2022年4月30日土曜日

『江戸のパスポート——旅の不安はどう解消されたか』柴田 純 著

江戸時代の旅行難民救済について述べる本。

江戸時代は、庶民がよく旅をするようになった時代だった。では、旅行中に病気や怪我をしたらどうしたのだろうか。現代においては、旅といっても数日のことだから国内旅行の場合はあまり気にならないが、当時の旅はほとんど徒歩なので数十日から数ヶ月かかった。その間に病気や怪我をすることは少なくなかったと思われる。

その不安を解消したのが「往来手形を持っていれば、無料で出発地に送還してもらえる体制」であった。これを著者は「(江戸の)パスポート体制」と呼ぶ。本書は、この体制がどのように構築され、どのように終焉を迎えたかを述べるものである。

この体制のポイントは、まず「往来手形」にある。往来手形とは、檀那寺や役所(村の庄屋、町の年寄)が発行した証文で、「この者は何村の誰それで間違いないので、助けてやってほしい」といったことが記載されている。天保14年(1843)以降は、発行には領主の承認も必要とされた(天保改革の人返し令の影響。後述)。

なお、本書はこの往来手形については非常にあっさりとしか記述されず、発行の対象は「士農工商えた非人(p.22)」だというだけで、これが具体的にどのように発行されたのかといったことはほとんど書かれていない。私自身の興味は、「僧侶は往来手形を持っていたのか?」ということだったのだが、「士農工商えた非人」には僧侶は含まれないのである。ところが別の箇所にある山口藩の例ではその対象が「寺社町人百姓(p.71)」となっており、武士が除外されて僧侶・神官が入っている。また本書には修験者がこれを携行していた事例が挙げられている。本書には往来手形から除外されていた乞食や帳外者については詳しいが、そもそも正規の対象が誰だったのかが曖昧なのである。往来手形は「パスポート体制」の本質なのでもう少し丁寧に説明してほしかった。

ともかく、往来手形をもっていれば、旅先で病気や怪我をして自力で帰ることができなくなっても、公権力により出発地に送還(村送り、宿送り)してもらえたのである。では公権力はなぜこのような対応を行ったのだろうか。(1)行き倒れを放置することを誡める幕府の「生類憐れみ」政策とその後の困窮者救恤政策、(2)他国民が行き倒れることで起こる問題を避ける領主の思惑、(3)旅人が死ぬことで迷惑になる村々の思惑、の3点から説明できるようだ。

最初に「宿送り」が行われるようになったのは(3)からのようだ。つまり病人の旅人がずっといては迷惑だから、次の村に押しつけてしまえ、ということからだ。ところが幕府の方では病人を看病せず「宿送り」をするとはけしからん、ちゃんと面倒を見よ、という指示を出した。これに対し、領主の方では「宿送り」自体が禁止になったと解釈したところと、強制的な「宿送り」はいけないと解釈したところとあり、藩ごとの対応はまちまちであったが明和4年(1767)の法令で「往来手形を持っている旅行難民にはしかるべき保護を加え(看病し薬を飲ませ)、本人の希望に応じて送還する」ことが明確になり、「パスポート体制」が確立した。

では具体的にどのようにしたかというと、大まかには、郡奉行による検分→「この者を送還せよ」という指示書(添え書付)の作成→村(宿)から村(宿)へ、リレー方式で送還→出身地での確認(往来手形と宗門人別帳の突き合わせ)、という流れになる。なお途中で死んでしまった場合は、そこに仮埋葬して出発地に連絡がいく仕組みだった。ただし、僧侶などが持っていた「捨往来」と呼ばれる往来手形では、「死亡の場合もそこに葬ればよく在所に連絡する必要はない」などとされていることもあった。

このように、往来手形は「パスポート体制」の要諦だったのであるが、不思議なことに幕府はこの作成については統一的な手続きを定めていなかったようだ。その最初の言及は天保14年(1843)に、「廻国修行、六部、順礼などに罷り出る者は…(中略)…村役人より御代官領主地頭へ願い出(p.78)」るように指示されたものである。それまでは往来手形は村役人・菩提寺が直接交付していたが、これ以降は領主が介在するようになった。なおこの禁令では、旅の目的が「廻国修行、六部、順礼」と宗教目的で多数の国を巡るものに限定されており、伊勢参りなど特定寺社の参詣や商用の旅行が除外されているのが気になった。そしてこれは、廻国修行等を許可制にしたものに他ならない。この規制によって天保以降は「参詣人など旅人の数は大きく減少していくこととなった(p.80)」。

本書では、以上のような概論を述べた後、史料がよく残っている紀州藩田辺領を中心に旅行難民の事例を大量に分析し、まるで薄皮を剥いていくように「パスポート体制」の実態を解き明かしていく。送還が必ずしも順調に行かなかった場合の対応や、幼年者(旅の途中で親が死んでしまうなど)の場合どうしたか、といったいろいろなケースが提出され、どのように解決されたかが述べられている。

ところで「パスポート体制」での看病や送還の費用はどうまかなわれたのだろうか。当初は領主から支給されていたが、田辺領では宝暦(1750年代)頃に町や村で負担するように変えられた。すると、宿泊させるのが損なため、無理矢理送還するようになった。また旅行人が増えるにつれ、街道筋の村々の負担増を招き、反発も強まっていった。

では宝暦頃に負担の主体が町・村に変更されたのはなぜなのか。本書には明確に書いていないが、その背景として宝暦ごろから乞食死が増加していることに目が行く。さらに天明期(1780年頃)には飢饉の影響もあり乞食死がそれまでの10倍ほどになり、天保期(1840年頃)にはさらにその10倍ほどのピークを迎えている。天明の飢饉が収まった後も乞食死が高い水準で推移していることから、飢饉以外に行倒死をもたらす事態が生起したと考えられる。

乞食とはそもそもどのような存在だったのだろうか。乞食を大別すれば2つあった。第1に地元の乞食、第2に身元不明あるいは他国から来た乞食、である。そして第2の乞食については、追放がどこの藩でも基本原則だった。そして天明頃から、この第2の「他国の乞食(非人)」が増加し、岩穴などにいつくようになったのである。そして、乞食と見分けがつかない順礼も多くなってきた。物乞いしながら旅を続ける乞食順礼は18世紀後半から急増するのである。

こうした人々は往来手形を持っていなかった。そして「パスポート体制」が成立した弊害として、逆に往来手形を持っていない人は保護しなくてよく、その場に葬ればよい、という処理の簡略化がなされるようになった。 乞食が増えたことで送還や葬儀にかかる費用負担の問題がもちあがり、往来手形を持たないものは全て不審者であり乞食だ、として切り捨てたのである。

ではなぜそもそも乞食は急増したのか。このあたりから、本書は「パスポート体制」を離れ、テーマが「無宿」へと移っていく。これまで「乞食」と一括されていた人々が改めて分析の俎上に載せられ、「無宿」(=住所不定無職)・「帳外れ」(=宗門人別帳から除外された人たち)の問題が取り上げられる。先ほど述べた乞食死の増加は、そのまま無宿人の増加と並行した動きを見せている。ではなぜ無宿人は増加したか。従来の研究では追放(罪を犯して人別帳から除外される)がその要因とされてきた。しかし史料を丹念に調べるとそうではないことが明らかになった。

無宿人は、「義絶」によって増えていたのだ。義絶とは、家族を宗門人別帳から除外してもらうことで、要は勘当である。義絶が増えたのは、義絶しておけば、後々に何か問題を起こしても親類に累が及ばないからであったと考えられる。素行が悪いものや厄介者を早めに義絶しておき、後の問題を避けたのだ。というのは、もし(義絶されていない)親類が犯罪などを犯した場合、その賠償は親だけでなく親類にまで及び、多大な負担が生じたからである。こうまでしなくてはならなくなっていたということから、幕末の社会の危機的な状況が推察されるのである。

おそらく、義絶は間引き(嬰児殺し)と同じ意味を持っていたのだろう。素行が悪いというよりも、養えない子を家から追い出すにあたって義絶し、後の憂いを防いだのだ。10代や少女の義絶が増加していることからそれは明らかである。

こうして無宿が急増したことを幕府は問題視して、みだりに追放しないよう触れを出し、松平定信は、安永7年(1779)から無宿を捕らえて佐渡島の鉱山に送る政策を行っている。時代が下って水野忠邦は、無宿増加の原因が義絶にあることを見抜き、天保期に「無罪の無宿」(罪を犯して追放されたのではない無宿)を人別帳に戻す政策を行った。さらに天保14年「人返し令」(出稼ぎ人などを江戸の人別帳に登録することを禁止し、あくまで一時滞在であることを明確化した法令)や「諸国人別改め改正」によって、往来手形の発行に領主の承認を必須としたのである(前述)。

これら天保の改革の中で人別帳が注目されているのは、無宿など「人別帳によって把捉されない人」が増加していたからである。人別減少は、要するに幕藩体制の外側に人が漏れ出ていっている、ということだから体制の根幹を揺るがす大問題だった。しかしこれは根本的な解決に至らず明治を迎える。

紀州藩では早くも明治2年に義絶での除籍が禁止された。また行方知らずになったものの捜索も(藩)政府?が担うことになった。追放刑も明治2年の太政官令で廃止され徒刑になっている。このように、明治政府においては全ての国民が戸籍に編成される仕組みが調えられていき、無戸籍者が原則存在しない社会になったのである。

「パスポート体制」については、明治4年6月、政府は従前の対応を踏襲する太政官布告を出しており、往来手形の代わりに「鑑札」を発行することとした。ところがその僅か1ヶ月後、鑑札の配布を止めている。さらに翌明治5年8月には「無印鑑での旅行が差し支えないようにする事」との太政官布告が出され、府藩県が往来手形や鑑札によって寄留旅行者を把握することを諦め、身分証明書不用の自由旅行を認めた。そして明治15年に「行旅死亡人取り扱い規則」が制定されて「パスポート体制」は終わりを迎えたのである。

本書は全体として、記述が時系列的でないこと、事例が大量に提示されること、また現代語訳されているとはいえ文書の引用が多いこと、「パスポート体制」と「無宿」の問題があまり整理されずに語られていることなどから、読みやすいものとはいえない。しかし大量の事例は、パスポート体制だけでなく、当時の人々の旅に対する考え方や人道的な観点など、それぞれが様々なことを教えてくれ、私にとっては参考になった。

私は本書を、僧侶はどうやって旅をしたのだろうか、という疑問から手に取った。僧侶は順礼や修行のために全国を廻っている場合が多いからである。しかし本書にはその答えはあまり載っていない。ただ、廻国僧も往来手形が必要であったこと(p.201)が僅かに分かったくらいだったが、その例は興味深い。宝暦11年(1761)、鳥取で死去した廻国僧の往来手形を確認したところ、国元に問い合わせても「そのような者はいない」と回答された。つまりこの廻国僧の往来手形は偽造だったのである。ではなぜ彼は往来手形を偽造したのか。その理由は詳らかでないが、彼は手形を偽造してまで廻国したということになる。

大量の事例によって江戸時代の往来手形と人別減少の問題に切り込んだ非常な労作。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の旅』今野 信雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_24.html
江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。

 

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