2022年4月16日土曜日

『邪教/殉教の明治——廃仏毀釈と近代仏教』ジェームズ・E・ケテラー著、岡田 正彦 訳

廃仏毀釈を経て、日本の仏教がどう対応したかを述べる本。

明治初年、仏教は異端なる教え「邪教」であるとされ排斥された。しかし神道国教化政策が挫折し、仏教も国家に協力する体制になると、そのようにして受けた被害は——少なくともその一部分は——「殉教」であったと変換された(と著者は言う)。本書は、「邪教」と「殉教」の間にあるその変換がいかにして行われたかを象徴的な事例を通じて分析するものである。

「第1章 異端の創出——徳川時代の排仏思想」では、明治政府の神仏分離政策の前提となる反仏教的な動きや思想が取り上げられる。特に、仏典には多くの矛盾点があることを鋭く指摘した富永仲基『出定後語』と、それを読解して仏典が作為に満ちた創作物であると断じた平田篤胤『出定笑語』の紹介は興味深い。

また幕末の頃、地球は丸いといったような科学的知識が入ってきていた。仏教でいう須弥山(世界の中心にある巨大な山)とか十万億の仏国土とかは荒唐無稽な空想に過ぎないことが明らかになったのである。不可侵だった聖典に合理的な目がそそがれ、それが批判されたのである。しかし篤胤の『出定笑語』は内容は合理的精神からの批判であったが、熱意を込めて感情的に仏教を口汚く罵っているのが注目される。

また、仏典における作為のみならず、仏教とや寺院が非生産的な存在であるという批判も根強かった。儒教倫理からの勤勉主義から見ると、仏教や寺院は無駄であると考えられた。やはりここでも、仏教に立ちはだかったのは合理的・経済的な考えだ。

「第2章 異端と殉教に関して——廃仏運動と明治維新」では、明治政府の神仏分離やそれに伴って起こった廃仏毀釈の先蹤となった水戸藩・津和野藩・薩摩藩のケースが振り返られる。神仏分離以降の明治政府は、仏教を国家的行事から排除し、それまで寺院が持っていた権利を剥奪していったが、それに対して仏教教団は粘り強く抵抗し、なんとか生き延びようと努力した。それはある意味では自主的に国家に隷属することを選択したとも言える。それは「廃仏運動が残した最も深い爪痕として廃仏毀釈以後になされたあらゆる宗派組織の法的・政治的概要の厳密な法制化(p.114)」をもたらしたのである。

そうしたことの象徴として、明治3年に三河の大浜で起こった一揆について紹介している。「大浜一揆(三河事件)」では、民衆が浄土真宗(東本願寺)の護法のために立ち上がった。東本願寺の末寺の僧侶たち51人はそれに参画し民衆側に立ったのだが、本山は彼らに政治権力と対立しないように指導し、末寺に対して集会の規制をするなど、仏教を弾圧しつつあった国家の側に立ったのである。「三河事件」で処罰された人々は後年「殉教者」に仕立て上げられたが、それは彼らを「異端者」として処罰した人々によってだった。一方で、仏教は国家の側に歩み寄ることで徹底的な廃絶を逃れ、国家の中に位置づけられていった。

「第3章 儀礼・統治・宗教——大教の構築と崩壊」では、明治政府の「神学」が改めて考察される。明治政府は「復古」を掲げ、祭政一致国家を出発させた。しかし国民教化のために打ち出された「大教宣布」においては、「祝祭や祭り、葬儀や祭祀については何も言及されていない(p.142)」。明治政府は、神道教義の伝授よりも国民を馴化することに比重を移して行った。

そして明治5年には神道一辺倒の政策は終わりを告げ、教部省・大教院が設立されて神仏合同で国民教化に取り組んでいくことになった。それにあたって政府は「三条の教則」と呼ばれる原則を策定し、またそれを補完するものとして十一兼題、十七兼題という教化活動の手引きを作成した。特に十七兼題の方には、「万国交際」「国法民法」「律法沿革」「富国強兵」「産物製物」「文明開化」といった宗教的でない教化の性格が濃厚である。本書は「三条の教則」や「兼題」を微に入り細に入り解釈しているが、兼題についてのこのような詳細な考察は類書ではあまり見受けられないものである。

ともかく、「国民を統一し、国民国家の超越的で集合的な統一表象を作り出すために、手を替え品を替え、神の世界を人間世界にじかに結びつけようとする企てがなされた(p.171)」のである。しかし表向きには「三条の教則」や「兼題」は宗教色を廃していたが、実際にははっきりと神道に基づいていたために、ヨーロッパに外遊した島地黙雷(浄土真宗本願寺派)などの僧侶はこれに反発した。島地は宗教と政治は分離すべきであると主張して13もの嘆願書と30を超える論文を書き、そうした批判が島地以外からも提出されて教部省・大教院体制は終わりを告げた。

「第4章 バベルの再召——東方仏教と一八九三年万国宗教大会」では、時代が一気にくだって明治26年、アメリカで開催された「万国宗教大会」について語られる。これは、アメリカの信心家たちによって開催されたもので、「唯一の世界宗教によってすべての人類を一つの地球家族に統合(p.193)」することを夢想して企画された。カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、神道などの代表者が各国から招聘されて発表を行い、「独自の真理」を説きあった。

ところが、大会では普遍的兄弟愛がくり返され、その理念は夢想的なまでに崇高であったにもかかわらず、主催者はキリスト教の優位を微塵も疑っていなかった。 来るべき世界宗教はキリスト教を下敷きにしたものであることを隠そうとせず、他の宗教は遅れた段階にあるものだと決めてかかっていた。

よって、招かれた宗教者の一群は、初めから敗北を運命づけられていた。 結局、キリスト教以外の宗教者は、敵愾心を抱いてさえいる聴衆に訴えなくてはならず、「去勢されたような態度をとることになってしまった(p.213)」。しかも日本から参加した仏教代表者5人は一人を除き英語が不得手だったのである。そのうえ、彼らは互いに異なる宗派であったために協力するどころか反目し合ってもいた。

しかしそれでも、この大会に日本から仏教代表が参加した意義は大きかった。彼らは初めて「日本の仏教」を外からの視点で見ることになり、またこの世界大会に参加したという経験は彼らに「国際的地位」をもたらした。彼らは帰国後、それぞれのやり方で近代仏教の建設に携わっていくのである。

「第5章 歴史の創出——明治仏教と歴史法則主義」では、 仏教者たちがどのようにして「仏教」をまとめ、近代仏教を創造したのかが語られる。歴史法則主義とは、歴史はある法則に従って「進歩」するものだ、という考えで、19世紀の素朴な進化論を人間社会に当て嵌めるものである。この考えで宗教を捉えれば、宗教も「進歩」する(しなければならない)ことになり、「遅れた宗教」や「進んだ宗教」があることになる。仏教も、宗教の「進化」の中に自らを位置づける試みを行う必要があった。「同時代の社会や政治情勢に見合った仏教」を作らなくてはならなかったからである。

それは、各宗派それぞれがどうあるべきかというよりも、「仏教」として一つにまとまった教えを確立することだった。それは「釈宗」「東方仏教」「通仏教」などと呼ばれた。そのために、鎌倉時代後期の僧、凝然の『八宗綱要』が見直され、通宗派的な枠組みが準備された。しかし凝然の『八宗綱要』では、歴史法則主義的な立場ではなく多様な解釈の登場という文脈で日本仏教の歴史が捉えられている。これは、各宗派の教えに優劣を設けなかったことから「通仏教」にとって都合が良かった。

また『大乗起信論』も盛んに研究された。『大乗起信論』では宗派によらない大乗仏教の根本的思想が表現されている。鈴木大拙は『大乗起信論』を英語に翻訳したが、これは仏教を西洋に紹介することで日本仏教を確立しようとすることでもあった。こうした「一つの仏教」を確立しようとした人として、他に福田行戒・八淵蟠龍・蘆津実全・高田道見らが紹介されている。

その一つとして、島地黙雷・蘆津実全・釈宗演・土宜法竜が手を組んで編纂した『仏教各宗綱要』は仏教を統一する歴史的な傑作として歓迎された。しかしこの本で島地は証拠も記録もないでたらめな記述を多数行っていた。仏教を国家に受け入れられるものにするために、仏教の歴史をそれらしく捏造したのである。また特徴的なのは、各宗において江戸時代をほとんど無視して、古代や中世に記述の重点を置いたことである。『仏教各宗綱要』の内実は「通仏教」を構築するにはほど遠かったが、少なくとも江戸時代を仏教の停滞と見なす観念は通宗派的な表象となった。

南条文雄の『仏教聖典』はより堅実に「通仏教」に近づいた。南条はサンスクリット語仏典を研究し、仏教が今のように分派する前の「仏教」を難解な語句を使わずに表現した。このことは、仏教への風向きが変わったことも示していた。「以前であれば仏教は「異邦」のものであるがゆえに攻撃された[が](中略)、仏教の異邦性はもはや、近代日本史にとってダイナミックな役割を担う根拠(p.302)」になったのである。

本書は全体を通じ、事実の記述が僅かでその分析や解釈は長大、というややバランスを欠いた書き方である。根拠となる事実がほんの僅かしか提出されていないため分析や解釈が妥当であるか検証することが難しく、またその方法が観念的すぎて正直なところどこまで信頼を置いていいのかわからない。

例えば、南条文雄の『仏教聖典』はそれほど大きな影響力を持ったのだろうか? いや、そもそも、「通仏教」を作るという課題は、本当に仏教界が共有した課題だったといえるのだろうか? 本書を読みながら、ところどころにそうした疑問を抱かずにはいられなかった。

ともかく本書は、ごく限られた象徴的な出来事を深く深く分析・解釈していくスタイルであるため、鳥瞰したときにその出来事がどう位置づけられるのか、よくわからないのである。それでも、少なくとも第4章と第5章は、暗中模索していたこの時代の仏教の雰囲気が伝わってくるもので、高い価値があるのではないかと思う。

また、本書を手に取る人は「廃仏毀釈」に関心がある人が多いと思うが、廃仏毀釈の記述はそれほどオリジナルには感じなかった(もっと安価で手に入りやすい類書で十分だと思う)。その上、本書の中心である「近代仏教の創出」と廃仏毀釈の繋がりもそれほど明確ではない。

そうしたバランスの悪さは感じるものの、ハッとする記述も多いのが本書の魅力である。あまり先入観のない外部からの目で廃仏毀釈や近代仏教を見るという新鮮さがあるのは間違いない。

廃仏毀釈の痛手から近代仏教が生まれゆく様子を描いた大著。


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