2020年11月4日水曜日

『古代の神社と神職—神をまつる人びと』加瀬 直弥 著

古代の神社がいったいどういうものであったかを述べる本。

我々はある種の神社は古代から連綿と続いてきたものだと考え、神社とはこのようなものだ、というイメージを持っている。しかし実際には幾度もの断絶があり、そもそも神社とはいかなるものであったかということすら正確には分かっていない。

本書は、古代の神社がどのようなものであったかを、(1)神社の立地と社殿、(2)神職の職掌、という2つの観点から推測するものである。

(1)神社の立地と社殿

神社は、立地が非常に重要のようだ。それは、ただ神を祀ることが重要なのではなくて、祀る場所そのものが聖地の性格を持たなくてはならないからのように見える。神を祀れという託宣がある場合にも「どこそこに祀れ」と場所の指定がある。これは寺院の造立とは異なる点であろう。ではどのような場所に神社は立地したか。

山の神社の場合、山上・中腹・麓と、いろんなケースがあり一定していない。しかし神の領域を截然と分ける意識は共通している。田の神社の場合も同様であるが、水利との関係が大きくなる。神社は水利上のポイント(水が湧いているとか)に位置することが多い。総じて言えば、神社は地形的な際(キワ)や特徴的な地形に立地することが多く、聖域化が可能な(人の活動と交わらない)場所が選ばれている。

そうした立地に、古代の人は社殿を建てたかどうか。よく「古代の神社には社殿(本殿)はなく、山そのものを神として祀った」などと言われるがこれは事実なのか。確かに本殿のない神社はあった。しかしそれが一般的だったわけでもないらしい(その割合がどうだったのかは不明だそうだ)。そして社殿を造営することは神を喜ばす贈り物の意味があり、社殿を喜ばなかった神はいない(らしい)。しかし社殿の有無は本質的ではなく、より重要なのは「神の領域」を区画することであり、特にみだりに人が立ち入らないように閉鎖することだった。この意味で社殿は有効であったため、多くの神社で採用されていった。

しかし、ここで重要な詔(みことのり)がある。天武天皇10年(681)に出された「神社の神の社(やしろ)を造営せよ」という詔である。これは全ての神社に対して出されたのではなくて、朝廷が把握している神社ということであるが、このような命令が下されたことは興味深い。つまり、このような命令があったということは、神社の方では社殿の造営を積極的には行っていなかったことの傍証であり、また朝廷としては社殿がある神社の方を正統とみなしていたことの証拠であるからだ。同様の詔は、天平9年(737)、天平神護元年(765)にも出ている。このようにして、平安時代初期には社殿がある神社の方が一般的になった。

さらに、造営した神社が適切に維持管理されない場合も多かったらしく、朝廷は国司に対して神社をしっかりと清掃するように命令を出している(後に祝(はふり)が清掃する前提に変更)。どうも社殿に関しては、自然発生的なものではなく、朝廷の関与で基本形ができていくということのようだ。しかしおそらくはそのために、現場の神社の方では社殿の造営や維持管理を積極的に行おうとする意欲に乏しいように見える。一方、朝廷は社殿の造営を国司の勤務評定に加えたり、たびたび維持管理に関する詔を出したりして神社をしっかりとしつらえようとしており、これは鎌倉幕府にも引き継がれる(『御成敗式目』第1条)。しかし何のために朝廷が社殿にこだわったのかは明確ではない。

(2)神職の職掌

神社は祝部(はふりべ)、禰宜(ねぎ)といった神職が維持していくことになっていたが、驚いたことにこうした神職が具体的に何であるのかはよくわからず、しかも平安時代初期の段階では当時の人すらもよくわからないようになっていた。そして朝廷の方も、こうした神職についての規定はほとんどしていない。祝部について定められた任務は、毎年2月(祈年祭の時)に神祇官に幣帛を取りに来て神社に祀る、ということに尽きる。

では神職にはどのような人物が任命されたのか。ほとんどの場合、神職を務める氏族は決まっていた。これは単なる世襲ではなく、祭神によって名指しされている(とされる)場合があるなど宗教的な意味がありそうである。

また、神職というと笏(しゃく)を持っているというイメージがあるが、実用的には何の役にも立たない笏を持っているのはなぜなのか。 実は把笏は位階(神階)の高い神社の神職のみに認められた特権であった。ここで関連が出てくるのが「神階(例「一品(ほん)」とか)」である。神階には実利的なメリットはなかったが、神階授与が中央との結びつきを示せる国司の有能さの証しと見なされて、積極的に行われた時期がある。そして斉衡3年(856)から神階と把笏容認が連動するようになった。こうして、目に見える形で神階授与がわかるようになり、一種のステータスとなったのでこの傾向が加速され、把笏が広まっていったのである。しかしその背景には、それに先立つ時期、朝廷と地方の神社との関わりが弱くなってきたという事情があったようだ。つまり把笏容認は朝廷と神社との結びつきを確認する象徴だったということになる。

ところで、古代の神職には女性が重要な役割を果たしていた。皇族の未婚女性が務めた伊勢大神宮の斎王(さいおう)や、春日神社の斎女(さいじょ)などが有名である。また宇佐八幡の禰宜でもあり尼(!)でもあった、大神杜女(おおがの・もりめ)は東大寺大仏の造営に深く関わり、神職としては前代未聞の「従四位下」の位階を授けられた。伊勢大神宮では大物忌(おおものいみ)という童女が務める神職もあった。大物忌はまつりにおいて最も神のそばに使える役割を担っていたようだ。伊勢大神宮に限らず、朝廷はまつりを童女に積極的に行わせていた。しかし天長2年(825)、朝廷は女性の祝部に対して懸念を表明し、以後徐々に、女性神職が男性同様の立場となることはなくなっていく。

本書では全体を通じ、制度の細かい変転を検証することを通じて、奈良時代末期から平安初期が神社にとっての画期であることを示す。この時代、朝廷は神社行政のテコ入れを行い、社殿の造営・維持管理や、まつりの実施、神階を授けることによる朝廷との関係性の強化などを行っている。そうした朝廷の政策によって生まれたのが「神社」なのだ。つまり「神道」は、自然発生的な日本の民俗宗教ではなくて、朝廷の政策によって人工的・画一的に作られたものだ(本書にはそこまで露骨には書いていないが)。

そしてこの時期にそうした政策が行われたのは、道鏡政治の揺り戻しであったという(ごく簡単に述べられている)。これは高取正男が『神道の成立』で述べたことである。ただし、であるにしても、なぜ女性神職に制限を加えるようになったのかは謎である。

朝廷の動向の細かい検証によって古代神社確立の過程を辿る実直な本。


【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

 

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