2023年1月22日日曜日

『思想史講義【明治編Ⅰ】』山口 輝臣/福家 崇洋 編

明治時代をキーワードで読み解く本。

普通「思想史」というと、時代を代表する思想家の著述を取り扱う。明治初期だと、福沢諭吉や中江兆民といった人たちだろう。とこが本書はそういう切り口ではなく、時代を象徴する16のキーワードを概説する形で明治時代を語っている。そのキーワードと著者は次のとおりである。

「王政復古」清水光明、「祭政一致」山口輝臣、「公議」奈良勝司、「修史」佐藤大悟、「万国公法」川尻文彦、「征韓と脱亜」小川原正道、「自由民権」真辺将之、「政論」松田宏一郎、「郡県と封建」湯川文彦、「富国強兵」鈴木 淳、「文明開化」谷川 穣、「人種改良」横山 尊、「国語」安田敏朗、「自治」渡辺直子、「衛生」赤司友徳、「元気」高山大毅

またこのほか、8つのコラムがあり、短いながらも興味深い論点を提示している。そのタイトルと著者は次のとおりである。

「本願寺」辻岡健志、「アイヌ」マーク・ウィンチェスター、「琉球」草野泰宏、「亡命朝鮮人」茂木克美、「玄洋社」石瀧豊美、「新聞」寺島宏貴、「士族」内山一幸、「宣教師」藤本大士

 これらについてそれぞれメモを書いてしまうと長大になるので、以下私が気になったもののみ述べる。

王政復古:天保改革期、メディア環境は大きく変化した。この時期に出版統制が行われるのと並行し、実は規制が緩和されたのだ。天保13年(1842)「新板書物之儀ニ付御触書」で学術書に限り歴代将軍の事績などを記述することが可能になった。中井竹山『草茅危言』、荻生徂徠『政談』や歴史書(『日本外史』など)が公然と流通し、江戸時代の上皇の著作(後水尾天皇『当時年中行事』、霊元天皇『元陵御記』)なども出版される。こうして、政治論や歴史書を読みふけった世代が「復古」を目指す幕末の志士として活躍していくのである。

そして、そんな「政治の世代」だけでなく、実は幕府自身が「復古」を強調するようになっていた。安政期以降、幕府の政治文書で「寛永以前」が多用されるようになる。鎖国以前に返ることで開国を正当化したのである。将軍家茂も「質直之士風」に復古したいと述べている。久留米藩の真木和泉の献策「経緯愚説」にはすでに神武創業への言及もある。島津久光は「皇国復古」を掲げた。足利三将軍梟首事件の捨札にも「今や万事復古し、旧弊一新の時運」とあった。

これらの構想は、武家政権以前の朝廷中心の政治体制ということ以外は曖昧であったし、現実的には王政復古は行い難いとみなされていた(島津久光など)。それを意外な形で具体化したのが土佐藩の後藤象二郎で、彼は西欧をモデルとした二院制の議会を京都に設立することを「王政復古」としたのである。

祭政一致:祭政一致はなぜ王政復古の詔で掲げられたのか。これは祭祀と政治が一致するということであるが、その起源は何か。それは北畠親房の『神皇正統記』と見なすのが定説である。そこでは上古の中臣氏について述べた文脈でのことだったが、やがて拡大解釈されていく。特に「祭り」と「政(マツリゴト)」が同じ訓であることは決定的な論拠とされ、古代天皇制の特質と考えられるようになった。山崎闇斎の垂加神道でもそれが主張された。本居宣長は言葉の原意を探っていく考察の中で「天皇の政をマツリゴトとすることはあり得ない」との結論に至ったが宣長の説はあまり影響力を持たなかった。

明治維新で「神祇官」が復興されると一度は祭政一致体制となったが、それはすぐに修正され神祇官は廃止された。その後、神祇官を再興しようという運動が続いていくが、「祭政一致など憲法違反だ」「祭政一致は過去のものだ」と一蹴され、結局再興されることはなかった。

公論:ペリーの来航後、老中阿部正弘はその国書を公開して広く意見を求めた。これは専制的に運営されてきた幕府にとって異例のことで、以後人々は政治的議論を戦わせることになる。そして様々な階層の人々が自らの意見を建白の形で提出し「言路洞開」を求めた。しかし彼らはみんなで意見を出し合えばよい結論が出るはずだとのナイーヴなイメージを持っており、多様な意見をどう糾合するか、意見が対立したときにどうするかといった議論の仕方については関心が薄かった。また、薩摩藩の大久保利通が「衆議」を味方につけようとして、かえって衆議からしっぺ返しをくらったように、衆議は収拾がつかなくなる危険性を帯びていた。よって明治維新後は、期待された「公議所」も各藩の正論が衝突してうまくいかず早々に諮問機関に格下げされ、政権はむしろ全員一致主義に傾いていった。

万国公法:『万国公法』は、米国の著名な国際法学者ヘンリー・ホイートンの『国際法原理』が1864年に中国で翻訳出版されたもので、すぐに日本に伝わり幕末に開成所より翻刻された。勝海舟、横井小楠、坂本龍馬、中岡慎太郎が『万国公法』に言及しているが、広く読まれたのは間違いない。なお開成所版以外にも和訳、訓読本が各地で作られている(鹿児島では重野安繹が1870年に訳述)。『万国公法』は難解ながら原文に忠実な漢訳だったが、漢学者たちの理解を通してだったことで、万国公法は日本では「性法(理性によって自然に定まる法)」「天地の公道」「天理」として受け取られた(実際には違った)。あたかも「万国公法」が天理に基づいて行われる国際社会の秩序であり、そこへの参入が文明化であると。しかし外交の現実では「万国公法は弱国を奪ふ一道具」(木戸孝允)にすぎなかった。こうして国際社会への幻想「万国公法」は消えていった。

自由民権:自由民権運動は、民衆に根差した運動ではなく、むしろ国家主義を志向していた。「民撰議院設立建白書」には租税共議権の考えや民衆に参政権を与えよという主張があり、また各地で「私擬憲法草案」が作成されるなど、権利や自由の思想が広まっていなかったわけではない。「愛国公党」の出現は、政治に関して私的に団結することが重罪とされていた近世的桎梏の打破でもあった。しかしそれらの動きは、結局は国家に結びつくことを前提としたものだった。よってそれらは団結論=一大政党論を形成していく。ただし異なる政党が並立することを前提とした立憲改進党(大隈重信)の創設はそれらとは趣を異にした。

富国強兵:富国強兵は明治政府のスローガンの一つと思われているが、明治初年にはあまり使われていない。むしろ阿部正弘が「富国強兵之基本」と開国を捉えたり、太宰春台の『経済録』(1729)で富国強兵が主張されるなど、江戸時代から使われていた言葉である。また慶応元年(1865)には将軍家茂は列国に対して国を閉ざすために富国強兵を進めてきた、と朝廷に説明している。明治政府がこのような言葉を積極的に使わないのは当然だ。国民への教導運動を行った教導職たちも、積極的に富国強兵を説いた形跡はない。しかし次第にこの言葉は再定義されてゆく、福沢諭吉は『文明論之概略』で強兵の土台として富国を論じ、西村茂樹は「富国強兵説」という演説で富国強兵に道徳的・質実剛健な社会・風俗という意味を込め、文明開化と対置させた。こうして1880年代半ばには江戸時代からの言葉のイメージが払拭され、知識人も遠慮なくこの言葉が使えるようになった。

文明開化:文明開化は肉食、特に牛鍋によって表象された。角田米三郎は、肉を食うことが「復古」であり文明開化だとして100万頭の養豚事業を計画した。種豚証券を発行して金を集め、希望者に種豚を預けて飼育させ、育った豚を買い取って販売した利益を配当する、という構想だ。大真面目な事業だったが、予想以上に肉食が広がり豚肉の価格が下落したことで立ち消えになった。一方、佐田介石という西本願寺派の僧侶は「ランプ亡国論」など舶来品排斥運動で民衆に熱狂的に支持された。貧民には貧民なりの消費生活が維持されるべきであり、舶来品は経済構造を変えてしまうのでよくない、という主張だった。角田と佐田のやったことは正反対だったが、文明開化が庶民に及ぼす影響を考えた点では共通していた。

自治:「自治」は明治10~20年代に新鮮に映った言葉であった。人々は「自治」に期待した。当初(いわゆる新三法)の自治は、町村の領域を「私」とみなしていた。「私」の領域に国家が介入すべきでないから自治に任す、という論理だった。しかし1884年の改正で町村は国家の下請け機関的に扱われるようになる。一方で、旧幕以来、町村が自治的に運営されてきたことが発見され、井上毅は「地方自治制ノ意見」(1885)で「旧来町村ノ制ハ自治」であると断言した。ただし井上は自治の唱道者ではなく、府県制・郡制の導入にあたってはそれが自治機関にならないよう主張した。明治初期の政策担当者たちは、旧幕時代の「自治」を発見したことで、日本でも自治(立憲体制)が可能であると考えたようだ。

衛生:「衛生」という言葉を作ったのは、適塾出身で、オランダ人軍医ポンぺに学んだ長与専斎である。衛生はすでに明治前に始まっていた。その一例が種痘事業であり、嘉永2年(1849)以降に本格的に普及していった。開港以来、西洋医学が流入してくる中で、医療だけでなく公衆衛生を行政的に進める必要が日本人医者に痛感されていった。幕府医官らも西洋医学に基づく養生書を刊行しており、近世の衛生=養生思想の普及に一役買っている。またポンぺは幕府に対しても衛生行政の必要性を訴えた。薬事行政は漢方医の抵抗もありスムーズには進まなかったが、安政のコレラで幕府が認識を変えたこともあり、種痘事業は概ね順調に進んだ。

全体として本書は、明治時代を近世からの断絶と見るのではなく、むしろ近世からの連続と捉える視点で貫かれている。明治時代を表象するといっても過言ではない「富国強兵」が近世からの言葉であり、むしろ近世的な負の語感を払拭することで人口に膾炙するようになったとの指摘は驚きである。他にも、公論、万国公法、衛生といったものが実際には近世に淵源を持っていた。それどころか公論や万国公法は、幕末の方にその重点があり、明治後にはかえって後退していっているように感じられる。

なお「講義」を名乗っているだけあり、一つ一つの論考が読みやすい分量でまとまっており、論考の後ろにはさらに考えを深めるための参考文献とその解題が掲げられていてとても便利である。まさに大学の講義を受けているような感じを抱いた。

明治時代を多面的に再考する、読みやすい本。

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