2020年12月30日水曜日

『殉教と民衆—隠れ念仏考』米村 竜次 著

相良藩(人吉藩)を中心として真宗禁制の実態を描く本。

相良藩では、薩摩藩と同じく江戸時代に真宗(一向宗)が禁止されていた。しかしその実態は、史料がほとんど残っていないため謎に包まれている。本書は、相良藩を中心として近世南九州における真宗禁制を、いくつかのトピックをキーにして読み解くものである。

第1のトピックは、貞享4年(1687)、相良藩で14人もの集団入水自殺が行われたもの。その身分は種々雑多であり、その集団を結びつけていたものが何かがわからず、しかも彼らは自殺の理由について何の手がかりも残さなかった。しかしそれは、幕府が切支丹禁制の弾圧を布達した直後のことであり、著者は14人を隠れ切支丹か、隠れ念仏の徒であったかもしれないと推測している。

第2は、隠れ念仏の「毛坊主」や講を組織した人びとについての考察である。毛坊主とは、俗人の僧侶(のような働きをした者)である。彼らは普段は農業などに従事するが、裏の世界では隠れ信徒を束ねる指導者の役割を果たした。本書では「伝助」や「高沢徳右衛門」という毛坊主の動向をかなり詳しく追っている。伝助は、累代にわたって襲名された毛坊主の名前であり、5代連続で殉教した。高沢徳右衛門は、藩の家老までも隠れ念仏の信徒に引き込むという大胆な組織者だった。(高沢に関して、「ナバ山騒動」という農民一揆の事が語られている。これは隠れ念仏との直接の関連はないが面白い一節である。」)

第3は、転びもの、つまり転向者について。隠れ念仏の信徒であることが露見すれば、厳しい拷問が行われた。当然、転向するものも出てくる。そして彼らは取り締まり組織の一員(一向宗訴人)となり、今度は摘発側に回らざるをえないのである。それが転向の証明となった。

ところで、鹿児島県出水地方の隠れ念仏の信徒は、夜中に肥後水俣の源光寺へやってきて念仏を行った。このような基盤があった出水では、一気に1700人もの人が隠れ念仏の信徒であると申し出てきたことがある(=元文5年頃)ほど真宗が盛んだった。この出水地方に、まさに隠れ念仏の取り締まりをしていた税所家の文書が残っていて、隠れ念仏研究には必須の史料である。著者はこれを頼りにして、弾圧と転向のリアルを探っている。

藩では、通常は隠れ念仏を泳がせていたと著者は見る。その動向を把握して、いつでも摘発ができるようにしておいたのだ。そして飢饉など藩の財政状況が厳しくなってきたとき、一気に弾圧を加え、厳しい拷問によって組織を潰滅させた。それは、真宗の信仰には上納金を必要とするため、藩財政を圧迫するものとみて問題視したのだという。

第4は、三業惑乱について。隠れ念仏の講の内部では、教義上の解釈と信仰のあり方に関して紛争が絶えなかったという。系統的な指導がなかったのだから当然である。幕末、真宗本願寺派(西本願寺)の本山でも、三業惑乱という教義上の争いがあった。

三業惑乱の詳細は本書に詳しいが、隠れ念仏との直接の関係はない。ただ、この争いで異端とされた願生帰命主義派(欲生派)は、地下に潜伏して隠れ念仏への布教に活路を見いだすのである。その一人が追放判決を受けて熊本・鹿児島に逃げてきた大魯(岡大道)という人物。彼は天草、甑島、永吉(吹上)を回って、「細布講」や「煙草講」という講を組織した。

彼は自身の教えこそが正しいと民衆に教え、その当てつけのように厖大な上納懇志を本山に毎年送りつけた。大魯によって鹿児島西部一帯は念仏の興隆を見せたが、同時に三業惑乱の抗争が隠れ念仏にも持ち込まれた。なお大魯が身を隠していた洞穴が永吉に残っており、大魯の墓は光専寺にあるという。

第5に、隠れ念仏の民俗学的な視点からの考察である。この部分は事例の列挙的である。特に隠し部屋の造作などは興味を惹かれる。本書の著者は真宗の住職であるが、本山には批判的であるものの、かといって隠れ念仏を称揚するでもなく、フラットな視点で隠れ念仏を語る。隠れ念仏は、隠す必要があるために呪術化していった。それは、本来の真宗から離れていくことでもあった。そして、そのように土着化したからこそ隠れ念仏が盛行したのかもしれない。「隠すこと、擬装することが嗜好的と言ってもいいほどに逆に信徒をむしばんでしまうこともあるのである。祈祷を許さない真宗の教典のゆえに、逆に秘事化、呪文化することによって有難みと娯しみを見出す(p.275)」のだった。

構成がスッキリしていないため全体的にはわかりにくいが、ちゃんと現地に取材してまとめられた隠れ念仏考察の本。


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