2023年1月2日月曜日

『京の社—神と仏の千三百年』岡田 精司 著

京都の代表的な神社の歴史を述べる本。

京都には日本を代表する神社がたくさんある。本書は、それらから約20社を選び、神社の変化を通じて神仏の歴史を述べるもので、「「国家」と「天皇」から開放された自由な視点で、しかも科学的に記述された平易な一般的な本(p.6)」として書かれたものである。

私自身の興味としては、近世から明治維新に神社がどのように変化したかということにあるので、以下そこを中心にメモする。なお例えば第1章は「県主の神から王城鎮護の神へ」などと表題がつけられているが、ここではそこで取り上げている神社を見出しに代えた。

第1章 二つの賀茂神社:上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(鴨御祖神社)は、共通の大祭を挙行するなど密接に関係しながらも別の神社として存在している。この神社は元は一つの神社で、古代から民衆からの支持を集め、祭りに群衆が押し寄せたため朝廷は禁令を出すほどだった。天平10年(738)、朝廷は禁令を撤廃する代わりに賀茂神社と賀茂県主家の勢力分断を図り、神社を二つに分けたのである。こうして朝廷により掣肘を受けていた両社だが、長岡京以後は伊勢神宮並の国家の最高神として遇せられるようになる。例えば賀茂神社には天皇家から「斎王(いつきのひめみこ)」が派遣された(承久の乱で断絶)。なお5月の賀茂祭の中にある葵祭は、勅使を迎える祭のハイライトであるが、応仁の乱以降は中断し、元禄7年(1694)に再興されている。これは史料を元に再興されたものであるから古代の儀式ものそのものではないが、この勅使奉幣の祭儀が現在の他神社への勅使奉幣の基準となっている(全16社)。

第2章 伏見稲荷神社:古代の稲荷の信仰は稲荷山の三つの峰を祀ったものであるが、応仁の乱の時にこの峰は戦火に見舞われて全ての社殿・宝物は焼失した。現在の本殿は室町時代に再建されたものである。稲荷信仰は朝廷と結びつくことなくあくまで民衆的なものとして発展したことが特徴。大祭「稲荷祭」は戦国時代に中断し、江戸時代の安永3年(1774)に再興された。伏見稲荷は東寺との関係が深く、平安時代後期に土地を守る地主神として東寺の鎮守神になったものとみられる。伏見稲荷の神職には「秦氏系」と「荷田氏系」の二つがあるが、両系統の勢力関係が東寺との関係に影響しているようだ。なお荷田氏は竜頭太の子孫とされる一族で、国学者の荷田春満もこの一族。秦氏一門が神職を務め、荷田氏はその下で働いていたが両氏はなにかにつけ対立していたという。なお稲荷神社は他の大社と違って御師がいない。稲荷信仰は宗教者が組織したのではなく、あくまで民衆の自発的なものだった。明治期に建てられた境内の大量の「お塚」はその象徴である。

第3章 日吉大社:日吉神社は、古代からの比叡山の山岳神を祀ったものであり、元来は「ヒエ神社」といったようだが、これに「日吉」の字が宛てられ、これが平安時代に入って「吉」の読みがエからヨシに変わって「ヒヨシ神社」になった。近代にはこれを古代の呼称へ戻す動きがあったが、今では地元の人もヒヨシと言っている。日吉大社は山王二十一社と多くの末社から構成され、山・岩・泉・樹木の崇拝など古代信仰の要素と、神仏習合の要素が様々に残り、さながら「古代信仰の博物館」である。日吉の神々は明治維新までは「山王権現」(山王元弼真君になぞらえた呼称)と中国風に呼ばれ、二十一社には全て本地仏が定められ仏教的な建築と雰囲気の場所だった。天台宗の神仏習合理論は「山王神道」として体系化された。ところで比叡山といえば信長の焼き討ちであるが、三塔十六谷の全てが焼き払われたのを再興したのが山王権現の大宮神主の祝部行丸父子。「彼は一切の資料が焼失した中で、祭祀から縁起・伝承、さらには社頭の景観や神像・建築・調度に至るまで、記憶によって復原し、多くの著作を残し(p.101)」た。延暦寺の天海僧正の復興事業と合わせて特筆すべき業績である。しかし明治時代になって神仏分離が行われると、山王社の二宮の世襲社司であった樹下茂国は神職らの武装集団「神威隊」と農民を率いて廃仏毀釈を行い、その後二十一社の名称も祭神も全てが改められた。

第4章 石清水八幡宮:八幡大神は東大寺の鎮守神として祭られたことでもわかるように国家と密接な関係を持っていた。石清水八幡宮が男山に創建されたのは、貞観元年(859)。それは藤原家が政権を掌握するための装置の一つだったらしい。そして元は「石清水八幡宮護国寺」といい、これは神仏が完全に融合した神社でも寺院でもない「宮寺(みやでら)」という特殊な宗教組織だった(神宮寺との混同に注意)。『延喜式』でも石清水八幡宮は神社として扱われていない。 運営は僧侶が担い、神官はその下にあった。また僧侶の最高位の別当職は紀氏の子孫が世襲していたが、彼らは妻帯し世襲するという僧侶としては特殊なあり方だった。また男山の山上には護国寺、麓には極楽寺という二つの中心的寺院があり、神仏習合形式の祭祀を支えていた。八幡神が国家の守護神となったのは、母子信仰を基盤として祭神を応神天皇母子として再構成したことによるところが大きい。さらに武士の時代になると源氏の帰依を受け、石清水から勧請して鶴岡八幡宮が鎌倉に創建。また御家人たちも各地に八幡宮を鎮守神として石清水から勧請した。明治維新の際には、山内の多くの堂塔は鳥羽伏見の戦いと廃仏毀釈によってほぼ破壊され、「宮寺」から完全な「神社」として転換させられた。「山上の中心的存在だった護国寺の跡も、今は雑木林の生えるにまかせたまま(p.128)」である。

第5章 北野天満宮:皇族でも藤原氏でもない菅原道真が右大臣兼右大将まで昇進したのは異例人事であった。そのため藤原氏一門の恨みを買い大宰府に左遷される。彼自身は不運を嘆きながらも強い怨みを持っていたわけではないが、月食・彗星・雷など都を襲う天変地異と関係者の突然死などをきっかけに、藤原氏専横への反発もあいまって道真の怨霊跋扈がささやかれ、宮廷や貴族ではない民衆の間から道真を神として祭ろうとする動きが起こった。こうして創建された北野天満宮は、死者の霊を神として祭る最初の神社となった。ちなみにこれも神仏習合の天台宗の「宮寺」である。11世紀初めからは比叡山延暦寺の下に置かれ、曼殊院が北野別当職を務めた。これは宮門跡の寺院であり、その下に松梅院・徳勝院・妙蔵院の三祠官家があって彼らは法体(僧形)で神前に奉仕し妻帯、そしてその下に俗体の神人(じにん)がいるという構成になっていた。そのうち西京の麹座神人は特に有名である。なお天神様が学問の神になったのは南北朝期からであり、菅公の霊が宋に渡って禅を修めたという「渡唐天神」の信仰が生まれてからである。

第6章 祇園社(八坂神社):中世を代表する信仰が、祇園社こと「祇園社感神院」の牛頭天王信仰である。それは神や仏の枠に収まらない、陰陽道の強い影響下に形成された異形の神格であった。中世にはこのような異形の神々が流行していたらしい。祇園社感神院ははじめ興福寺の末寺であったが延暦寺の末寺となり、京における庶民信仰の重要な拠点だった。天台座主が祇園社の検校を兼ね、その下に僧侶の組織があり神職はいなかった神仏習合寺院である。ここでも社僧は僧形でありながら妻帯世襲する者たちで、ここも「宮寺」だった。しかし明治維新後にはこれが神仏分離させられ、神像群は破壊されて、祭神もスサノヲに改変されて八坂神社となった。スサノヲとの結合は鎌倉時代から説かれ始め、吉田神道の下で強化されたようだ。なお現在の円山公園はかつて祇園社感神院・安養寺・長楽寺などの寺坊や堂塔が点在する場所で、明治4年(1871)に明治政府が接収(上地)し、公園としたものである。近代日本の都市公園は大寺院の境内地だった場所が多い。

第7章 吉田神社:吉田神社は宗源一実神道(吉田神道)によって全国の神社・神職を支配し、また寺院・僧侶から独立した数少ない神社である。吉田神社は元は奈良の春日神社から分祀したもので、神職を世襲した卜部氏は神祇官の雑事に従事する下級の役人であった。卜部氏はやがて神祇大副(たいふ)を世襲するようになるがこれは神祇官の次官である。卜部氏が別れて吉田氏と平野氏となり、両家は古典研究の家として厖大な古典を所蔵していた。現在残る国宝・重文の『日本書紀』などの写本は両家の人々の筆写によるものが少なくない。室町時代には吉田兼俱が出、彼が生みだした宗源一実神道によって全国の神社に影響を与えた。これは本地垂迹説を逆にした一種の神仏習合理論であり、彼は巧みな話術とその著作によって人々を惹きつけた。さらに文明16年(1484)には八百万の神々を全て祭る八角形の「斎場大元宮」を境内に設け、伊勢神宮までも吉田神社に移すという破天荒なことも計画した。兼俱は政治的手腕を発揮して朝廷の公認をとりつけ、伊勢神宮側は認めなかったものの斎場所内に伊勢神宮を祭ることに成功した。兼俱は「神祇官長上」と称したが、「長上」官とは、もともとは律令制度で勤務形態の常勤の官人をさすものに過ぎなかった。彼はこれをあたかも「神祇伯」と並ぶ長官のような錯覚を抱かせ、この権威を以て「宗源宣旨」と「神道裁許状」を出し、全国の神社に対して神階や神号の授与、装束の許可・笏や檜扇を持つ特権を与えていたのである。その後、天正18年(1590)には天皇家の神棚である「八神殿」が秀吉が聚楽第を建てる際に大元宮の北側に移され、吉田家では神祇官を名目的に復興させたとして「神祇官代」と称した。さらに江戸時代に入ると、幕府は吉田神社の権威を追認したため、全国各地の神社が大金を奉納して吉田家に「縁起」の製作までも依頼し、それによって全国の神社の祭神が記紀神話の神々に統一されていった。これは「明治維新の祭神統一政策の先駆をなす動き(p.197)」である。近世の吉田家は「大名に準じるほどの権勢と富を誇っていた(同)」。吉田神道の下に服さなかったのは、「伊勢神宮や出雲大社、賀茂神社といった幕府の認めた特別な大社。日吉山王社のような、天台宗・真言宗直属の大寺院配下の宮寺や神社。それに白川神道に属した一部の神社だけ(同)」であった。こうした神社支配も明治維新によって否定され、吉田家は華族に列せられて東京移住を命じられ、斎場大元宮も政府の命令で末社に落とされた。

第8章 豊国大明神と東照大権現:平穏に亡くなったのに神として祭られた最初の人物が豊臣秀吉である。彼が作った方広寺大仏殿(大仏は秀吉時代には地震の影響もあって完成せず、秀頼時代に鋳造)の鎮守八幡社として作られたのが豊国廟である。この豊国廟の境内は30万坪にもおよぶ広大なもので、創建時もさることながら七回忌がど派手で、京の街全体が熱狂の渦に包まれた。しかし江戸幕府はこれを社殿はもちろん墓所までも完全に破却し、僅か20年足らずで消滅した。なお大仏は江戸幕府によって溶かされ寛永通宝になっている。明治政府は1868年8月、豊国神社再興を決定。新日吉神社の神殿を仮の社殿として、その後方広寺大仏殿の跡地に再建した。明治31年(1898)には秀吉没後300年祭が盛大に挙行された。日清戦争直後で、秀吉が海外侵略の英雄としてクローズアップされた時期だった。

徳川家康の葬儀を行ったのが、吉田家の一門で豊国神社の社僧だった神龍院梵舜だというのが面白い。葬儀の翌年には後水尾天皇から「東照大権現」の神号が贈られた。これは南禅寺の金地院崇伝から「大明神」とする案がでたものの、延暦寺の南光坊天海が反対して天台宗の山王一実神道によって「大権現」を勧めたことによる。東照宮は伊勢神宮と並ぶ存在として幕府から扱われ、「東照」も天照大神を意識し、「宮」号にも特別な意味があった。東照宮は、京都にも金地院(南禅寺塔頭)境内と比叡山延暦寺の境内に分祀された。なお天海は東照宮を管理する神宮寺として日光山輪王寺を創始して門跡寺院とし、自らは天台座主として延暦寺・寛永寺・輪王寺を宰領した。その後、寛永寺門跡(関東在住)が延暦寺・輪王寺門跡を兼ね、天台座主に就任することが慣例となった。これは皇族(門跡)が幕府の廟に仕えるという朝幕関係を図式化したものといえる。東照宮の祭神は徳川家康だが、実は三尊形式で左は延暦寺の護法神の摩多羅神、右は比叡山の地主神である日吉山王権現である。これは明治政府の神仏分離によって源頼朝と豊臣秀吉に変えられ、延暦寺との関係も断たれ日吉大社の末社とされた。

第9章 白峰神宮・水無瀬神宮・霊山護国神社:明治政府は神社や神道を大きく改変した。明治8年(1875)には『神社祭式』という図入り手引き書を全国の神社に配布し、「神前の飾りつけ、祝詞の文章から祭具の細かい点にいたるまで、政府の方針通りに画一化(p.228)」したのである。そして明治政府は民衆の信仰や伝統とは無関係に神社を創建した。その一つが崇徳院を祭る白峰神宮である。崇徳院は讃岐に流されて国家を恨んで死に、歴史を通じて恐れられ、霊界の「大魔王」になったと信じられた。これが幕末の混乱期に想起され、文久2年(1862)が崇徳院700回忌に当たっていたことから国学者や公家から崇徳院の霊を祭る運動が起こり、新政府の下で実現したのが白峰神宮である。崇徳院の陵(白峰陵)から霊を移す神霊奉還の祭典が行われた慶応4年8月は会津若松城をめぐる攻防戦の真っ最中であった。こうして崇徳院の霊は、恐ろしい怨霊から皇宮守護の神へと転化したのである。明治6年(1873)、ここには「淡路廃帝」と呼ばれた淳仁天皇も合わせて祭られた。また同年、承久の乱で流刑となった後鳥羽上皇など三帝の霊もそれぞれの陵墓から奉還され、大阪府に水無瀬宮に祭られた。これらと前後し、戦乱で命を落とした皇子たちの霊を祭る神社が明治初期の数年間に次々創建されている。また維新前にも討幕派の諸藩が東山の霊山(りょうぜん)にそれぞれ藩ごとに殉難者の墓地をつくっていたが、これが明治政府によって「霊山官祭招魂社」として神社になった。昭和14(1939)に、戊辰戦争以外の一般の戦死者も祭るようになったので「京都霊山護国神社」と改称する。日本の宗教史の中で、味方の戦没者だけを英雄視して神道形式で祭るのは異例なことであった。

第10章 平安神宮・護王神社・梨木神: 明治22年(1889)の大日本帝国憲法制定の頃から、それまでと性格の違う神社が造られるようになる。平穏に生涯を終えた天皇たちの霊が神として祭られるようになるのである。明治23年の奈良の橿原神宮はその第一号だ(神武天皇)。明治27年(1894)は平安遷都1100年であったことで、これに向け国家の後援を受けて設立運動が起こり、記念祭の日程と重ねて第4回内国勧業博覧会を開催する計画で創建がスタートした。建設は巨費を要したがその大部分は民間募金によったという。この計画を経済界が支持したのは、沈滞気味の関西の経済を活気づける意味合いがあったのではないかということだ。鎮座の翌年には平安遷都千百年祭が盛大に催されたが、そこには陸海軍の戦利品展示場が設けられたり、軍備品が展示されるなど、天皇の神社が海外侵略の軍事行動と結びついてもいた。なお昭和15年(1940)には、紀元二千六百年記念行事の一環で孝明天皇の霊が合祀されている。護王神社は元は神護寺の境内にあった和気清麻呂の霊を祭る護王善神廟。孝明天皇から神号を贈られて神社となった。皇室の血統を守った功績が幕末期に回顧されたのであろう。梨木神社は三条実万(さねつむ)を祭る神社で明治18年(1885)に創建された。これらは「神社としては全く異例で、何故彼らが神とされたのか、不可解(p.261)」で、「明治政府首脳たちの政治的意図があった(同)」と思われる。その背景には、荒れるに任せていた京都御所を1880年頃から即位儀礼の場として保存し、周辺を整備する方針に転換したことがあると思われる。

本書は全体として、専門的事項を述べるものながら大変平易で面白い。私自身、最初は自分が関心ある第2章、第3章あたりだけ資料として読むつもりだったのに、面白くてつい全部読んでしまった。

また著者は「宮寺」を、神社・寺院とは別の第三類型=「僧侶が主導する祭祀形態」として強調しているが、これは私も全く知らなかったことである。これまで神仏習合について書いた本を読んできたが、これについては読んだ記憶がなかった。「宮寺」については著者も後書きで「この本で初めて一般向きに平易に書けた」と述べている。

上述したように、本書の中盤までの神社は古代に創建されていながら、祭神や儀式は時代ごとにかなり変わってきたり、断絶したりしている。特に本書を読んで応仁の乱が及ぼした影響は大きいと感じた。また断絶した祭などが再興されるのが江戸時代が多いのが印象的である。そして明治維新では信仰の改変と言うべき変化を蒙った。神社は古代から国家の影響を大きく受けてきた存在であり、明治維新ではそれが先鋭的に現れたといえる。

10のケーススタディによって神社と国家の歴史を述べた面白い本。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸時代の神社』高埜 利彦 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_28.html
江戸時代の神社や神道がどのようであったか述べる本。本書と合わせて読むと近世の神社の理解が深まる。江戸幕府の神社政策の概略がまとまった良書。


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