2023年1月6日金曜日

『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修

徳川家の女性たちを描く本。

徳川将軍家の中心が、将軍その人であることは言うを待たない。ではその奥方や娘たちは歴史に何の役割も果たさなかったかというとそうでもない。特に幕藩権力の成立期、そして幕末という、権力の不安定な時期には女性の存在が非常に重要だったのである。本書は江戸初期と幕末を生きた徳川家の女性の生涯を述べるものである。

伝通院お大の方(杉本苑子):伝通院こと無量山寿経寺に眠るのが、徳川家康の母・お大の方である。お大の方の系図は極めて複雑である。彼女は水野忠政の娘で松平広忠に嫁いだが、当時の婚姻は合従連衡の政略の手段であるから、その系図をちゃんと説明しようと思ったらとても簡単にはいかない。ともかく彼女は戦国時代を生き抜くための駒として、自分の幸せと関係なく離縁と結婚を受け入れなければならなかった。それでも彼女は平穏に一生を終えたから幸せな方であった。

築山殿(西村圭子):築山殿は家康の正室であるが、38歳で夫の命令によって息子の信康とともに殺害された。家臣団の中での織田派と反織田派の対立の犠牲になったのが二人で、全ての矛盾が築山殿と信康に押しつけられたのだった。築山殿は今川氏の一族(関口氏)の出で、今川氏と松平氏の協力関係の中で家康と結婚、嫡男信康を生む。信康はわずか9歳で信長の娘徳姫と結婚。この頃の婚姻は国政そのものであった。信康は長じては戦に天賦の才能を見せ、家康の信頼も厚かった。ところが信長は、突然「信康が武田勝頼に内通している」として殺害するよう家康に命じた。おそらくはそれは事実ではなく、信康が邪魔になった信長は、娘を嫁がせているにもかかわらず、というか嫁がせているからこそ排除する必要を感じ、家康にこの非情な命令を行ったのである。信康が狂気の性格であったというのは作り事なのだろう。しかしこれが信長の独断だったかというとそうではなく、これは築山殿・信康・石川数正に対してお大の方・酒井忠次・大久保忠世という、家臣団分裂の政争の結果でもあった。

英勝院(安西篤子):徳川家康には2人の正室と15人の側室があった。英勝院太田氏お梶の方は側室の一人で家康の末子市姫の母、家康最晩年の側室である。お梶は家康に寵愛され、関ヶ原の合戦に共をしたほどで、家康は戦勝後にお梶を「お勝」と改めさせた。どうやらお勝は野心家であったらしく、自ら望んで家康の側室であることを選んだようだ。家康の死後はただちに仏門に入り英勝院となった。そして家光の許しを得て鎌倉に英勝寺を建立。実母に愛されなかった家光は他の老女に母の面影を求めたのか、英勝院への気遣いは並一通りではなかった。英勝院が病を得ると懇ろに看病させ、幼い家綱を見舞いにやらせ、また自らも見舞った。英勝寺は今でも鎌倉唯一の尼寺である。

千姫(新免安喜子):千姫は徳川秀忠の長女である。婚姻が政治であり、縁組みは本人の希望など顧みる余裕などなかった時に、千姫は自分の選んだ相手と結婚した。当時としては奇跡的なことである。であるから千姫の事績には虚像がつきまとう。美しく、奔放で、悪女という虚像である。彼女を巡る系図も例によって複雑であるが、要するに彼女は豊臣秀頼に嫁いだ。しかし家康が豊臣家を滅ぼすときに、彼女は強制的に離縁させられる。一方的な離縁であったために彼女は縁切寺である満徳寺に一時入れられた。ちなみに彼女は秀頼の庶子を養女にして命を助け、鎌倉の東慶寺に入れている。後の天秀尼である。彼女は秀頼との離縁後、本多忠刻に恋して結ばれた。しかしせっかく生まれた男子は夭折。正室といえども男子を生まなくてはその地位は確立しない。よって江戸城へ戻らされた。竹姫は大奥のあるじとなったが、その後落飾して天寿院となり、家光の死後は徳川宗家の最長老となって陰の実力者となって手腕を振るった。

東福門院和子(水江漣子):東福門院こと徳川和子は徳川秀忠の娘で、後水尾天皇に嫁いだ女性である。幕藩権力を確立するため、彼女は後水尾天皇に14歳で入内させられた。武家の娘を女御に迎え入れるのは平清盛の娘徳子以来のことで、後水尾天皇は抵抗したという。入内に際して幕府から贈られた進物も莫大で、権勢は朝廷を圧倒していたから、後水尾天皇としても承知するほかない。秀忠が京都に入るにあたっては、公家たちも這いつくばって迎えた。そして和子は待望の皇子高仁を生んだがわずか3歳で死去。次の皇子も生まれてすぐ亡くなった。後水尾天皇は幼い興子に譲位。約860年ぶりの女帝である。なお後水尾天皇が譲位したのには、紫衣事件が影響したとみられる。紫衣事件とは、元和以来、主な寺院の住持の出世したり紫衣を与えられて任官昇進をするときに幕府の事前の許可を得て天皇が綸旨を下すことになっていたのを、朝廷はそれを無視して勝手に綸旨を与えており、それを寛永4年に幕府が無効だと宣言し、綸旨を没収した事件である。これによって大徳寺の沢庵宗彭らは流罪となった。幕府としては大寺院と朝廷との直接的な関係を断ち切ろうとし、後水尾天皇を中心とする朝廷はそれに抵抗したということになる。ともかく中宮和子は後水尾天皇の譲位によって東福門院となった。後水尾天皇は上皇になってかえって多くの女性と子をもうけたが、東福門院との関係は冷え切ったものではなかったことは確実だ。そしてそれは千洞御所を中心に宮廷文化が花開く時代でもあり、東福門院は王朝文化復興に大きな役割を果たした。

天璋院(来水明子):天璋院こと篤姫は、徳川第13代将軍家定の御台所(正室)である。彼女は徳川幕府最後の十数年、実質的に江戸城の女主人であった。彼女は薩摩藩島津家の出で、島津斉彬の養女となり、さらに近衛家の養女となって将軍家に輿入れした。これは薩摩がゴリ押ししたのではないが、当時一橋慶喜の擁立を図っていた薩摩は、篤姫を通じて大奥工作をする腹づもりだったと見られる。しかし慶喜擁立が失敗し、結婚後わずか2年で夫家定だ死去。未亡人となった篤姫は天璋院となった。皮肉なことに薩摩藩は幕府と敵対していくが、江戸城の無血開城にあたっても篤姫の存在は斟酌されたに違いない。しかし天璋院は徳川家を離れること無く、最後まで徳川家の夫人として生き、明治16年に死んだ。

和宮(田中澄江):和宮は、公武合体の象徴として徳川第14代将軍家茂に嫁いだ皇女である。直宮と将軍との結婚は、霊元天皇の皇女八十宮の7代将軍家継との婚約以来であった(家継が夭折したため実際には結婚していない)。和宮はすでに有栖川熾仁と婚約しており、孝明天皇も難色を示したが、幕府は朝廷の権威を借りるため、かなり強引に和宮との婚儀を進めた。であるだけに、この婚礼は幕府の威信をかけて莫大な資金が投入された。一方で、婚礼に際して江戸でも御所風にすることという条件があったにもかかわらず、いざ和宮が江戸城に入ってみれば武家風であり、和宮の意向は通らなかった。ただ一つ救いだったのは、夫家茂が和宮を愛し、夫婦の間はむつまじかったということである。それでも和宮は身長がたった4尺しかなく強健でなかったためか二人の間には子供は生まれなかった。幕府が倒れると和宮は京都へ帰り、明治10年に脚気衝心で亡くなった。

通読してみて面白かったのは、「天璋院」と「和宮」の章の比較である。幕末、幕府に送り込まれながら、その母体が反幕的になっていったという点で天璋院と和宮には共通項が多い。夫に早くに先立たれたのも同じである。しかし維新後には、天璋院はあくまでも徳川側を貫いたのに対して、和宮は幕府をすぐに見限り京都へ帰ってしまった。こうしたことから、「天璋院」の方では和宮はいやいやながら幕府に嫁ぎ、ついに婚家に染まらなかった情の薄い女だと描かれる。一方「和宮」では、運命に翻弄されながらも筋を貫いたいじらしい女性として描かれる。一体どちらが実態に近いのだろうか。「天璋院」では「和宮がいかにも夫思いの優しい妻であったかのように言いなすのは、どれもみな明治も後半の、天皇制全盛の時代になってから作られた美談であり、神話である(p.205)」と一蹴する。おそらくこちらが真実なのだろう。

ところで和宮には一つ不思議な点がある。和宮の死体には左手の手首から先がなかったのだ。公武合体の象徴であればこそ、和宮は恨みを買うに足りる存在だった。おそらくそれは兇徒によって傷つけられたものなのだろう。

徳川幕府を女性から見る好著。


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