2020年8月30日日曜日

『大学・中庸・孟子』金谷 治・湯浅幸孫・日原利国・加地伸行 訳(世界文学全集 第18巻)

儒教の重要な古典。

儒教には四書五経といわれる古典があり、うち四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』を指す。もともと『大学』『中庸』は(五経の一つである)『礼記』の一部分であり、これを独立させて重視したのは南宋の朱熹(朱子)であった。

朱熹はこれを独立させたばかりでなく、より自らの思想が明確になるように編集しなおし、『大学章句』『中庸章句』として刊行した。特に『大学』への力の入れようは並々ではなく、完成まで10年間もかけた上、死の3日前まで改訂の筆を入れていたという。彼は章の順番を入れ替え、脱文があるとしてそれを補うなど甚だしい改変を行なっていたのである(本書には、朱熹による改変版(「章句版」という)と、原文の両方が収録されている)。

そしてもう一つの改変は、『大学』の作者を曽子だと決めつけ、孔子と関連づけたことだった。『大学』はもともと作者不明の一編であり、独立の作品として注意が払われていたわけではない。これを朱熹に先立って重視したのは韓愈であった。韓愈は儒教の伝統を、尭・舜 → 孔子 → 孔子の門人の曽子 → 孔子の孫の子思 → 孟子と考え、孟子から中絶したとした。

朱熹はこの考えを受け継いで、著作の上での系譜関係を完全にするべく、『大学』を曽子の著作としたのである。こうすれば、以前より子思の著作と考えられていた『中庸』を加えて、『孔子』→『大学』(曽子)→『中庸』(子思)→『孟子』と繋がり、儒教の伝統が連続するのである(しかも朱熹は孟子の門人から教えを受けたとしているから、自らを儒教の伝統の継承者と位置づけることもできた)。

今でこそ四書といえば儒教の聖典とみなされているが、『孔子』以外はさほど重視された著作ではなく、『孟子』ですら朝廷が尊信したのはようやく宋代になってからである。この四書を儒教の系譜を伝えるものとして強調したのは朱熹であり、特にそれを完全にするために必要だったのが『大学』だった。いわば『大学』は、孔子と孫の子思を繋ぐミッシング・リンクなのだ。

そして朱熹が『大学』を重視した理由はもう一つある。それは、有名な八条目「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」に代表される、個人の修養が国家の政治や繁栄と一致するという世界観であった。朱熹は若い頃仏教に心惹かれていたが、やがて仏教から離れて儒教の復興を志した。仏教では個人の内面を重視するが、儒教は政治哲学であるため個人の内面は閑却される傾向にあり、ややもすれば科挙のために知識偏重となって精神面は却って堕落していた。こうした堕落した儒学を新しい精神の学問として復興するために、朱熹は一身の修養が国家の安寧へと繋がる『大学』の思想を欲したのである。

しかし本書解説で述べられるように、個人の修養と国家のあり方は直接には繋がらない。むしろ、個人が勉強し、家を斉すことで、国家の不正義を糾弾するということもある。また、いくら個人が修養に努めても、他の国から武力によって滅ぼされることもある。八条目が実現するのは、世界の国々が善政を敷いているという、およそありえない前提の下でしかない。

ただしこれは、『大学』のみならず儒教に通底する世界観である。『中庸』においても、「人間の本性は天が人々に命じたものである」という考えの下、日常の平凡な徳を実践し、日常の平凡な言葉を慎重にすることで、やがて君子として身を立て世界が平安になる、といったことが説かれている。しかし現実の世界では、その場しのぎの姑息な人間が栄達する一方で、真面目で地道な人間が冷や飯を食わされるのがよくある話だ。『大学』にしても『中庸』にしても、個人の修養が具体的にどうやって天下の安寧に繋がっていくのか、全く述べるところがない。むしろこれらは、「世界はこうあるべきだ」という理想論なのである。

『孟子』においてもそうである。孟子は有力な儒家で、多数の弟子を引き連れて諸国を遊説したが、一時期を除いて国政に携わることはなかった。彼の主張は「善政を敷けば、民が富み、諸国から人々がやってきて国はますます強くなり、他国から尊敬されるであろう」ということで、要するに善政の勧めであった。彼は弱者保護や不正の排除といったことを主張している。特に印象深かったのは、孟子が「人民」を重視していることで、「国家の中で最も重要なのは人民」だとし、政治においては「人心の獲得」が必要であるという。これは今の民主主義とは違うにしても、人民の保護とその支持を最重要と考えたことは特筆に値する。

しかし、孟子が生きた時代は生き馬の目を抜く戦国時代であった。孟子の説く善政は、国同士が激しく争う中ではあまりに悠長な考えに見えたことだろう。現実の世界は、孟子の考える理想状態とは程遠く、力ある国が弱い国を蹂躙する野蛮な世界だったのである。であるから、孟子は各国でそれなりに扱われているものの、その献策が受け入れられたようには見えない。彼の思想は厳しい現実世界においては、やや浮世離れしていたといえよう。

ちなみに、孟子の弟子にも、そういう穿った見方をしているものがいる。それが万章という弟子である。『孟子』の中でも、万章との問答が中心の「万章章句(上、下)」は最も興味深い。例えば、「天は尭・舜に天下を与えたというが、それはどうやって与えられたのか」と万章が聞く部分がある。孟子は「天は何も言わない。その人の行動と事蹟とによって、彼に与えることを示すにすぎない」と答えるが、さらに万章は「ではどんな方法で?」と聞き返す。これに対して孟子はいろいろ屁理屈を述べている。しかしあまり説得的ではない。孟子の世界観の中では、正しい君子には天命が下り、天下を手中にするのであるが、具体的にそれがどのような手続きで実現するのかというのは曖昧なのである。

中国では「天」への信仰は、西洋の「神」への信仰とは全く違った。諸子百家の時代、「天」を人格的な神として信仰しているのは墨子くらいのもので、多くは理念的な至高の存在として措定しているに過ぎない。であるから孟子が万章の問いに窮するのももっともなことだった。しかし孟子は個人の行いを正しくすれば天がそれを取り立ててくれる、という楽観的な世界観を基盤にしているわけだから、そこを曖昧のままに済ませたのは思想として徹底していなかったのは事実である。孟子の思想は、ミクロのレベルで悪を挫き善を行うことが天下の(マクロの)太平に繋がる、という途中をすっとばした思想なのである。

でも、だからといって孟子の考えが現実を無視した理想主義にすぎないかというと、そうでもない。善政の勧めだけに、不正や悪政への糾弾は当を得ており、現代の為政者にとっても耳の痛い言葉がたくさんある。事実、明の太祖は『孟子』を嫌い、劉昆孫に命じて『孟子節文』を作らせ、専制君主に都合の悪い箇所を削らせた。四書の一つにして、改竄の憂き目を受けなければならなかったところに『孟子』の価値が窺い知れる。政治が堕落して人民を省みなくなっている現在、『孟子』はもっと読まれるべき著作である。

なお、私が本書を手に取ったのは、桂庵玄樹から始まる薩南学派(戦国時代に南九州で起こった儒学の学派)が朱熹の『四書集註(しっちゅう)』(『四書』の解説)を重視し、桂庵玄樹が訓点をつけた『大学章句』を延徳4年(1492)全国に先駆けて刊行していることがあるからである。薩南学派は僧侶(臨済宗及び法華宗)によって担われていたが、朱熹の排仏的傾向を見るとこれは不思議なことである。『中庸章句』の序においても、朱熹は仏教および道教を非難している。どうして仏教の僧侶たちが露骨に排仏をいう朱熹に惹かれたのだろうか。

思えば、薩南学派に続いて江戸幕府の儒学の基礎を作った藤原惺窩も元は臨済宗の僧侶だったし、林羅山も元来は寺院で修行している。だが藤原惺窩は還俗し、林羅山は僧籍に入ることはなかった。日本の朱子学の受容には、朱熹の排仏的傾向と、僧侶の活躍が微妙に交錯しているのである。

日本においても、中国においても、思想史的な位置付けが興味深い独特な古典。


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