2023年1月29日日曜日

『明治国家と宗教』山口 輝臣 著

明治時代の宗教と国家の関係について2つの側面から述べる本。

本書ではまず明治時代の宗教を巡る学説の成立史が顧みられる。村上重良・藤谷俊雄の国家神道を中心とする見解、神社非宗教論に基づく平野武の見解、そして国家神道=神社神道としてよりフラットに捉えた阪本是丸の見解が述べられ、少なくとも現在では「国家神道」という枠を取り払い、むしろ国家と宗教の関係を研究する方向へと進んできた。ではそもそも「宗教」とは何か。

こうして、明治時代に「宗教」がどう認識され、どう語られたかという第1部の主題が登場する。

さらにその応用編として「神社改正ノ件」と呼ばれる宗教政策がどのような影響をもたらしたか、という第2部の主題が考究される。第1の点は理念的な枠組みを考えるもので、第2の点は具体的に政策決定のプロセスを追っていくものであるが、この2点は無関係ではなく、「宗教」とは何かという理念的な枠組みが現実の宗教行政に大きな影響を及ぼしていた。

第1部 19世紀—宗教の生成/「国家と宗教」の制度化

「宗教」は、明治期に新しくできた言葉である。それがいかに構築されたか。まず、宗教という言葉は"religion"の翻訳語である。では"religion"がどのようなものとして認識されたかというと、これはとりもなおさずキリスト教のことであった。であるから、キリスト教を基本として「宗教」の概念が形作られた。本書では当時の様々な論客がどう「宗教」を語ったか、その語り方の分析を通じて「宗教」概念を剔抉している。

これを私なりにまとめると、第1に「宗教」は文明の一つの要素として語られた。後には宗教はむしろ後進的なものと見なされるが(c.f. マルクス「宗教は民衆のアヘンである」)、この頃の日本では「宗教」は文明を構築する土台であると考えられた。

第2に、仏教とキリスト教を対置して、どちらが文明の土台として適しているのか、という視点から「宗教」が語られた。そして少なくとも神道は「宗教」の体を成していないとされ、はなからその議論の範疇に入っていなかったということも指摘できる。 

大日本帝国憲法の制定においては、国教制定の検討もあった。伊藤博文は憲法調査のためベルリンのグナイストの講義を受けているが、グナイストは仏教を国教に制定するようアドバイスした。当時のヨーロッパでは国教は「信教の自由」に抵触しないものと考えられていた。一方、福沢諭吉は日本の文明化のため、キリスト教を国教に据えるべきではないかと考えた。もちろん元田永孚のような神道主義者はこれに強硬に反対。伊藤は国教自体に反対だったので、政府内で論争が起こった。森有礼や井上馨も宗教自由化の論陣を張った。

実はこんな中でも、キリスト教が公許されていたかどうかは曖昧だった。明治6年にキリスト教禁止の高札は除去されていたが、かといってキリスト教を容認するというはっきりとした表明もなかったからだ。外務卿・井上馨は対外的な問題からこれを公許するよう主張。一方、内務卿・山県有朋は、路線は同じながら、宗教の自由化や仏教の保護を検討した。

当時、国家の宗教者制度である「教導職」は曲がり角を迎えていた。神官の教導職兼任の廃止や、教導職の存在意義の低下があり、教導職自体を廃止する趨勢になっていた。そもそも教導職の意義はキリスト教対策にもあったから、キリスト教公許がなされるなら教導職は不要となる。しかしそうなると教導職という制度を通じて国家と関係を樹立してきた神道勢力が困る。神社と寺院、国家のそれぞれの思惑が絡んで議論が錯綜。結局、関係者の合意が得られた点のみが成案となった。すなわち明治17年、教導職の廃止(太政官布達19号)、そしてそれまで教導職のみに認められていた葬儀を自由化した自葬の解禁(太政官布達20号)である。

これはキリスト教の公許まで踏み込んだものではなかったが、実質的にはキリスト教容認と近い効果を持った。同年、農商務卿で陸軍中将でもある西郷従道の長男従理がアメリカで客死し、ハリストス教会でその葬儀が執行されたのはその証左だ(従理は7歳でロシアに留学し、ロシア正教の洗礼を受けていた)。また教皇レオ3世の親書が明治天皇に奉呈された際、天皇は「耶蘇教徒ヲ保護スル他ノ臣民ト異ナルナカラン」と答え、未だ国内ではキリスト教の扱いを明確に変えたとは表明されていなかったものの、対外的にはキリスト教は保護の対象とされた。その後、外務省はこの方針を対内的にも貫徹させようとしたが、敢えて容認を表明すると軋轢を生じると反対されて挫折する。しかしながら、もはや「憲法における信教自由規定で公許は代用できる」との考えが広まり、キリスト教の扱い自体が焦点から外れていった。

一方、神社には逆風が吹いていた。太政官布達19号では、寺院には「管長制」が示されていたが、神社については何も打ち出されていなかったのである。明治4年には神社は国家の祭祀とされたものの徐々にその優遇は終わり、「明治17年末の時点では、神宮・官国弊社に国庫から経費・営繕費・神饌幣帛料が支出なされている以外、神社へ「公費」支出はできない状態となっていた(p.123)」。もちろん神道者たちはこれに不満を抱き、様々な運動を起こすことになる。彼らの要求は大まかに言えば2つあった。第1に、神社のみを取り扱う行政部局をもうけること(できるなら神祇官の再興)、第2に、神社へ国庫から支出すること、である。参議には大木喬任・佐佐木高行・山田顕義という神祇官設置論者も存在しており、これは無茶な要求ではなかった。

内務省はこうした中「神社改正ノ件」を提出。その内容は(1)神宮への支出は増額の上で継続するが、(2)官国幣社への支出は将来的に廃止、ただし10年間補助金を下付するのでその一部を貯蓄し、独立自営の体制を整えること、であった。内務省は官国幣社を「独立自営」できる存在にして国家から切り捨てようとした。しかしこれは閣内の反対も強く、三条実美太政大臣の預かり置きとなった。 

ところが明治18年末の内閣制度の創設で状況は変化。元田永孚は宮中顧問官に、大木喬任・佐佐木高行は閣外になり、「宗教家」森有礼が閣内へ。こうした状況で明治19年2月に「神社改正ノ件」は改めて提出される。官国幣社の増加に加え、別格官幣社制度でも官社が増加し、神社が国庫を圧迫しているとされ、また神社の存亡は人々の信仰に任すべきだとされた。そして「神社改正ノ件」は、(2)の補助金年限を15年に延長する修正などを経て可決。

予算から見ると「神社改正ノ件」は、明治17年の国庫支出を基準とし、それを超えないように国全体の神社費総額を決め、予算を神宮に重点的に配分して逆に官国幣社の予算を削減するという内容であった。では、官国幣社が15年間の補助金(保存金)の貯蓄によって「独立自営」の経営に移行するのは現実的だったかどうか。実は計算上でも7割の神社の慢性的な経営難が予想されていたのである。

このような中での大日本帝国憲法の制定。すでに「信教自由」は関係者の共有する路線であり、神道を国教にするなどありえないことであった。そして「宗教の自由」の規定によって、「宗教か否かということが、本格的に問題とされざるを得なくなってくる(p.153)」。宗教と非宗教では、保障される自由をはじめとして扱いが異なっていたからだ。

第2部 20世紀へ—宗教の変容/「国家と宗教」の転形

20世紀に入ると、日本での宗教の在り方は「宗教学」の影響を受けるようになる。宗教は行政的な扱いよりも学問の対象として規定された。本部では、姉崎正治、岸本能武太、加藤玄智の見解が触れられ、宗教の範囲が広がっていった次第が語られている。結果として、神社非宗教論は分が悪くなる。宗教学によれば、教義や教祖がなくても神社は宗教と見なせたからだ。

明治22年、憲法が発布されると、議会開設を見越して佐佐木高行、元田永孚、山田顕義らを中心にした神祇官設置運動が起こった。この頃、府県郷村社の神職が僧侶同然に扱われるのではという噂が流布していたから、神社勢力は逆風をはねのける必要を感じていた。こうして明治23年頃、神社のみを取り扱う行政部局=神祇院(神祇官)設置建議が提出される。ところが時を同じくして、内務省は「神社改正ノ件」による神社費から「共通臨時営繕費」を捻出させる案を閣議に提出。実質的な補助金の減額である。要するに、政府内では神社を特別扱いしようとする勢力と、神社の格下げを図る勢力が真っ向から対立していた。

格下げを図る勢力にとっても表立って神社への崇敬を否定することはできなかったが、神社派の主張の趣旨をくみ取りながらも、行政的な理屈でそれを「神祇局」へ格下げする案へ縮小させた。また「神社改正ノ件」の改定案に対して、佐佐木らはかえって予算を拡充する案を提出したり、明治初年に上地(土地の取り上げ)された土地(特に山林)を社寺に還付する運動を起こしたりしたが、こちらも行政的見地から実効策は矮小化していった。こうして議会開設前の神祇官設置運動と神社への予算拡充運動は挫折した。なお、神祇官への反対は神祇不敬と結びつけられていたが、明治天皇は神祇官設置に反対だったとみられる。また明治24年には元田、吉井友実が死去、山田は病気になりその後死去、ということで、政府内の神道派は弱体化した。

しかし憲法に基づいて議会が発足すると、神職たちは議会を通じた神祇官設置運動を開始した。神職たちがその代表を議会に送り込めば、議論はいくらでも可能なのだ。全国には大勢の神職がいたものの、最初のうちは落選議員もおり、議題も上程に至らなかった。よって第7議会まではさしたる成果がない。ただしそうした過程の中で、神祇官と天皇親祭論(天皇が祭祀をつかさどっているなら神祇官など不要)との調整、また神社が宗教でないなら内務省社寺局で神社が宗教として扱われていることとどう折り合いをつけるか、といった理屈が俎上にあげられ、整理されていった。

第8議会(明治27年~28年)が運動の転機となった。それまで紛糾していた国全体の予算問題の折り合いが付き、他の問題について議論する余裕が出たという事情もある。神社に関するものとして上地林問題、神祇官設置問題、古社寺保存問題が議論され、上地林、神祇官設置は否決されたものの、古社寺保存の予算は増額された。これは古社寺目当ての外国人観光客の落とすお金も期待されて成案を見たもので、古社寺との限定付きではあったがその経営の一助となった。そして第10議会(明治29~30年)では政府自ら「古社寺保存法」を提出し成立。これは「国家と特別な関係を有する古社寺という存在が法律で認められた(p.223)」ことに他ならなかった。

また、上地林問題については第13議会(明治31~32)で取り上げられる。そもそも社寺の土地を強制的に取り上げたこと自体が不当だとする論調で審議が始まり、「国有林野法」「国有土地森林原野下戻法」等が成立した。これは、上地された土地を必要に応じて社寺の境内に編入・払下・保管・下戻ができるようになったことを意味する。これが現実に社寺の経営を改善するかどうかは制度の運用次第であり、議論はそのような局面に移っていった。

一方、神祇官設置運動については、水面下で様々な運動があったがなかなか成果が出なかった。そして関係者は、条約改正との関係からも神祇官の速やかな設置は無理だと感じ、せめて神社専門の行政部局を設置することを第一歩にしたいと考えるようになった。こうして大隈重信内閣では「神社局」を設置する案が実現一歩手前までいったものの、大隈内閣の崩壊し実現に至らなかった。第13議会では大津淳一郎議員らが「神社と宗教との区域をはっきりすべきだ」として神社に関する特別官衙の設置を建議。これまでの運動が挫折した結果、神道派は最小限の目標に照準を定めるようになっていた。それは、神社を他の宗教とは違う存在にしたいということであった。よって神社非宗教論がクローズアップされてくる。しかし内務省の考えは、「社寺」は古社寺保存法など同一の法律で一括されていて何ら差しさわりはなく神社専門部局などいらない、というもので建議は否決された。

なお、内務省社寺局はそれなりに現場(神社・寺院)の希望を考慮した方針で行政を行っており、例えば寺格・僧爵構想(実現せず)など社寺の振興を図ってはいた。ただそうしたものは政府全体の方針とはなりえなかったのである。

政府全体として優先されたのは、対外的な問題である。条約改正の前提としてキリスト教を公許し、宗教を行政にしっかり位置づけることが必要だった。ついに明治32年、事実上キリスト教のみを対象とする宗教に関する省令が可決。こうしてキリスト教が行政の対象になると「社寺局」の名称変更は避けがたかった。そして寺院、神社、キリスト教…などではなく、それらを包括した宗教法案が求められ、山県内閣は同年これを提出した。

具体的には、この宗教法案は宗教団体を法人とするものであった(教会は社団法人または財団法人に、寺は財団法人に、ただし教派・宗派は法人になれない)。法案では宗教者に徴兵猶予を認めるなど宗教に対して優しい立場で作られており、世論はこれを歓迎したが、仏教諸派(32宗派)は仏教とキリスト教が同列に扱われたことを不服とし、議会が紛糾して否決された。

これを対岸の火事のようにみていたのが全国神職会。そしてここぞとばかりに「神社局」の設置の運動を開始。そして意外なことに明治33年にすんなりと設置された。それは(1)神社局はもはや神祇官を想起せしめるものではなくなっていた、(2)内務省が局の新設に前向きだった、(3)いずれにせよ社寺局の名称変更が必要だった、という事情があったと考えられる。すなわち実際上は社寺局が「宗教局」と「神社局」に分割された。もともと小さい社寺局であったから、神社局は他の一課くらいの規模だった。しかしそれが宗教局と別に設けられたのには大きな意味があった。神職たちの希望通り、神社は宗教ではないということが行政機構の上で明確になったからだ。

そして神社局を勝ち取った神職たちは、その運動の結果として「神社局ー関係議員ー全国神職会」という神職の全国組織化と行政機構への組み入れを成し遂げた。これが宗派を超えて一枚岩になれなかった仏教とは違い、その後の神社をめぐる行政に大きな役割を果たしていくことなるのである。また神社局が中心となって「神社協会」が設立(明治35年)、直後には全国神職会は「神社局と方針を共に」することを規約に明記し、一種の御用団体となっていく。神職・関係議員はこうした基盤を整えた上で、「神社改正ノ件」の廃止に乗り出した。

それまでの間も、「神社改正ノ件」は種々の修正を加えられていた。神社は、予算不足で保存金の貯蓄が思うようにできず、将来の「独立自営」のためのお金を切り崩さざるを得なくなっていた。ということは補助金期間が終われば経営が行き詰まる。そうなると神社を「独立自営」に移行させようとする「神社改正ノ件」の元々の趣旨が崩壊する。よって補助金の増額が行われ、また経費・経常営繕費ー共通臨時営繕費ー永遠資本金(保存金)の比率も「50%ー15%ー35%」から「70%ー25%ー5%」とする改正が明治34年度から実施された。これは明らかに「独立自営」から遠ざかっており、政府もそれを認めていた。

神職・関係議員たちはこうした状況を逆手に取り、官国幣社の経費を国庫支弁にすること、府県郷村社の経費(神饌幣帛料)を府県郡市町村に負担させることの2点(「二大問題」)を議員立法で要求。内務省としても「独立自営」路線が破綻しているのは明らかなため、この法案が通過した方が都合が良かった。しかし府県郷村社はあまりに数が多いことから公費支出が現実的でない。そこで、神社合祀によって数を減らすことが論議されるようになるのである。ただしこれは当初は到底現実的でないと反対論が優勢で、全国神職会も財政難から十分な活動ができず「二大問題」は進展しなかった。

ところが、明治37年に省内最年少の水野錬太郎が神社局長に就任したことをきっかけに事態が動く。神社局は最小の局だったので、廃仏毀釈を知らない世代、明治元年生まれの水野が抜擢されたのだ。彼は「二大問題」を解決すべく議員立法ではなく政府として議案を提出した。そしてあっさりと保存金制度を終わらせ官国幣社の経費は国庫支弁となり、府県郷村社の神饌幣帛料を府県郡市町村から支出することが勅令で可能となった。まさに一瀉千里で「神社改正ノ件」のプランは瓦解した。ただしこの政策では、府県郡市町村から府県郷村社全てに強制的に支出しようとしたのではない。「神饌幣帛料ヲ供進スルコトヲ得」とし、共進する神社の指定は地方長官が行うこととした。

一見、これは神社を保護する政策かに見えたこれが、結果的には神社合祀、すなわち神社の大規模な合併運動を引き起こしたのである。すなわち、神饌幣帛料を地方政府が供進する神社は「独立自営」できるような重要なものに限られたから、その指定を受けることは神社を「選別」することであり、より広い氏子圏、経営基盤をもった選別に耐える神社を創出すべく弱小神社の合併をもたらしたのである。そして内務省も神社合祀を促進する政策を行い、神社合祀が国家レベルの政策として展開していった。

これは内務省としては「社寺合併」を謳っており寺院も対象としていたが、実際に合併が行われたのはほぼ神社である。この運動は地方改良運動と結びつけられ、地方局府県課長井上友一が就任して運動は頂点に達する。神社は「町村の民心結合の核」として編成し直された。これに最も反対したのは和歌山県選出代議士の中村啓次郎。彼は明確な神社宗教論に立ち、合祀は宗教心を損なうとして反対した。一方で、全国神職会も、大津淳一郎などの神道関係議員も神社合祀には内部の意見の違いなどから反対せず、神社の激減を拱手傍観した。

こうして、神社は「独立自営」を求められ国家から距離を置かれていた19世紀とは全く異なる存在となった。神社合祀という痛手はあったにしろ、国家・地方政府と明確に結びついた存在として他の「宗教」とは隔絶したものになったのだ。そして神道関係者たちは、改めて神祇官の再興と、神道を国教になぞらえることを希望するようになる。とはいえ、神社は宗教ではない、という建前でこれまで進んできた。神社が「国教」になったら、それは宗教なのか? 神社非宗教論は揺らいでいた。

一方、反目してきた宗教者たちは日露戦争の遂行を前に協調を図るようになった。そして内務官僚の床次竹二郎も各教の代表者を会同させることを計画。床次が明治45年に出した「私見」では「国民一般に、宗教を重んずるの気風を、興さしめんことを要す」として三教(仏教、神道、キリスト教)を協調させることを計画、政府と三教の代表での協力関係が確認された。明らかに国家と宗教との関係は変質していた。その変質の先にいわゆる「国家神道」があったのである。

本書全体を通じて、国家と宗教の関係のターニングポイントを一つ選ぶとすれば、内務省神社局が創設された時だろうと私は思う。これは行政機構上の小さな改組ではあったが、宗教局と神社局が分割され、神社が宗教ではないという解釈が行政機構の上で確認されたことは理念的にも大きかった。神社非宗教論は今から見れば詭弁に等しいが(当時でも詭弁だと見なす人は多かった)、その詭弁が歴史を動かす力になった。そして神社のみを扱う局ができたことは、神社のみに焦点をあてた政策の実行が自然と催され、明治初年とは違った形で神社が優遇されるきっかけになったのである。

本書に述べられるその経緯は、村上重良が『国家神道』で描いたものとはかなり異なっている(なお本書では「国家神道」の用語は慎重に避けられている)。村上重良は「国家神道」を明治初期の政策の延長線上に出現したものと捉えているが、本書ではそうではない。明治10〜20年代には国家はむしろ世俗的であった。神社勢力は国家から見放されつつあり、そのプランこそが「神社改正ノ件」であった。神社勢力はこれを挽回すべく関係者を総動員して予算面・組織面の改善を図ったがうまくいかなかった。こうして国家は宗教的なリベラル路線に進むかに見えた。しかし神社は宗教ではないという論理を押し通し続けた結果、明治33年「神社局」の創設にこぎ着け、そこから先は彼ら自身も意図しなかったほど神社は国家と親密な関係を樹立していくのである。

ただし本書ではよくわからなかったところもある。明治はじめに「神社は宗教ではない(国家の祭祀である)」と整理されたとき、神社における宗教的な部分は「教派神道」として分離されたが、教派神道は上述の動きにどう関連していたのか、あるいはしていなかったのか、本書には詳らかでない。そして教派神道が、神社非宗教論をどう見ていたのかも、ちょっと気になった。

本書は全体を通じて、議会議事録などを執拗なまでに丁寧に追い、成案を見なかったり、審議未了になったりした事項までも追求している。神社や神道を巡る水面下の動きが克明に描き出される様はエキサイティングですらあった。

世俗的になっていた国家が、どうして宗教的に揺り戻されていったのか。本書はそれを水面下の動きから解明した労作である。

 

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

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