2020年9月10日木曜日

『差別戒名とは』松根 鷹 著

差別戒名の現在を述べる本。

差別戒名とは、主に被差別階級の人々に対し、差別的意図をもってつけられた戒名である。例えば、「畜男(女)」(家畜のような人間)、「似男(女)」(男に似ているが男ではないという意味)といった直接的な表現もあるし、部落民以外は4字の戒名なのに部落民だけ2字であるとか(相対的差別)、敢えて字画の一部を省略したり、逆に余計な点をつけたり、特定の略字や、読めない(判読不能の)文字を使ったりといった様々なやり方がある。この世では不遇だった人々が、死後にも差別を受けなければならないという、およそ宗教にあるまじき恥部が差別戒名なのだ。

本書は、この差別戒名を巡る情勢を人権問題の立場からまとめたものである。

差別戒名が問題視されてきたのは決して古いことではなく、部落解放運動が進む中で徐々に明らかになってきたもので、現在でもその全貌は不明である。しかも、各宗派の本山は差別戒名の存在をなかなか認めようとしてこなかったために、差別戒名自体が隠蔽されてきた。明らかに差別的な戒名が暮石として残っているのに、本山は「それは旅の僧侶がつけたものだろう」「転宗してきた人が、前の宗派でつけてもらった戒名だ」などという理屈でのらりくらりと躱してきたのである。

そもそも、なぜ差別戒名などというものがつけられたのだろうか。中世には差別戒名はほとんど全くつけられなかった模様である(確認されている最古の差別戒名は1605年のもの)。しかし江戸幕府によって固定的な身分制度が敷かれると、その階級差別の論理を仏教各派も追蹤し、高位の人々に仰々しく立派な戒名が与えられるその一方で、被差別民に対しては差別戒名がつけられるようになったのである。宗教統制が厳しくなるにつれ差別戒名も普及し、特に享保年間以降に急激に増加した。寺院は、戸籍管理の意味合いがあった寺請制度との関係上、被差別階級を区別していたという事情もあるのだろう。

そして差別戒名のつけ方は、『貞観政要格式目』という本が巨大な影響を及ぼした。これは『貞観政要』とは関係の無い、ほとんど偽書といってよい信頼性の低い本なのであるが、宗派に関係なくこれが利用され、差別戒名のつけ方の指針となった。

ただ、現在調査がされている限りでは、差別戒名の存在数は地域の偏りがあって(長野県に多い)、また宗派によってかなり異なる。差別戒名は浄土宗及び曹洞宗に多く(この2宗は差別戒名墓石の改正などに積極的なため多く報告されているだけかもしれない)、浄土真宗にはほとんど存在しない。

しかし差別戒名は存在しないとしていた浄土真宗大谷派でも、1945年12月に鹿児島別院でつけられた明らかな差別戒名「釈尼栴陀」(栴陀=栴陀羅(センダラ)=インドの被差別階級シュードラのこと)の位牌が発見され、大きな衝撃を与えた。差別戒名は、江戸時代の話ではなく、敗戦後にも続いていたのである。なお、その後大谷派は差別戒名の調査を行なっているが、それほど多くが報告されているわけではない。

ではなぜ浄土真宗には差別戒名が少ないのか。歴史的に、浄土真宗には被差別階級の門徒が非常に多く、穢多・非人の8割が真宗だったという。にも関わらず差別戒名が少ないことは何を意味しているのか。実は、真宗には数多くの穢寺(または穢多寺)があった。これは、寺格系列の最下位として寺格外に置かれたいわば被差別寺院である。被差別階級はこの穢寺の檀家となっていた。穢寺自体が本山から差別を受けていたが、このような所属関係にあったため、被差別階級であることを戒名でことさら区別する必要がなかったのかもしれない(本書にははっきりとは書いていない)。

ところで、近世以前の社会では公然と身分差別があったのは周知のことである。仏教各宗派では世俗の差別意識を無批判に受け入れ、結果として差別戒名が後世に残されたから今になって問題になっているが、差別をしていたという点でいえば、社会全体を批判しなくてはならない。だから、差別戒名の存在自体は、仏教各派の恥部ではあるかもしれないが、むしろ社会全体の過ちとしなければならない。

だが、差別戒名の存在を認めず、過去の過ちをなかったことにしようとする教団には、厳しい批判が向けられてしかるべきである。我々は良いところも悪いところも先人から引き継いで今の自分たちが存在しているのだから、自らが犯した過ちでなくても、先人の間違っていたことを謝罪し、訂正し、関係者が納得する形へ昇華させて次の世代へ引き継いでいく責任がある。差別戒名は、まだその一部しか対応がなされていない。全宗派での前向きな調査・解決を期待したい。

なお本書は90ページほどで、差別戒名の現状についてコンパクトにまとまっており、簡単に読める本である。ただし、あまり考察はなく、例えば各宗派はなぜ差別戒名をつけたのか、というような本質的なところは全く触れられていない。本書の関心は、差別戒名の歴史よりも、現在の部落解放運動の中で差別戒名がどのように扱われ、解決へ向けて努力されてきたのか、ということにある。

差別戒名、ひいては宗教における差別の構造を考えさせる実直な本。

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