神と仏をめぐる民俗文化の考察。
日本人の宗教観は、神(神祇信仰)と仏(仏教)の間で揺れ動いてきた。そしてその背景には、土着の民俗信仰があった。本書は神と仏を軸にして日本人の宗教観を考察する論考集である。
「序章 神と仏―民俗宗教の基本的理解」(宮田 登)では、仏教受容の歴史を概観し、神仏習合を「神と仏の緊張関係」としている。そして民俗信仰や習俗に仏事が接近し、それを理論づけたりしてきた一方で、神祇信仰の方は民俗的なものに対して冷淡だった、と指摘している。もちろん神事は仏事も遠ざけており、12世紀に普及した呪法「神事札」は神事に僧尼を遠ざける呪法であったが、日ごろ召し使っている尼や入道はこれを憚らないなどという都合の良い注釈があったのが面白い。神と仏の間には、曖昧な領域が横たわっていた。
さらに、高取正男の「神仏隔離」を援用しつつ、死穢を忌んだのは国家の側で民衆は気にしていなかったことに触れ、一方で穢気の解除(祓え)の方法については、陰陽道との習合の結果、複雑化・多様化していったとする。「神道的な禊ぎをうまく用いつつ、形代や撫物の祓えの具を合理的に組み合わせた方法を陰陽師たちが導入(p.46)」したのである。陰陽道は神祇信仰にかなり大きな影響を与えているようだ。しかもそれは、自然発生的というよりは、支配者層の強烈な作為によるものであり、それがイデオロギーとしての神道を形成した。一方、民衆のカミガミは「淫祠」とされ、正統なものではないと位置づけられつつも存続していくことになる。
「第1章 シャーマンの世界」(佐々木宏幹・山下欣一)では、まず世界のシャーマニズムを概観し、そのうえで日本のシャーマニズムの特色を述べている。シャーマニズムとはトランスや神がかりを伴うものだけでなくいろいろなグラデーションがある。日本の民俗信仰はそのような多様なシャーマニズムを内包しており、8~9世紀初頭には「託(くる)い」を役割とする卜者が重要な位置を占めていたという。この頃、神からの「託宣」が頻繁に出たことはその証左である。しかしながら、民俗的なシャーマニズムは神にも仏にも取り込まれていない領域が大きい。もちろん修験道を中心に、激しい修行によって神仏を感得するというような思想はあったが、それは神道でも仏教でも中心的なものではなかった。
さらに本章では、女性が中心になっている南島のシャーマン(ユタ、ノロなど)について述べている。それらは血縁や本人の生まれながらの資質が重要視されていることが興味深い。
「第2章 女性司祭の伝統」(上井久義)では、古代の神事には女性の役割が大きかったことを述べる。例えば神の託宣をするのは女性であり、巫女は神事の中心的な存在であった。これは卑弥呼までさかのぼれる伝統なのかもしれない。
ところで、巫女が未婚の、あるいは婚姻を禁止された女性であったということは興味深い。しかしながら巫女が婚姻を貫くことはその継承に問題をはらむ。その点で斎王(いつきのひめみこ)は伊勢神宮で物忌みし祀りを担当した未婚の皇女であるが、これは未婚の期間を利用した幾分か合理的な方法である。
古代社会において高い地位を誇った女性司祭であるが、国家は男性司祭を正統として、女性はその補佐役として位置付けて行った。これは、託宣の重要性が低下していったことが背景にあるのかもしれない。しかし各地の民俗には、女性が受け持つ様々な神事が残されている。
「第3章 仏教の民間受容」(伊藤唯真)では、仏教が受容される歴史を振り返り、どういう点が人々に訴えたのか述べている。神と仏は似ているが、様々な対照的な性格を持っていた。仏教は「他国神」「異国神」として受け取られたが、それは地域を超えた普遍神であったという指摘が面白い。また、神は遊幸し、仏は常在する、などというのもそういう違いの一つである。
「第4章 神社と神道」(中牧弘允)では、神道の形成が批判的に検討される。日本人は神と仏をごちゃまぜにしているように見えて、実は両者を峻別してきた。そして仏教に対して意識的に神道は構成されたが、その思想的内実はなんだったか。それを著者は宗教的土着主義だという。そして神道が構成されるにあたり、「官の神」(延喜式神名帳にある国家に祀られる神)「野の神」(自然発生的な信仰や情念に導かれて祀られた神)の対立もそこには孕んでいた。
国家は、神祇官の設置や国家祭祀によって神々を再編成し、その頂点にある天皇の権威を高めた一方で、「野の神」は抑制した。有名な「常世の虫」の禁止や「夜刀の神」の殺害は、祀るべき神と祀るべからざる神を国家の方が決めていたことを示唆する。
やがて神祇祭祀は、道教や陰陽道の影響、禁忌意識や吉凶の理論が付加され、やがて神仏習合が進んでいった。ただし伊勢神宮は神仏習合の流れに逆らい、仏教を穢れたものとして扱った(仏教を表す言葉を忌詞(いみことば)にするなど)。また称徳朝の頃に出来た伊勢神宮寺は、徐々に遠ざけられ廃絶した。
鎌倉時代になると伊勢神道の「神道五部書」など、神道は仏教と思想的に対決するようになった。それらは道家や儒家の思想、特に陰陽五行説に拠って仏教と対抗したが、やはり神道の思想は多くが借り物であった。しかしながら意外なことに、著者は先述の通りその思想内容を土着主義だという。つまり、理論的には借り物だったが、内容は「しきたりの重視」とか「歴史」を尊ぶものだったということかもしれない(本章には詳らかでない)。ともかく、「「蕃神」「官の神」「野の神」、もしくは外来宗教、民族宗教、民俗宗教の鼎立こそ、普遍主義の蹂躙やシンクレティズムの進行を阻止してきた三極構造なのである(p.274)」。
「第5章 民衆の宗教」(西垣晴次)では、記録に明らかでない民衆宗教の実態を、様々な傍証から推測している。例えば、神社を表す「社」には「ヤシロ」と「モリ」の2つの訓があるが、これは「モリ」から、建物を前提とした「ヤシロ(屋代)」への過程を物語るものであろう。また「モリ」は、森全体を神聖視していたのが、そのうちの一本を選ぶことで神木の信仰になっていったに違いない。この際注意すべき事は、それが「この木を切ると祟る」という、恐ろしい力から始まっていることである。
また、古くは水田よりも雑穀の方が民衆の主食だったと思われるのに、神事が米に関わることばかりで、雑穀にかかわる儀礼があまり見られないのは謎である。
民間には巫覡が多く活動し、権力の方もそれを無視できないほどであった。国家の側は民間の巫覡を詐巫(さふ)として批判したが、それは律令国家の側に取り込んだ真の巫覡がいたことを示している。どうやら詐巫の方は病気を治したり口寄せをする巫覡で、真の巫覡は神社に所属して託宣を得るタイプの巫覡であるようだ。国家は律令制の下で地方官社への奉幣制度を通じて地方官社の祭祀を中央のそれに組み込み、ひいてはその巫覡たちを国家に従属するものとして取り扱った節がある。
御霊会も初めは民間で行われたもので、それを国家が取り入れたのは民衆の宗教を体制のうちに取り込もうとする意図があった。しかしなんでも国家が取り込んだのではなく、御霊会に附属して行われた神の意志をうかがうための馳射(ちしゃ)、相撲(すまい)、騎射、競馬といったものは公の方には取り入れられなかった。
やがて律令国家の弛緩とともに国家祭祀の体系が解体されて、一宮、二宮制という国ごとの祭祀へと再編成される趨勢の中、民間では小祠を辻に建てることが流行。これを国家は「淫祠」として禁圧した。何を祀るべきか、祀らざるべきかを決めていたのはあくまでも国家であった。
「第6章 魔と妖怪」(小松和彦)では、柳田国男以来の妖怪の概念を再検討し、「魔」と「妖怪」について述べている。本編は本書中の白眉である。柳田は神の零落したものが妖怪だとしたが、著者は「祀られていない超自然的存在」とみる。そして妖怪となることで祀られ、神となることを求めているのだという。これを宮田登は「祀り上げ祀り棄ての構造」と表現している。神→妖怪→神→妖怪、というこの可変性が「妖怪」を把握する重要なポイントだそうだ。
またしばしば妖怪は退治されるが、その後祀り上げられることも多い。退治するだけでは十分ではなく、その後に祀られるのが日本人の霊に対する観念を表しているようだ。
近世には「幽霊」が急激に変質する。それまでの幽霊は、メッセージを伝えるために生前の姿で出現していた。しかし近世には『東海道四谷怪談』のような幽霊芝居や絵画の影響で、幽霊は棺に納めた死人の姿で出現するようになり、また足がなかったり顔や体が異様に描かれるようになった。さらに恨みと幽霊が深く結合(恨みをもって死んだものが幽霊化する)した。
人が「魔」や「妖怪」または「幽霊」になる場合、西洋の場合は悪魔に魅入られるといった要因によるが、日本の場合は、自分自身の内面に生じた邪悪な感情(嫉妬、恨み、憎しみ)が度を超したときに自ずから変化するというのが著しい特徴である。
そして、そういう場合に行われるのが呪詛である。平安時代には貴賤を問わず禁呪道系・道教系の呪術・邪術、「厭魅」とか「蠱毒」といったものに魅了された。しかし度重なる弾圧によりそうしたものは姿を消し、呪禁師たちは姿を消したものの、陰陽道がそうした呪術の代わりを担うようになった。また修験者もそうしたものの一部を担ったし、民間では「憑きもの筋」の家は動物霊を使って不思議なわざを行った。民俗宗教の世界では、超自然に働きかける方法が多種多様に考案された。
ところが意外なことに、沖縄を例外として、「異界について想像力を働かせておらず、異界描写はきわめて乏しい(p.404)」。近世には妖怪が厖大に作り出され、描かれたが、彼らは日常の中の異界(つまり便所とか橋とか)におり、いわゆる「異界」にはいなかった。妖怪が流行したのは絵師たちに拠る部分もあったが、にしてもなぜ妖怪がクローズアップされたのか考えなくてはならない。「真に問題になるのは、「魔」や「妖怪」を必要としている「我々」のほうなのではないだろうか(p.412)」。
「第7章 自然と呪術」(宮田 登・小野重朗)では、超自然に対する働きかけの全体像を述べている。呪(まじな)いと神仏への祈願はどういう関係だろうか。弘法大師が悪魔(磐梯山の神)を調伏したのは本当に仏教の領域のことなのか。民間には厖大な呪いがあり、それは神祇信仰や仏教、陰陽道の影響を受けているが、特に陰陽道の影響は大きく、「民俗としてある各地の唱えごとや呪文は、いずれも陰陽道に淵源を持つ(p.427)」。だが未だに陰陽道と日本の呪いとの関係の考察は十分でない。(以上、宮田。以下は小野による)
呪術は神の信仰を母体としていない。むしろ現実的合理的な知識から発した生活技術に基づいたものだと考えられる。例えば、奄美大島ではカネサル(庚申)の日にシマガタメ牛を殺し、その肉を食べるとともに牛の足を木に吊り下げた。これは何の意味があるか。この日は山の神が降りてくる日とされており、その日に栄養のあるものを食べて、しかも食べたことをわかるようにして、山の神の侵入を断念させたものと考えられる。ところがこの合理的な考えが忘れられ、「牛の骨の臭気でカネサルの神を追っ払う」というようになると、呪術らしい気配をまとっていった。「呪術本来の古い形は科学的な生活の技術であった(p.436)」が「それが非科学的、俗信的な方向に変遷する傾向を持っている(同)」のである。
川の神とか水の精霊の祭が、12月1日とか6月1日であるのも、鮮明で忘れない日を決めておいたことがあるのだろう。本章では水の神への畏れの習俗・敵対の呪術が、太鼓踊りという歓待の呪術へと転換した例を取り上げている。さらに虫送り、疱瘡勧進(病気送り)などが悪神への歓待の例として触れられる。ここで我が大浦町の疱瘡踊りが比較的詳細に記述されているのは面白い。疱瘡は言うまでもなく天然痘だが、疱瘡踊りでは疱瘡団子という団子を食べる。疱瘡対策のために栄養のある団子を食べるという知恵が、疱瘡神をもてなして早く次の村へ行ってほしいという踊りに発展し、そのために伊勢神を勧請する…というように、合理的思考から呪術へ、さらに信仰へ、という展開が見られる。
一方、竜神信仰を母体にしていると考えられる綱引き(十五夜綱の引き回し)が、やがて信仰が欠落し、綱の物理的な力で厄災をさえぎる「道切り」という呪術になった例もある。こちらは信仰から呪術へ、である。知恵、呪術、信仰は一方方向ではなく、様々に転換するようだ。さらに、呪術は「複雑な心意を伴う呪術から、簡単な呪術へ、さらに卜占へ、という変遷(p.460)」もあった。
本書は全体として、大変エキサイティングである。各編に論旨の重複がやや多いところがあるが、様々な角度から神と仏を見直しており、類書にない深みがあるように感じた。最も蒙を啓かれたことは、日本には、神と仏ではなく、それに民俗宗教を加えた三極構造があったということだ。
ただ、「民俗宗教」の用語は少し違和感がある。例えば、疱瘡踊りは概念的には「民俗宗教」の一部なのかもしれない。しかし「宗教」行事として行われていたわけではない。疱瘡を避けるための実用的な技術として行われていたのだ。「虫送り」(田んぼの除虫をするための習俗)も、田んぼから虫を取り除きたいという切実な必要に駆られて行われたもので、宗教的な意味を感じて行われていたのではない。同様に、本書に引かれる厖大な民俗的行事・習俗などは、全てが民衆の具体的な必要に応じて行われた「生活の技術」の一部であった。
ただし、「生活の技術」としての本来の意味が失われ、見せかけだけの合理的な説明が付加される(山の神を牛の骨の臭気で追っ払う、など)ことで、呪いに変化していくことは多かった、ということは言える。とはいえ、それが宗教・信仰であったかというとそうとはいえない。十五夜行事は呪い的な意味が大きいが、そのものは宗教とか信仰の一環とは見なせないだろう(現代においても行われているのだから)。このように、「民俗宗教」の中には普通の意味で「宗教」とされるものとは異質な要素がたくさん含まれている。そして逆に、「宗教」に必要な要素(例えば教義)は必ずしも備えていない。少なくとも、それは精神世界の理論だったのではなく、物質世界の課題を解決するためのものだった。
であるから、「民俗宗教」というより「生活の技術」あるいは「民間科学」といった用語が適当であろう。そして、神道や仏教も、そうした技術なり科学なりの一つとして受容されたと思われる。もっと正確に言えば、民衆の「生活の技術」「民間科学」は神道や仏教により潤色され、より洗練されたり、より呪術的になったり、より普遍的な基盤を与えられたりした。鹿児島では虚空蔵菩薩が疱瘡除けに効果があるとされたのもその一例である。
戦後、多くの民俗行事などが消えていったが、それは宗教的な意味よりも、例えば疱瘡(天然痘)の効果的な予防法が確立したこととより深く関連しているのだろう。
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