頓悟の理論書。
禅には北方で行われていた禅(北宗)と南方のそれ(南宗)があるが、『六祖壇経』の六祖こと恵能(えのう)の弟子荷沢神会(じんね)が、
北宗は漸悟——長い修行の末に悟る
南宗は頓悟——すぐさま悟る
だと決めつけてから南宗の独走となった。
そしてそれを新しい角度から発展させるのが馬祖道一である。馬祖道一は優れた弟子を多く輩出し、神会の一派(荷沢宗)をしのぎ後の臨済宗へと発展して行く。そんな馬祖道一の弟子の中でも第一の学匠だった大珠慧海が馬祖の禅を理論化したのが本書である。
本書は上下に分かれており、上巻は大珠による頓悟の理論書である。理論展開としては、問答の形式により、「○○はこうである。なぜなら××経にこのように書いているからである」、または「××経には○○とありますが、これはどういう意味ですか?→それはしかじか」とする形が多い。禅の語録は数多いが、このように禅の教義的根拠を明らかにした著作は少ない。ここには後代の禅のような韜晦な「禅問答」はなく、経典を参照して自らの考え方を明解に述べるという学問的態度が禅籍として実に新鮮である。また、本書では様々な経典が参照されており、禅の立場は特定の経典ではなく、それの「読み方」に依拠するものだったことを感じさせる。
下巻は大珠の語録(言行録)である。上巻の方が禅の歴史において意義深いのかもしれないが、私にとってはやや間怠っこしい。一方、下巻は具体的な問答であるため生き生きしており読んで面白い。元々の大珠の著作は上巻(「頓悟要門入道論」)のみであったが、それに下巻の言行録をセットにしたのは妙叶(みょうきょう)という僧であった。これは『頓悟要門』の普及に役だったと思う。
さて、そんな『頓悟要門』における大珠の主張を一言でいえば、「心こそが仏である」ということになるだろう。そして「究極はそなたのみ」なのだ。「その本性はもともと清浄であって、修行をする必要はない。証を立てたり修行したりという方法を取るものは、思い上がった人間と同じである」という。このあたりは、日本の盤珪禅師の「不生禅」(人は産まれながらに必要なものは全て備わっているという悟りの禅)を思わせる。
しかし同時に「心すらも幻である」と付け加えるのが大珠らしさかもしれない。大珠にとっては地獄も実在のものではなく、心が生みだした幻にすぎない。この世の中には実在的なものは何一つなく、あらゆるものは幻であり、自分が拠り所にするべきなのは自分の心(精神作用)以外は何もないのである。それ(心)が幻だったとしても! このあたりの論理は、ちょっとデカルトの『方法序説』にも似ているところがある。
ところで神会の禅は「煩悩即涅槃」のように、「煩悩があることを肯定することで、それが即ち悟り(涅槃)の世界となる」といった認識の問題を中心に据える。認識一つで悟りの世界にいけるから「頓悟」なのだ。一方、大珠の禅もそうした面はあるが、「心を清浄に保て」といった修養の性格もかなり持っている。大珠の「頓悟」は認識を変えるための方法論を「心」にフォーカスして述べたものといえるかもしれない。
禅籍としては稀なほど学問的に書かれた頓悟の教科書。
【参考文献 読書メモ】
『六祖壇経』
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html
唐代の禅僧、恵能の言行録。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。
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