2023年9月20日水曜日

『小栗上野介—忘れられた悲劇の幕臣』村上 泰賢 著

小栗上野介の評伝。

小栗上野介忠順(こうずけのすけ・ただまさ)は幕末における幕臣で、西洋にならった重工業の発展の基礎をつくった人物である。しかし維新後、おそらくはその有能さが危険視され、官軍によってあっけなく殺されてしまった。

本書はまず幕府使節がアメリカへ旅発つ場面から始まる。日米修好通商条約の批准書を交換するための渡航であった。正使、副使、目付(=三使)にはそれぞれ9名ずつの随行者がいてそれだけで30人。小栗上野介は、この三使の一人の目付である。また、その外に従者や諸国の藩士もいて総勢77名。彼らは三使が十万石の格式で行列するための装備を積み、アメリカが派遣したボウハタン号(外輪蒸気帆走船)に乗り込んだ。これに随行したのが咸臨丸で、こちらには勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎が乗っていた。

この航海は、ボウハタン号はアメリカ人が運行していたのは当然として、咸臨丸の方も日本人は全く役に立たず、アメリカ人水兵たちによって運行されたというのが面白い。最初、日本人はアメリカ水兵たちの同乗に不満で「便乗させてやる」という気でいたそうだが、日本人は船酔いになっていた上、共同で事に当たるという習慣がなく(身分の違うものが同じ仕事を協力して行うという観念がなかった)、船の操縦は全く出来なかった。そんな中、ジョン万次郎だけがまともに働けたそうだ。

ボウハタン号の方も暴風雨の中を進み、日本人たちはずぶ濡れで船酔いになり、すぐにでもどこかへ上陸したくなった。彼らは、異国船打払令で上陸を拒んでいたことが、いかに非人道的なことであったかを身を以て知った。そして難渋している日本人を気遣うアメリカ人水兵の人間性に触れ、「攘夷」の気持ちはなくなっていったに違いない。そして、日本人たちは途中でアメリカ人水夫の葬式に提督以下が参加し、深い悲しみの真情を露わにているのを見て、上下の別なく情を通わせていることに感銘を受けている。こうして「次第にアメリカ人を「形式的な礼儀よりも真情でつながる人々」と理解(p.65)」するようになった。

ボウハタン号は、サンフランシスコにつき(咸臨丸はここで引き返した。何のための随行だったのかよくわからない)、パナマへ移動、パナマ鉄道を通って大西洋側に出て、ロアノウク号で海路ワシントンへ上陸した。そしてワシントンで一行は盛大な歓迎を受ける。日本人を一目見るため、4000キロも離れたところから人々が見物に来たという。それほどの歓迎を受けたのは、(1)物珍しかった、(2)日本の使節が大人数だった、(3)諸外国に先駆けて日本と条約を結んだという優越感がアメリカにあった、ためではないかという。ホイットマンの「われわれのところへ、/この時遂に東洋がやってきたのだ」という詩の一節は、その感興を伝えている。

彼らは7階建てのホテルに案内され、水洗便所など文明そのものの施設設備に驚愕した。

批准書の交換では、アメリカはまず日本式にやらせてから、再び西洋式で行っている。日本文化を尊重しているのだ。条約の内容はともかく、当時のアメリカは日本を一方的に下に見ていたわけではないことは明白である。なおこの頃は、アメリカは南北戦争前で心の余裕があった時期である。日本がこの頃にアメリカを訪問したことは運が良かった。

一行はさらに、ワシントン海軍造船所を視察。ここは船に関するあらゆるものを製造する総合工場で、日本では鍛冶屋が何日もかかって切るような鉄を豆腐のように切っていた。一行は「鉄の国」の力をまざまざと見せつけられたのである。この視察が後の横須賀造船所に繋がる。

さらにニューヨークでは市始まって以来ともいわれる大歓待を受けた。そして彼らは政府造幣局を訪ね、日米金貨の分析実験を行い、日本とアメリカの通貨交換レートに不当な差があることを認めさせた。小栗はこの試験を忍耐強くかつ科学的な態度で求めたが、その態度と知性はアメリカ人からも賞讃された。ただし、通貨交換レートの変更については幕府・ハリスともに事前に相談していなかったので、勘定組頭の森田清行がアメリカ政府と交渉を行うことを強硬に反対。結局、追って改鋳によって通貨交換レートは調整された。

そしてニューヨークを後に使節団は帰国の途に就いた。この際にアフリカ回りで日本へ帰ったので、結果的に彼らは世界一周した初めての日本人になった。この時にアフリカで奴隷を見て衝撃を受ける。彼らには友好的だった白人が、黒人奴隷には動物以下に接していることに「文明」の裏面を見たのである。

こうして彼らは帰国。しかしその頃攘夷の嵐が吹き荒れており、アメリカ船に乗った彼らは一切歓迎されることなく、アメリカでの見聞を語ることさえ憚られた。そのような中にあって、小栗はアメリカの進んだ文明を範とすべきと敢然と主張したのである。

小栗は外遊の経験から外国奉行に就任するが、上司の意見と対立して更迭される。しかし小栗は外国の事情に通じて経済面に明るく、しかも能吏であったために、「勘定奉行(勝手方)、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行……と、幕府の要職に就いては、上司の慣例前例に縛られた意見と衝突すると辞任し、また再任されることをくりかえし(p.115)」た。

そんな中での小栗の大きな功績は、横須賀造船所を造ったことである。幕府には、船は外国から買えばよい、造船所の建設には金がかかりすぎる、という意見もあったが、小栗は造る技術がなければ十分な修理もできないのだからどうしても造船所を造るべき、として老中にせまり決定させた。「いずれ売り出す(政権を譲り渡す)としても、土蔵付き売家の栄誉が残るだろう」と言った逸話は有名である。

造船所の建設はアメリカに協力を頼みたかったが、アメリカは南北戦争でそれどころではないためフランスに技術支援を依頼。なお小栗は造船所決定にあたり反対派の機先を制して軍艦奉行を辞任。日本側の責任者はフランス語がわかる小栗の盟友、栗本鋤雲に任し、小栗は実務家として携わった。そして造船所建設のため来日したのがフランスのヴェルニーである。彼はまだ29歳であったが有能で誠意に満ち、最初は若すぎて訝しんだ日本人たちも彼を信用して事業を進めた。

なお造船所は維新後、慶応4年閏4月1日に明治政府に引き継がれる。明治政府は支払いを苦労しつつその建設を進め、明治4年に第1号ドックが完成。国内外の船舶修理が意外な高収入となって当初の見込よりもかなり収支はよかったようだ。

この他小栗が手がけたのは、滝川野大砲製造所(水利に苦労し、完成はしたが稼働したかは不明)、横浜のフランス語学校の設立(幕府がフランス式陸軍を導入したことに伴うもの)が挙げられる。これらも維新後は明治政府が接収し、特にフランス語学校は中央幼年学校となって陸軍の首脳を輩出することになる。

また慶応3年には、日本初の株式会社「兵庫商社」の設立を提議した。これは大坂の商人に組合を作らせ、西洋との貿易を共同して行わせようとしたものである。それまで彼らは個別に取引をしていたため、安く買いたたかれ、また高く買わされていた。幕府は商人たちに商社の設立を命じたものの、幕府解散や経営の不慣れなどにより、うまくいかないうちに解散している。

時期は前後するが、勘定奉行として携わったのが「築地ホテル」の開業。この際も民間資本による株式会社の手法で資金を集めて建設させた。このホテルは、いわゆる安政五ヶ国条約によって宿泊施設を設けることが約束されていたことに対応するものである。これを小栗は今で言うPFIのような形で建設したのである。これは外国人には評判が良かったが、幕府倒壊などで経営はうまくいかず、完成後3年半で「銀座の大火事」によって消失した。

この他、小栗はガス灯設置や郵便制度、鉄道の建設といったことを提案している。彼はアメリカで見聞した「人・モノ・情報の流通の正確・安全・迅速・簡易・大量化が、いずれも近代国家に欠かせない社会基盤と見て、制度の導入設立を提案していた(p.183)」のである。

小栗は、幕府倒壊直前に勘定陸軍両奉行を解任された。主戦論を唱えていた小栗が、慶喜の煮え切らない態度に諫言したことが原因のようだ。彼は知行地の上州上田権田村に移住し、「前朝の頑民」となって一生を終わろうとした。彼は帰農して教育に携わろうと考え、「いずれこの谷から太政大臣(首相)を出してみせる」と決意した。実際、養嗣子又一は横浜仏語伝習所の最初の伝習生でフランス語に堪能、用人塚本真彦は数学、英語に明るく、荒川祐蔵と佐藤藤七も小栗とともに世界一周した若者であった。権田村には世界一周した人物が小栗もあわせて4人いたのである。

ところがここで事件が起こる。打ち壊し運動の矛先が小栗に向いたのだ。暴徒と化した2千人が小栗のもとに向かった。しかし彼は、暴徒たちに統制がとれていないことを見て取り反撃に出て、暴徒を追っ払った。その後暴徒を排出した四ヶ村は詫びを入れている。

しかし新政府はこれを「逆謀が判然とした」として小栗の捕縛を三藩に命じた。ところがそのような事実はないから、三藩の使者は小栗邸で丁寧な対応を受けて戻ってきた。これに東山道軍の軍監原保太郎(長州)と豊永貫一郎(土佐)は激怒。三藩の兵を引き連れて権田へ討ち入って小栗を捕縛し、取り調べもなく斬首した。小栗は幕府側の人物で戦わずして斬られた、ただひとりの人物である。

大隈重信の「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」 、東郷平八郎の「日本海海戦の勝利は、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ」、という言葉があるように、小栗忠順は明治時代の「文明開化」を先取りしていた。しかしながら、それが十全に実現せず、幕府が彼の構想を実現できなかったのもまた事実である。そこに幕府の限界があったともいえる。

なお小栗は幼少期より安積艮斎(あさか・ごんさい)に学び、温かい指導の下で現実主義の思想を育んでいた。特に年配の結城啓之助と自由闊達な議論を戦わせたことは大きな影響を与えたようだ。しかし同年輩の上流武家の息子らから、頑固な理屈屋、天狗、狂人とまでよばれていたことは、彼のありようを知れて興味深い。相当な変わり者だったのは間違いない。

本書は全体として、平易で読みやすく、小栗上野介忠順の重要性を余すところなく伝えている。彼は新政府からは逆賊扱いであったために顕彰が長い間なされず、地元に「罪なくして斬らる」の石碑を建てた時でさえ、「天皇陛下の軍隊が罪の無いものを斬るはずがない」と難癖を付けられたほどである。維新史において、彼は表舞台にいなかったためによく知られているとは言いがたいが、「早すぎた文明開化」を主導した幕臣としてもっと取り上げられてもよいように思った。

文明開化を先駆けた幕臣を描く良書。

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