2023年1月9日月曜日

『「文明論之概略」を読む』(上中下巻)丸山 真男 著

丸山真男による福沢諭吉『文明論之概略』の講義録。

著者丸山は、岩波書店の編集者に『文明論之概略』(以下『概略』)についての講義を依頼された。編集者たちによるそのテープ起こしを基にまとめなおしたのが本書である。本書の元となった講義は、『概略』を丸山が注釈しながら読んでいくというものであったから、本書には『概略』の本文はポイントのみしか載っていない。よって本書冒頭に、「本書は必ず『概略』のテキストを座右に置きつつ読むこと。『概略』を読まずに本書だけを読んで『概略』がわかった気になってはいけない」と口を酸っぱくして書いてある。

ところが、私は『概略』はもちろん所有しているものの、手間を惜しんでいちいち参照せず、本書だけを読んだ。よって本書の真面目な読者とはいえない。以下、邪道な読み方をしたことを前提として書く。

福沢諭吉の評価は割れている。一万円札の肖像になっているくらい有名で、また明治初期を代表する言論人であることは確かだ。しかし彼の言説を顧みてみれば、例えばアジアへの侵略を正当化する「脱亜論」や、朝鮮革命への裏からの関与に代表されるような国家主義との結託があり、高い評価が確定しているとは言えない。むしろ戦後は福沢批判の方が強勢だったかもしれない。そんな中で丸山真男は福沢諭吉を称揚し、擁護した。そんな丸山にしても、福沢の最高の仕事が『概略』であるとしているのは含みがある。明治10年までの福沢は啓蒙思想を代表する思想家とされてあまり批判はなく、評価が割れているのは晩年の福沢の方だからだ。やっぱり晩年の福沢は今ではちょっと評価できない、というのは確かのようだ。

本書では『概略』の注釈であるからその内容を一つひとつ解説していくが、私は「真面目な読者」ではないので網羅的にメモすることはせず、まず全体的な印象を述べる。

その印象を一言でいえば、「ものすごく現代的」ということに尽きる。まずその調子が、丸山も言う通り「嘲弄的」であり、あたかも「俺の言うことが理解できないやつはバカ」とでもいいたげな様子である。そして本書冒頭の「議論の本位を定めること」というのが非常に今っぽかった。これは、「これから〇〇のために何が必要かを議論しますので、本題に入る前に交通整理をしましょう」という話である。当時の議論は各々が勝手に自己主張するようなものであったので、福沢は議論が錯綜しないようにその土台を厳密に構築したのである。それは理解できる。しかしながら、このような議論の整理を厳密にすれば、どのような議論でも正当化できるような気がしてしまった。もちろん福沢は、今から見て無茶な主張をしているわけではない。それどころか、今から見ても十分に通用するような先進的議論をしている。例えば「異論を認めること」とか「人々の自由こそ社会が発展する基盤」といったようなことである。しかしそういう主張をするために、周到に反論をつぶしながら最後に嘲弄的な様子で畳みかけるのが、良くも悪くも実に今っぽい。

では『概略』の目的とするものは何か、それは「ヨーロッパの文明」を日本に導入することである。なぜそれが必要かというと、日本が国際社会の中で独立を保っていくためには「ヨーロッパの文明」が不可欠だから(と福沢は考えた)である。しかし福沢は、西洋文明を絶対視していない。彼は2度アメリカに行き、またヨーロッパも幕臣として歴訪していた。であるから、西洋文明が額面通りに受け取れないものであることはよく承知しており、手放しで西洋礼賛したわけではない。それどころか自由や独立を喧伝しているヨーロッパ人が中国人を犬のように扱っているのを見て、文明の美名のもとに隠された実態を知っていたのである。さらに福沢は一人ひとりの資質は日本人の方が優れているとさえ考えていた。それでも日本では社会の仕組みが悪いため、一人ひとりが優れていても社会全体としてはその能力が発揮できず停滞していると福沢はいう。だから、西洋文明には悪いところもあるが、そのよいところを取り入れて社会を改良していこうではないか、というのが福沢の考えなのだ。

ではそもそも「文明」とは何か。これが本書で展開される「文明論」である。といっても福沢がいう「文明」は、ガス灯とか牛鍋のようないわゆる「文明開化」で持てはやされたものではなく、文明を動かす力、文明の基となる人々の精神の方を取り上げる。具体的には、福沢はフランスのギゾー『ヨーロッパ文明史』とイギリスのバックル『イギリス文明史』を大きく援用して「文明」を語る。なお本書ではギゾーがいうには…のようにいちいち出典が明らかにされない。また福沢はギゾーらに準拠しながらも、日本の状況に巧みに置き換え、わかりやすい比喩を挟みつつ説明している。これは今でいえば剽窃になるかもしれないが、かなりこなれたアレンジだと思った。そしてそのアレンジには、儒教の古典が縦横に引用される。もともと福沢は適塾で学んでおり儒学を極めていた。にもかかわらず福沢は儒教にはあまり価値を置いていない(というか辛辣に批判する)。それなのに古典から自由に引用しているのが意外でもあり、また当時の学術的な知の在り方を窺わせるものでもある。

そこで展開される文明論は、統治形態、つまり政治機構の歴史が中心である。彼は日本の歴史を批判的に検証し、いわば「歴史観」をひっくり返す。そして福沢は、有徳なものが統治すれば世が治まるという儒教的な統治論を否定し、人民の考えこそが歴史を動かす力であり国家の基本であるという、一種の民主主義を述べる(明治維新も、門閥政治の打破を目指した人民による革命だと福沢は見ていた)。しかし福沢は多数決とか世論といったものの危険性をよくわきまえていた。だからこそ、国家が発展するためには一部の指導者層だけが道理をわかっているのではだめで、世の中の多くが発展を目指して動かなくてはならない。そのために福沢は『概略』を著して「衆論」を主導しようとしたのだった。

江戸時代には徒党を組んで議論をすること自体が禁じられており、日本には政治に関する民衆の議論そのものがなかった。福沢はこれからの世は「衆論」を興すことが重要だとし、そのための出版の自由、演説による大勢への訴え、議論の習慣、そしてその基盤となる学問の重要性などを訴えるのである。一方で、福沢が全く歯牙にもかけなかったのが道徳、徳の問題である。当時は維新直後のアノミー状態が続いていて、道徳的頽廃が進んでいた。ところが福沢は(伝統的な)徳は、尊重すべきだけれども(としつつも福沢は伝統的な徳を明らかにバカにしており、あまり尊重している様子はない)、文明とは別の問題、として切り捨てている。当時としては「徳義」は政治的に重要な眼目だったにもかかわらずだ。

宗教についても似たような考えで、当時の多くの開明派が西洋文明の基盤にはキリスト教があると考えていたのに、福沢は「宗教などどれも似たようなもの」と述べ、宗教全般に対して冷めた目を向ける(ある意味神仏を擁護する)。文明の導入はあくまで智愚に関することで善悪とは関係ない、というのだ。この辺りもクールな現代人的であると思った。さらに政治権力がその正統性を宗教に負うことを批判的に捉え、「現代ではかつては鬼神のせいだとされていたことが科学で解明されてきているのだから、信仰が失われるのも当然だ」と科学万能論的無神論を主張する。そして宗教にとらわれるよりも、精神の自由の方が大事だ、というのである。当時としては異端な主張だ。

そして宗教や徳ではなく、社会のルールの方を精緻化し、政治を技術的な問題に落とし込もうというのが福沢の考えだ。人々を統治する・人々が統治されるための、合理的なやり方を開発していこうというのだ。つまり福沢の議論は「法治主義」を貫く。しかし、その後の日本は法治主義を十分に発達させることなく、国家の運営が国民一人ひとりの個人規範に埋め込まれていく「徳義の社会」になったのは周知のとおりである。

こうして文明論を語った福沢は、『概略』後半に日本の問題へと切り込んでいく(『概略』第9章 日本文明の由来)。福沢は日本の歴史を顧みて、そこに「権力の偏重」という大きな問題があると見る。「権力の偏重」とは、あらゆるものに上下関係が設定され、上のいうことは絶対、下には偉そうにふるまう、というように、対等な関係がないことをいう。これは極言すれば、社会のすべては治者に責任があるということだ。だからこそ福沢は「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」というのである(『学問のすゝめ』第4編)。例えば太平洋戦争終結時に連合国軍は、日本人はあれほど狂信的な戦いを続けたのだから政府が降服しても国民は自発的なレジスタンスが続くに違いない、と予想していた。ところが現実には政府が降服したら連合国軍のいうことが絶対、というように国民がすっかり変わってしまった。これは日本人には国を作っていくのが自分たちだという自覚がなく、単に上に従っているだけだという象徴である。要するに日本人は政府の奴隷に過ぎない。そして日本人は上への従順だけがあって、横の連帯意識がない。日本では「独立市民等の事は夢中の幻に妄想したることもある可からず(下巻p.117)」。これも今の日本にそのまま当てはまることだろう。

次に福沢は「日本文明」の具体的なあり方を検討する。最初は宗教だ。そこで福沢が神道をたった4、5行で片付けているのが面白い。明治8年の段階でも神道は全く重要なものとみなされていなかったようだ。そして日本の仏教は俗権(政治権力)に寄生して存在してきたと一蹴している。なお文明史を述べるところでは、ヨーロッパでは宗教(教皇)と王権(俗権)が分離したことが強調されているが、それがここの伏線になっている。

次に学問である。儒学は一種の御用学問であり、日本の歴史を通じて学問はついに民衆のものとなることなく、政治権力に奉仕するものに過ぎなかった。江戸時代には、民衆が自主的に学び、また政治権力と距離を置いた儒学の系譜が生まれたが、明治以降にはかえって教育が政府によって人々を支配する道具となっていったのは皮肉である。

さらに支配階級であるところの武士(のエートス)に筆は進む。福沢は自分自身もかつて武士であったが、『概略』では武士のエートスのマイナス面ばかりを強調している。それは要するに「上にへつらい、下に威張る」だけで存在自体が社会の停滞の一因だった、というものだ。

このように論じて、「日本は古来、文明を進めるために必要な一国の体をなしていない(下巻p.171)」と福沢は断じる。ではどうすればいいか。これについて福沢は具体的な処方箋を提示しない。それは「概略」の議論の範囲を超えたものだからだ。しかし福沢は日本の改革を人々の気質を変えようとするより、むしろ理財(経済)面の発展に託していたようだ。要するに「これからの社会は武士的であるより商人的で行こう」というようなことだろう。「「品行」「ディグニティ」「敢為活撥の気象」を具えた「ミドル・クラス」が成長することこそ、彼の畢生の念願だった(下巻p.200)」。

しかし彼は次章(第10章 自国の独立を論ず)で、金儲け万能主義を批判する。品行なき商業はむしろ害悪であると福沢は考えた。では日本はどうしたらいいのか。福沢はこの結論にあたる章で、尊王論的国体論、聖人の道、キリスト教立国論、万国公法論、攘夷論・軍事的ナショナリズム論、鎖国復活論を一つひとつ取り上げ、否定していく。そして現実の外交(福沢の用語では「外国交際」)が「禽獣の道」であることを自覚しながらも、西洋列強と並ぶ国際社会(西洋的国家システム)へ入っていくほかない、と断言するのである。そのために必要な条件は、日本が「主権国家」であり「国民国家」であることだ。

19世紀の世界で「主権国家」として西洋的国家システムに入りえたものは、東アジアでは日本しかない。「日本を西洋の属国にしない」というような曖昧な表現ではなく、明確にその条件を述べた点で、福沢はやはり慧眼だったといわねばならない。ただし先述の通り、どうやってそれを実現するかの議論は「概略」の範疇を越える。だがこうして文明を論じてきた『概略』は、その総括として日本の「独立」をパセティック(悲壮)に主張するのである。そして国の独立を達成するために必要なのが、全国民の「国民としての自覚」であり、「独立自尊の精神」ということになる。それは外国交際は、よくも悪くも必然的に国民全員の精神に影響を及ぼしていくからで、特に外国人がその非情な論理で日本を蹂躙していく(と福沢は予想した)ことで、日本人は否応なく奮起せざるを得ないだろう、というのだ。

これは「概略」の議論をあまりに単純化しているとしても、この論理展開では福沢が考えたのが「国家の運営が国民一人ひとりの個人規範に埋め込まれていく「徳義の社会」」と相似形の社会だったとみなされてもしょうがない。『概略』のこの結論は、福沢が後年批判されることになる国家主義が明治8年の段階ですでに胚胎していたという兆候なのかもしれない。全体的には人々の自由や平等、独立を標榜しつつ、それが奇妙に国家の目的へと統合されていくのが私の『概略』の印象だ。もちろん、人々の力を総動員しなくては日本は独立を保てなかったのだ、というのは事実だろう。しかし福沢はついに「国家など知ったことか」とは言わなかった。「国家」は人間が生きていくための装置でしかない、といったドライな認識を示しながら、やはり「国家」の側から人間を捉えたのが福沢の限界であり、それが後年になって批判されることになった淵源であろう。

しかしながら『概略』の議論は、様々な面で現代的であり、いまだに有効な主張がたくさんある。率直に言って、今の日本ですら、福沢が理想とした社会・国民の資質に全く到達していない(=文明化されていない)。福沢の皮肉屋で嘲弄的な調子には品のなさを感じるが、彼は狙って偽悪的に叙述し、人々の奮起を促している(ような気がする)。「反論できるものなら反論してみろ」と福沢が言っているようだ。そして21世紀の日本人も、福沢に反論できるとは思えないのでる。

なお本書は口頭での講義を基にしたものであるため、初版上巻は事実関係の間違いがとても多く、著者丸山真男は本書を公刊したことを後悔したくらいである。読むならば第2版以降をお勧めする(なお初版中巻に上巻の正誤表がついている)。

『文明論之概略』講義の稀有な記録。


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