶も「諸隊」へ参加。西本願寺は勤王の立場を明確にしており、軍事行動へ積極的だった。黙雷はこうした動きに距離を置いていたが慶応元年(1865)に僧兵となった。そして徐々に政治的な活動に足を突っ込んでいく。
彼は鳥羽伏見の戦いを口実に上京し、本山へ建議を提出した。本山の改革が必要との内容である。その際、長髪に帯剣して睨みをきかしたという。なぜ長髪・帯剣なのか、非常に興味深い。そしてその建議は採用され、改革案の実行に携わることになった。
明治3年(1870)、法主大谷光沢(広如)により4か条の諮問があった。(1)宗門改の廃止、(2)葬儀の動揺、(3)寺院の廃合、(4)布教についてである。これに黙雷と鉄然が答申を取りまとめたが、(1)必要なし、(2)葬儀に固執する必要なし、(3)やむをえない、とし(4)の布教こそ寺院の存在意義として必要とした。神仏分離令をはじめとする仏教への逆風の中、仏教にとって必要なものは何かという鋭い問いが突き付けられ、仏教の本質、核とは何かが考究された。それに対する黙雷の答えは「教」だったのである。そしてこの8月、黙雷と鉄然は本山から東京出仕を命じられる。以後、黙雷は、本願寺を代表して活動することになる。
東京で彼らは寺院専任の官庁を設けるべく運動し、10月、民部省に寺院寮が設けられた。彼らの運動はいきなり国レベルの政策に影響を与えたのである。それには、彼らが長州閥の政治家とつながりがあったという事情がある。特に木戸孝允との関係が深かった。
この頃の宗教政策における最大の課題は、キリスト教対策である。キリスト教の解禁はやむなしと見られたため、それに対抗するための方策が必要だった。黙雷はキリスト教を「妖教」扱いし、神仏儒教を一元的に管轄する官庁を設けて、それぞれが「教」を説いて「妖教」に対抗すべしという建白を行った。彼は木戸孝允に働きかけ、新聞という新たなメディアも使って運動。これを受け、教部省が設立されることとなった。そして神仏儒が共同して大教院を中心に「三条の教則」という原則の下で国民教化運動に取り組むのである。
一方、黙雷は法主大谷光尊の海外視察を構想。木戸も法主の岩倉使節団への同行を慫慂した。光尊も同意したが、宗門の事情で梅上沢融を代理として派遣することとなり、黙雷も一向に加わった(梅上沢融、島地黙雷、赤松連城、堀川教阿、光田為然)。なお東本願寺では次期法主の大谷光瑩ら5人が欧州を巡回している。
黙雷は海外を視察し、「敵」であるキリスト教を深く知って「宗教」の概念を受け入れた。開化の頂点に位置する西洋では、「宗教」がグローバル・スタンダードだった。儒教とか神道は「宗教」ではなかった。日本で「宗教」であるのは仏教だけで、しかも真宗はその中でも最も一神教的な教えだったから、「宗教」の概念は黙雷の大きな武器になった。ところが、西洋を基準に考えるならキリスト教は邪教ではありえない。むしろ文明のためにはキリスト教を受容することが適当という理屈も成り立つ。
これに対し、黙雷は「宗教と文明は関係ない」というロジックで対抗。西洋の文明はあくまでも学術のおかげだというのだ。だがそれなら、宗教の重要性は高くないということになる。黙雷はそれでもよいと考え、むしろ国家とは離れた領域で自由に布教することの方を選んだ。また海外視察では、木戸との関係がさらに緊密化したことも成果であった。
黙雷は、早速、教部省=大教院体制に戦いを挑んだ。その要点は、(1)大教院は神仏分離に反する、(2)「三条の教則」があっては本来の教えが説けずキリスト教へ対抗できない、(3)そもそも大教院体制は、政治と宗教がごっちゃになっている、というようなものだ。さらに黙雷帰国後の明治6年(1873)、キリシタン禁制の高札が除去された。はっきりとキリスト教が公許されたわけではなかったが、明確な禁止でもなくなった。よってキリスト教に対抗するための、より実効的な枠組みが求められた。
黙雷は教部省批判の意見書を提出し、それは木戸にも理解された。また教部大輔の宍戸璣(たまき)はこれに応え、三島通庸ら薩摩系の勢力を排除していった。しかし教部省批判には真宗以外の仏教諸派が賛同せず、黙雷は真宗(東西本願寺)をまとめて、真宗を大教院から離脱させてもらえるよう教部省に上申した。大教院は布教の足かせになっているから離脱したいというものだった。ここでも黙雷は新聞に寄稿し、また自ら『報四叢談』という自前の雑誌も立ち上げて健筆をふるった。
その結果、真宗の離脱は認められる方向になったが、興正寺の華園摂信が本願寺から独立することを申し出る。自分たちは本願寺から独立して大教院に残ろうというのだ。これで議論がややこしくなってしまった。政府は宗門内の対立を仲裁しなければならないことに嫌気がさし、明治8年には大教院を解散させた。「大教院などさして役に立っていないのだから(p.69)」、なくしてしまえばよかったのだ。黙雷はここぞとばかり、「神仏混淆を禁じた維新の大義に反する(p.70)」として次に教部省廃止を訴えた。そして明治10年(1877)に教部省は廃止された。一応の「政教分離」の達成であった。黙雷が国につきつけた要望は、そのほとんどが実現した。
しかしながら、「政教分離」が達成された後の黙雷には、困難が待ち受けていた。黙雷の著作『念仏往生義』などが「黙雷は自力を説いている」として批判され、異安心(いあんじん=異端)の疑いをもたれた。異安心ではないと審判は出たものの、その審判は法主ではなく大洲鉄然や赤松連城が担当したため、光尊は不満を抱いて黙雷の役職を解任、東京での布教活動を中止させた。さらに光尊は北畠道龍を起用して本山改革を行い(長州系僧侶は排除された)、これによって本願寺は東京と京都に分裂。内紛は泥沼になった。最終的には右大臣岩倉具視が「華族の体面を汚さぬように」と光尊を説得して分裂は収束した。
結果、喧嘩両成敗として、黙雷を含む本願寺における長州閥僧侶は弱体化した。しかし明治中頃には黙雷は要職へ復帰し、明治26年(1893)に執行長、翌年は勧学へのぼった。本願寺の学階の最高位である。なお明治23年(1890)には、仏教各宗協会で、『仏教各宗綱要』の編集長を務めている。
こうした経歴のため黙雷は自坊を持っていなかったが、「白蓮会」という会員組織を育てた(明治8年設立)。この会を母体に女子文芸学舎(→現在の千代田女学園)も開校している。また明治12年(1879)には大内青巒らと共同で護法にあたる「和敬会」を、明治16年(1883)にはキリスト教に対抗するための結社「令知会」も設立。黙雷はキリスト教への敵愾心を失ってはいなかったが、キリスト教は政策担当者たちが懸念したように爆発的に広がることはなく、「キリスト教への対抗」との存在理由は希薄化していった。
この他、監獄教誨や免囚保護にも取り組み、仏前結婚式を考案し実施してもいる。また従軍布教にも積極的で、「喜び勇んで栄えある行為に邁進するよう勧め」た。彼は政教分離を進めたが、意外なことに、同時に国家主義者でもあった。
こうした黙雷をめげさせたのが、息子雷夢(らいむ)がキリスト教に受洗したことだった。雷夢は黙雷の秘蔵っ子、跡継ぎとして育てられたが、宗教上の疑問に苦しみ、パブテストの教会で洗礼を受けたのだ。黙雷は「一緒に刺し違える」とまで告げたが息子は自らの道を進み、36歳で早死にした。また黙雷の生家専照寺を継がせる予定だった黙爾は、大谷探検隊に参加し、明治36年(1903)、ベナレスで客死した。
息子達の死は黙雷を意気消沈させたが、黙雷は盛岡の願教寺に入り、東北布教に取り組んだ(奥羽教総監)。これは僻地に引っ込んだのではなく、盛岡を拠点として引き続き活発に活動し、満州にまで渡ったが、明治44年(1911)、74歳で亡くなった。葬儀には僧俗5000余人が参加したという。
黙雷は、生涯キリスト教を敵とし、国家からは独立して自由に布教に邁進することが仏教の核だと主張した。ところが政教分離が実現し、自由に布教する体制ができても、それほどの成果はあがらなかった。キリスト教は思ったほど脅威ではなく、政教分離は社会における宗教の存在感の低下をもたらしたからだ。そして、彼が宗教ではないとした神道が、後に宗教以上の力で日本人の思考を支配するようになるとは皮肉だった。
彼は、教義と科学が矛盾する時は科学を信頼すればよい、という「物わかりのよい」僧侶であった。いわば合理的だったのだ。だからこそ、その建白は政策担当者たちに受け入れられたのだろう。しかし、その合理性が黙雷の弱点だったともいえる。「仏教は役に立つ」というロジックを掲げ続けたことが、彼の限界を定めたのかもしれない。
明治時代に傑出した働きを見せた島地黙雷を小著ながら多面的に描いた良書。
【関連書籍の読書メモ】
『明治国家と宗教』山口 輝臣 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_29.html
明治時代の宗教と国家の関係について2つの側面から述べる本。世俗的になっていた国家が、どうして宗教的に揺り戻されていったのか。本書はそれを水面下の動きから解明した労作。
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