本書は「戦国期の古文書、古記録に散見される呪術や占星にかかわる記述を通して、従来描かれている戦国史とは違うものを書けないだろうか(p.10)」との思いで書かれたものである。
戦国時代といえば、血で血を洗う闘争の時代であり、呪術のような実効性のあやしいことをやっている暇はなかったのではないかと思いがちだ。ところが戦国武将たちは、日の吉凶で進軍を決めたり、呪術による敵の調伏を行ったり、鬮(くじ)で戦術を決めたりしていた。そんなことをしていれば合理的な思考を持った敵にやっつけられてしまうのではないかと思うが、ことはそう簡単ではない、と著者は主張する。
武田氏の史料である『甲陽軍鑑』には「弓矢はみなまほうにて候」との言葉があるが、この時代、呪術(魔法)と現実の武力には境目がなかったのである。
戦国武将の甲冑には仏教の法具などがあしらわれたものがある。島津貴久の兜には三鈷杵が、森蘭丸の前立てには「南無阿弥陀仏」が用いられていた。北条早雲の家訓の第一条は「仏神を信し申へき事」である。軍幟にも「南無〇〇、〇〇大菩薩云々」と掲げられていた。本来、殺し合いや争いとは最も遠いところにあるはずの仏教が、奇妙なことに戦の最前線に駆り出されていた。
戦国武将たちが戦にあたって頼ったのは、毘沙門天、摩利支天、勝軍地蔵、妙見菩薩そして別格なのが八幡大菩薩である。特に毘沙門天、摩利支天、勝軍地蔵などは、それぞれ修法があり、修験山伏が、あるいは武将本人がそれを行っていた(例えば細川政元)。本書では強調されていないが、これらの修法を僧侶ではなく、修験などが行っているのが重要である。そして、そうしたものとは別に、戦場での加護、あるいは万一死去した場合に備えて「陣仏(じんぼとけ)」というものを携行することも多く行われた。兜の中に兜仏をしのばせることが一般的だったが、わざわざ従軍者に「陣仏」を背負わせていたこともあるようだ。
現在でも神仏に勝利を祈願することは多いが、戦国武将も当然のように祈願を行っている。ただしそのやり方は現在とは異なり、「この戦に勝利をしたら〇〇を寄進します」とか「占いの結果、勝利と出たのでよろしくお願いします」というような祈願が多い。つまり、いわゆる「神頼み」的ではなく、仏神を説得・納得させるような部分があるのが面白い。そしてこうした祈願は精神的なものではなく、寺社に関係ある山伏が具体的に動く場合もあった。「戦勝祈願を受けた側が、何らかの形で動いたことがあったことは事実と見てよい(p.43)」。神官が山伏を遣わすというのがどういう関係なのかわからないが、寺社への祈願は、寺社や山伏を味方につけるという意味もあったようだ。
なお合戦前に連歌会を開き、その連歌を神前に奉納することで戦いに勝つという信仰もあった。これは神を喜ばすことで加護を期待したものだろう。
戦国武将の側近くには、軍配者(軍敗者とも書く)といわれる軍師がいた。彼は呪術的軍師であり、占筮(=易・占)を行って戦術を決めていたのである。中には陰陽師を軍師として召し抱える武将もいた。戦国時代になっても、物忌みや方違えのような陰陽道の迷信は根強かったし、星や暦は戦の日程を決めるのに重要だった。「こうした「天文」や周易の研究教育センターの役割を果たしていたのが下野の足利学校(p.51)」である。
足利学校の卒業生だけでなく、山伏、博士(陰陽道)が戦の日取りを決めるための占いを担当していた。それは家来とは限らず、現地人であるケースもあったようだ。前田利家はある戦で「上手のはかせ(=陰陽師)」がいるからと現地人に日取り・時取りを行わせている。攻撃の日程のような最重要のことを、家来でもない現地人に決めさせるとはびっくりである。これは軍記物の記述であるので事実でない可能性があるが、古文書に登場するのが上杉景勝お抱えの呪術者、清源寺是鑑(ぜかん)である。彼は越後国安国寺の住持だった。彼が合戦の日時・吉凶を占っていたことは確かである。修験でも陰陽師でもない、れっきとした禅宗の僧侶が占いをやっていることは注目される。
大友宗麟の軍配者には角隈石宗(つのくま・せきそう)という者がいた。彼の出自は不明だが、受領名を持っていたことと出家していたことは確かで、足利学校の卒業生だった可能性がある。 また武田信玄の軍配者・駒井高白斎は毎日日記をつけているが、それは雲の観察記録といってよいものがかなりの比重を占めている。軍配者が天気予報を行っていた可能性は高い。武田信玄の下にいた山本勘介入道は「気の立ち方」を見ていた。これなどは呪術でもあると同時に観天望気でもあるようだ。
ところで、呪術者Aが吉日だといい、呪術者Bが悪日だと言っていることもあっただろう。また、呪術者が悪日だといっているその日が、戦略的に最適な進発の日だということもあるだろう。そんなわけで、武将は必ずしも呪術者の言いなりだったわけではない。例えば秀吉は、「真言の護摩堂の僧」が「8日の出陣をとりやめた方がいい」と言ってきたのを、理由をつけて「そうであるならかえって吉日である」といって進軍した。また扇は悪日を吉日に転換させるためのアイテムだったらしい。しかし軍配者は城攻めの時に城からの炊煙を見て攻めるタイミングを見たり、天気予報をするなど、必ずしも呪術的観点しかなかったわけではない。また「敵・味方ともに共通する悪日は、一種の休戦日としての意味も持っていた(p.72)」ようだ。
また、出陣におみくじを使うこともよく行われていた。特に島津氏ではおみくじが活用された。意見が割れた場合などは、大事な軍事行動であればこそ最終的な判断を神意に委ねていた。なお、このおみくじは神前での厳粛な御鬮であったが、戦場での先発・後発を決めるなどでは普通の意味でのくじもあったようである。
戦では、五行思想も無視し得なかった。例えば大将が木姓の人は、十干の庚および辛の日に出陣しない方がよい、といったものである。占星術も兵法の一種として受け取られていた。上杉謙信は彗星の出現を見て、その吉凶を軍配者に占わせている。この時は北条氏にとって凶であるとされ、小田原へ攻め入った。一方、誕生日による占星術は、戦国時代にはあまり一般的でないようだ。
敵の調伏祈祷をリードしたのも軍配者であった。応仁の乱の時、東軍の細川勝元は「五壇法」を行わせているが、この時は青蓮院・妙法院・三宝院・聖護院、それに南都の門跡の僧たちが動員されていた。これはかなり大規模な祈祷である。毛利元就と尼子晴久・義久の戦いでは、双方が様々な修法を行っていたとされる(ただし、軍記物にはあるが古文書で裏付けることはできない)。
呪術とはいえないが、戦場では小さなことでも「奇瑞」を見出し、兵士を鼓舞することが行われた。例えば「鳩が敵陣へと飛んでいった。だから我が軍の勝ちだ」というようなものだ。軍記物にはそうしたエピソードが多く出てくる。それらが史実かどうかはともかく、実際に大将は戦意高揚を図るため、「この戦いは勝てる」という暗示を行ったことは事実であろう。そういうものの極端な例は「夢」である。「こういう夢を見た」といえば、それが嘘でも誰にも見抜けないわけで、まことに都合がよい。ただ、当時の人は夢に神秘的な意味を見出していたので、舌先三寸でデタラメを言っていたのではなく、「こういう夢を見たがこれは吉兆か凶兆か」と占っていたりする。夢が真面目に受け取られていたからこそ、暗示にも活用されたのだ。
そして、縁起かつぎや禁忌といったもの、今なら「ジンクス」というようなものも、戦国時代には大量にあった。北を忌むとか、四という文字を忌むといったようなものもあるし、「疵がうずいたら自分の小便を飲め」とか「川を渡るとき水を飲み過ぎたら尻の穴に石灰を押し込め」というような無茶なものもある。また、旗の竿がどこで折れたかで吉凶を判断し、(ほとんど吉となるようになっていたため)旗がここで折れたから勝ち戦、などと言っていた。
戦いは単に力と力のぶつかり合いではなく、メンタルな部分が大事であるため、各種の儀式もあった。今なら「ルーティーン」というようなものである。例えば三献の儀式というものは、出陣の前に打鮑・勝栗・昆布を肴に酒を飲むものである。そこに意味を見出していたことも間違いはないが、それより、戦の前にそれをやるというルーティーンによって気持ちを入れていたのだろう。秀吉は3月1日に出陣するのがお決まりで、島津氏は雨の日を出陣に好んだ(島津雨)。こういうものは「ジンクス」であり「ルーティーン」でもあったのだろう。
一方、戦が終わった後の処理も重要だった。戦では数千人の死者が出ることも少なくなかったから、そのままでは大量の怨霊が生じてしまう。処理の第一は「勝鬨(かちどき)」を上げることだった。勝鬨は、「えいえいおう」のようなものではなく、一種の呪術だったらしい。はっきりとは分からないが、死体の弔いや処分と鬨の声がセットになったようなものであり「どことなく「怨霊封じ」の儀式(p.153)」なのだ。首実検も、死体に敬意を払い、運び方・据え付け方・捨て方にも作法があった。島津氏の家臣上井覚兼の日記には、首実検のやり方が細かく記されているが、それを読むと怨霊となることを防ぐ意味合いが看取される。
さらに「首供養」も行われた。これは「ちゃんと弔えば祟らない」という観念があったために行われたものだろう。戦没者をまとめてではなく、33の首毎に首供養を行ったという記録がある。また首を集めた首塚も作られた。今も残る首塚や戦人塚・千人塚は戦死者を埋めた墓であることが多い。また武将によっては供養のために寺を建てている場合もある(徳川家康は武田勝頼の戦没地に景徳院という寺をつくっている)。また島津義久は、耳川の戦いにおける大友軍の戦死者の七回忌のために大施餓鬼会を行っている。戦国武将の施餓鬼会は、その後の盆行事の展開にも影響を与えている可能性は大きい。
そして戦場での自らの死去に備えては、陣僧を従軍させた。貴顕の人だけでなく、かなりの陣僧が従軍したようで、誇張もあるようだが、フロイスによれば武田軍には600人の陣僧がいたという。
築城にあたっては、やはり吉凶を気にしたし、また城内に鎮守を勧請することが行われた。石垣に意図的に石塔を転用した石を使っているらしいのも、なんらかの呪的な意味が込められていたかもしれない。また、切り出して運んだにもかかわらず城の石垣などに使わずに放置された残念石と呼ばれる石があるが、これは運んでいる途中に落ちてしまったからという。落城はあってはならないから、「一度でも落ちた石は城には使わない」というタブーがあったようだ。ちょっと気にしすぎな感じはするが、当時の人にとっては大きな意味があったのである。
さらに本書では、呪符・護符の木簡についても紹介されるが、これについては詳細は割愛する。
本書を読むうえでの私自身の興味は2つあった。第1に、当時の仏教は呪術に対してどのように関与していたのかということ、第2に、戦没者(特に敗者)の弔いはどうしていたのかということである。
第1の点に関しては、やはり呪術の中心は修験道や陰陽道であって、普通の仏教の存在感はそれほど大きくない。だが清源寺是鑑のように、仏教寺院の住持でありながら占いを行っているものもいる。足利学校の卒業生(おそらく多くが禅僧)も軍配者として活躍したことを考えると、鎌倉仏教の諸派において呪術や占いは教義的に位置づけられなかったものの、僧侶個人で見るとそうした活動に従事したものは少なくなかったと見られる。一方、真言宗や天台宗では修法を行っていたであろうが、軍配者のようなフリーランスの立場での活動とは違ったのかもしれない。
第2の点に関しては、本書では1章が割かれているものの、あまり深入りしていない印象である。例えば室町幕府は成立にあたって安国寺と利生塔を全国に設置したのであるが、これについて本書が述べるところはない。施餓鬼会についても説明は簡略である。ただ、これは本書の中心的主題とは少しずれるのでやむを得ないところであろう。
なお、本書は全体として軍記物が出典に多用されているため、史実であるか慎重にならなければならない部分が多く、著者もそれについてたびたび触れている。そのうちいくばくかは、後世の脚色なのだろう。ただ、戦の勝敗はメンタル面がモノを言うことは事実で、吉凶やジンクスを武将たちがかなり気にしていたのは間違いない。修法に頼ったのもおそらく事実だろう。それは、迷信に捉われていたという面が半分だが、吉凶や占いをうまく使って兵士たちを鼓舞していたという面も半分ある。無神論的、合理的な織田信長でさえ、こうした面はそれなりに持っていたのである。筋金入りの合理主義者や科学的な思考の人物が武将であったからといって、兵士たちが命を捨てるかどうかは別問題である。神仏を崇敬する人物が武将であった方が兵士がついていった可能性は大きい。このあたりは想像してみると面白い。
戦国時代の武将たちのメンタル面を呪術から窺う独特な視点の本。
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