フランスでルネサンス期に生きた12人の小伝。
普通、ルネサンスというとまずはイタリアで活躍したダ・ヴィンチやダンテといった人々を思い起こすし、そうでないにしてもチョーサーやモンテーニュのように文芸復興運動の担い手を想起するのであるが、本書の中心となるのは、そうした華々しい文化活動ではなく、暗澹たる宗教戦争を引き起こすことになる旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の争いの渦中にあった人々である。
彼らは、いわば近代社会の産みの苦しみに立ち会わなければならなかった人々であった。
宗教改革は、聖書の原典研究という地味な活動から始まった。エラスムスやルッターといった人々は、当時のキリスト教、特に教会の行動が聖書に書かれた精神から乖離し、元来の精神性をなくして夾雑物に覆われ、権力に歪められた存在だと批判した。聖書の原典をたずねることで、社会のしくみへの懐疑が生まれたのであった。
そして彼らは「それはキリストと何の関係があるのか?」と問い、現今のキリスト教(旧教)を改革しようとするにせよ(エラスムス)、それを破壊し新しい教会を打ち立てようとするにせよ(ルッター、カルヴァン)、あるべき正しい道を自由な精神で選び取って進もうとした。
しかし、それは頑迷固陋な旧教と清新な新教の争いではなかった。自由な検討の精神から始まったはずの新教も、旧教側からの容赦ない弾圧、粛正、虐殺を受けることによって過激に凝り固まっていき、やがては新しい狂信となって旧教側を弾圧・粛正することになるのである。それこそが新教の教祖の一人ともいうべきカルヴァンの呪われた運命であった。
そのカルヴァンと一度は盟友になりながら、当初の理想を忘れ旧教弾圧の独裁者となり悪鬼道へと堕ちていくカルヴァンを勇気と理知をもって批判したのがセバスチアン・カステリヨンである。しかしカルヴァンは、カステリヨンを異端として排撃した。
またカステリヨンと同様に、聖書に記載のない数々の迷信を斥け、清新な神学を打ち立てようとしたミシェル・セルヴェも、カルヴァンに教えを請うていたものの、やがてその神学はカルヴァンを激怒させ、セルヴェはカルヴァンによって逮捕され異端として火刑に処されたのである。
旧教と新教の争いという大きな構図の中に、敵味方が入り乱れた様々なドラマがあった。本書はそうした12人の人生を辿ることによって、根本の精神をたずね、社会に対して率直に検討を行うことの難しさを描き、精神が硬直する悲劇(あるいはあまりにも悲惨すぎるがゆえの喜劇)を垣間見せるものである。
しかしその筆は非常に抑制的である。フランス・ルネサンスの文芸に通じた著者の学殖が傾けられ、事実を整理し正確に述べることに大半が費やされ、皮相的な文明批評じみたところはない。しかしその行間のはしばしに、感情の高ぶりともいえる社会への警鐘が感じられるのである。
本書は終戦間際から書き継がれ、漸次改訂させられてきたものであり、戦後社会の行方を案じるような部分も見受けられる。『フランス・ルネサンスの人々』は決して過去の興味深いエピソードを開陳するだけの本ではなく、人類社会が普遍的に直面している危険性——争いや失敗を避けることは十分可能なのに、破滅へと猛スピードで進んでしまう危険性——に目を向けさせる本でもある。
「そして、人間というものは、何という「無欲」なものだろうとも思った。つまり、血を流さないですむ道がありながら、その道を歩こうともしないからである」(p.119)
宗教改革にまつわる人々の人生を通じ、人間が原罪的に背負った愚かさをほのかに感じさせる名著。
※本書で描かれる12人
ギョーム・ビュデ、アンブロワーズ・パレ、ベルナール・パリッシー、ミシェル・ド・ロピタル、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、エチレンヌ・ドレ、ギョーム・ポステル、アンリ4世、ミシェル・セルヴェ、ジャン・カルヴァン、イグナチウス・デ・ロヨラ、セバスチヤン・カステリヨン
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