2020年11月6日金曜日

『法華経』(現代語訳大乗仏典2)中村 元 著

法華経のエッセンス。

本書は仏教学者・比較宗教学者の中村元が折々にまとめた法華経(サンスクリット+漢文)の重要な部分の現代語訳とその解説を基本として、足りない部分を東方研究会 (中村が残した研究団体)[の堀内伸二]が補筆したものである。

よって本書は法華経の全文ではなく、そのエッセンスの解説である。

法華経はアジア諸国で「諸経の王」として重視された経典であり、日本の文化にも巨大な影響を与えてきた。これは紀元1〜2世紀の北西インド、クシャーナ王朝で編纂されたと見られ、特に韻文の部分が早くに成立した。この韻文(ガ—ター)はサンスクリット語でもパーリ語でもない言語(ガーター・ダイアレクト)で書かれている。

『法華経』は中国に伝えられると鳩摩羅什の翻訳を含め3種の翻訳が作られた。それほど中国人は『法華経』に深い影響を受けたということになる。特に天台大師智顗(ちぎ)は『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』という古典的な大作(三大部)を残し、これは日本にも大きな影響を与えた。

日本でも聖徳太子が『法華義疏』を著しているように、『法華経』は仏教伝来当初から重んじられ、天台宗が『法華経』を根本経典としたことから、天台宗を母体として生まれた諸派もまたこれを最も基本的な経典の位置づけとした。このように甚大な影響力を持った経典は他になく、『法華経』はまさに「諸経の王」である。

その内容であるが、まず冒頭(序品)の場面の壮大さはちょっと度肝を抜かれる。釈尊が何万人もの菩薩たちの前で教えを説き、その光で全世界を照らす場面である。このオープニングには、『法華経』の巨大な包容力がある世界観が表現されている。

具体的な思想については、長大なお経なのでとてもまとめられるものではない。そこで以下に気になった点だけ記す。

第1に、「一乗の思想」。悟りに至る方法・教えにはいろいろあるが、それは最終的には帰一する。大乗仏教は小乗仏教(上座部仏教)を批判していたのだが、『法華経』では小乗すら包摂する。仏は偉大な慈悲を持っているので、「南無仏」と唱えるだけでもみな救われる。

第2に、ストゥーパ(塔)崇拝の勧め。ストゥーパ(舎利=ブッダの遺骨を崇拝するための施設)は、仮に子供が戯れに作ったものであっても仏に救ってもらえるという。これは信仰心の有無を問題にしていないようで非常に気になる部分である(時衆の「信不信をえらばず」を想起させる)。塔崇拝の勧めは、日本では諸々の塔(五輪塔とか宝篋印塔とか)の造営に大きな影響を与えたと思う。

第3に、「回向の思想」。経典を読誦する功徳は他の人に「回らし向け」ることができて、それによってやがて全ての人がさとりを開くことができる(→普回向文「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」)(化城喩品)。

第4に、経典そのものを聖なるものと見なす思想。『法華経』をたもつ者は、そのまま如来であるとし、経典をたった一つの語句だけでも読誦し、書写し、記憶し、拝み、供養(伎楽や花で荘厳する)することは無上の功徳がある。言うまでもなく、この思想は日蓮宗に強く受け継がれた(法師品)。

第5に、 「久遠(くおん)の本仏」の思想。歴史的存在としての釈尊は既に入滅しているが、実は仏は永遠の昔(久遠)に悟りを開いており、それが方便のため人間として生まれて教えを説いたものであって、仏の本質は永遠不滅のもの(常住不滅)だという思想である。要するに、仏の教えは特定の人物によって説かれた「歴史的な」ものではなく、「永遠の」ものである(如来寿量品)。

第6に、観音崇拝の思想。『法華経』第25章「観世音菩薩普門品」は、『観音経』として独立して尊ばれた。これによれば観世音菩薩は、ちょっと礼拝したり、念じるだけでも、ただちに現れて災いを取り除き、いかなる苦境からをも我々を救ってくれるのだという。また我々の理解力や立場に応じて35の身に姿を変えて教えを説いてくれる(一般的に「三十三身」と呼ばれる)。『法華経』は主人公のようなものが登場しないお経であるが、観世音菩薩は法華経の精神を具現化したアイコン的存在といえる。

このように、『法華経』は様々な思想が盛り込まれており、ある種の編纂物のような趣がある経典である。こうした性格からか、著者は『法華経』を「宥和の思想」であるとまとめている。『法華経』においては、アレはダメだこれはダメだといった規制的な文言は全くといっていいほど出てこず、いかなる方法によっても、ほんの僅かな信心しかなくとも、仏の偉大な慈悲によって皆救われるという、包容力のある思想が展開しているのである。

しかし、『法華経』を至高のものとみなした日蓮宗が他宗排斥的になったのは皮肉なことだ。

なお、中村元の訳注・解説は大変丁寧で、非常にわかりやすい。本書では、漢訳を単なる翻訳と見なさず、一つの創造物として扱い、サンスクリット原文とほぼ等しい比重(むしろ漢訳の方が基本の部分も多い)で紹介している。 それは、日本では漢訳によって『法華経』が受容されているから、日本の思想との接続が考慮されているのである。

しかし、漢文の読み下し文は、伝統的な訓じ方に従っていない部分が多い(らしい)。それは伝統的な読み下し文が、意味が不明瞭になったり、日本語として体を成さないことがあるからで、著者は「そもそも漢文の読み下し自体に無理がある」との立場である。そこで本書では伝統にとらわれない合理的な読み下しが選択されている。これは『法華経』を聖典としている方々からすれば容認できかねることかもしれないが、元来の意味を正確に理解できるようになるのだからいいことだと思う。

壮大な世界観を持った「宥和の思想」の経典のわかりやすい解説。

 

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