2022年11月27日日曜日

『公家たちの幕末維新—ペリー来航から華族誕生へ』刑部 芳則 著

公家の視点で明治維新を語る本。

明治維新史における主役は幕府や雄藩(薩長土肥)と志士たちであり、公家は脇役として語られてきた。しかも公家の多くが世間知らずで無能であるとされ、実際に新政府が樹立されてからは、岩倉具視や三条実美など一部の例外を除いて政権の中枢から排除された。

しかし権力闘争として明治維新史を見れば、それは「誰が朝廷を我がものとするか」の戦いであったと言える。すなわち公家たちの動向がキーだったのである。本書はこうした視点で、孝明天皇践祚以降の幕末維新史を、公家の視点から描いたものである。

「序章」では、まず前提となる近世の朝廷の仕組みが概説され、これが非常に参考になる。堂上(とうしょう)と地下(じげ)、公家の家格(摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家)、門流などの解説は重要だ。朝廷の意志決定機構は「朝議」であるが、これに参加出来たのは関白と議奏・武家伝奏(これを「両役」という)。意外なことに左大臣・右大臣・内大臣は朝議に参加する資格がなかった

両役以外の公家には政治的発言権はなく、下級公家は近習・内番・外様という禁裏小番を勤めた。このうち、明治後の侍従にあたる近習は、身分は低いが天皇の側近であった。内番・外様は具体的な仕事はない名目的な役職(順番に禁裏に詰めるのみ)である。

「第1章 政治に関与する公家たち」では、外国船の来航に対する公家の動向が語られる。彼らは外国船を好ましく思わず、孝明天皇は七社・七寺に国家安寧を祈祷したが、日米和親条約には反対していない。当時内裏が炎上して再建の必要があったため、朝廷は幕府と融和的な姿勢だったことがその背景にある。しかし続く通商条約については孝明天皇は反対の姿勢だったものの廷臣に諮問しても思ったような反対意見が出てこなかったため、参議以上に意見をもとめた。このあたりが興味深いところで、本来は政治的発言権がない公家に意見をもとめるようになったのが時代の移り変わりを象徴している。

朝廷の意見をまとめると、関白九条尚忠は幕府に再考を促す、太閤鷹司政通は開国容認、廷臣(左右大臣など)は条件付きで容認、参議以上は概ね開国反対であった。朝廷の中枢は幕府と協調的で開国容認であったのに、下級公家は開国反対なのが対照をなしている。特に中山忠能(ただやす)の激しい攘夷論と、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる)の冷静な開国容認論は注目される。関白九条は幕府の意向に沿う形で通商条約を容認する勅書を作成しようとしたが、それに黙っていなかったのが中山忠能らであり、幕府寄りの武家伝奏東坊城聡長への襲撃未遂事件も起こった。おとなしいイメージの公家も実力行使に出る時代になったのだ。

さらに岩倉具視・大原重徳が中心となり、堂上公家の「八十八人列参」が行われる。数の論理で勅書案の修正を求めたのである。これで勅書案は修正されることになった。朝廷内の下剋上とも言える事態であった。

ところが井伊直弼が大老に就任すると状況は一変。幕府は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印してしまった。孝明天皇は激怒。さらに攘夷派を弾圧する安政の大獄が開始された。この状況に抵抗するため、左右大臣・内大臣等の意見により水戸藩の徳川斉昭(井伊より慎を命じられていた)に幕政改革や外侮の防御を図らせる「戊午の密勅」を下した。なおこれとあわせて、関白九条尚忠が幕府寄りであることから天皇は排除しようとしたが、幕府(京都所司代酒井忠義)は関白罷免の差し止めに成功した。

さらに幕府は、安政の大獄の弾圧の対象を公家までに広げ、「戊午の密勅」関係者を次々処分した。関係者は処分をおそれ次々辞任したが、結局多くが処罰された。前関白鷹司政通・前左大臣近衛忠煕・前右大臣鷹司輔煕・前内大臣三条実万は落飾・慎、皇族の青蓮院宮尊融親王が慎・退隠・永蟄居など、政権の中枢が退場した。なお皇族の青蓮院宮の処分の名目は、一乗院主であったときに家来の娘に子どもを産ませたことだった。彼は青蓮院から相国寺塔頭の桂芳軒に移り「獅子王院宮」と称した。

「第2章 公武合体の季節」では、和宮降嫁の顚末が述べられる。皇女を将軍の妻に迎えるというアイデアは井伊直弼の片腕長野主膳(義言(よしとき))のものらしい。安政の大獄によって悪化した朝廷との関係を婚姻関係によって修復することを考えたのである。

孝明天皇の妹和宮には許嫁がいたことから朝廷は難色を示すが、年齢的に和宮以外の候補がいなかったこと、そしてこのことをどこからか聞きつけた岩倉具視が暗躍し、三度の降嫁願いを経て「公武合体」のために朝廷は嫌々ながら承諾した。この際、幕府は期限を定めて攘夷を約束したが、これが後で自分の首を絞めることになる。こうして和宮は京から江戸へと下向。その行列を共にしたのが権大納言中山忠能や左近衛少将千種有文、右近衛少将岩倉具視などである。

なお朝廷からは和宮の処遇については御所風にするという条件が出されたにもかかわらず、江戸についた和宮は武家風の部屋に通され、しかも13代将軍の正妻天璋院との対面では天璋院が上座であった。

「第3章 京都の政局」では、公武合体と尊皇攘夷のせめぎ合いの中での公家の動きが語られる。本章は1861〜62年の2年間を対象とする。この時期には長州と薩摩が目立った活動を展開する。長州の長井雅楽(うた)の積極的な開国論「航海遠略策」は朝廷に方針転換の兆しをもたらしたが、結局は攘夷の方針が維持された。一方、薩摩の島津久光は上京して天皇に謁見し、朝廷と共同して幕府に幕政改革(三事策)を突きつけることとなった。本書ではその勅使が大原重徳に決まり久光と共に出発するまでの経緯が述べられるが、煮え切らない朝廷に久光が痺れを切らす様子が興味深い。

この動きと同時期、朝廷では「国事御用書記」という役職がつくられ27人の公家が任命された。これは議奏を補佐するもので、国事書類の筆写を行うものである。彼らは筆写を通じて多くの情報に触れた。注目すべきことに、この役職は摂家を除く清華家・大臣家・羽林家・名家・半家からそれぞれ任命された。身分の高下にかかわらず公家が政治にかかわる窓口が出来たことになり、事実、後述する四奸二嬪排斥運動などを起こす公家たちがこれに重なっていた。

京都の政局が次第に強硬な攘夷のムードに傾いて行く中、和宮降嫁に協力した公家への家禄加増が発表される。関白九条尚忠に1000表、内大臣久我建通と宰相中将橋本実麗に300石、岩倉具視と千種有文に200石などである。攘夷ムードの中で公武合体派に行われたこの褒美はありがた迷惑なものだった。批判が高まることになったからである。

さらに長井雅楽の「航海遠略策」には、朝廷の衰微を認める部分があったためその言葉尻が問題になる(謗詞一件)。朝廷は「謗詞一件」を重大な問題とは見なさなかったものの、長州藩攘夷派はこの件が解決すれば長井が復活し公武合体路線になるとおそれて運動し、長井は切腹となった。公武合体派への弾圧の始まりだった。文久2年(1862)、久我建通に蟄居落飾、岩倉具視・千種有文・富小路敬直に蟄居を命じ(この4人が「四奸」)、今城重子と堀川紀子(二嬪)が辞職したのである(=四奸二嬪排斥運動)。これは志士の間から公武合体を進めた公家を非難する声があり、それを背景として行われたものだという。志士の声を受けて朝廷が処分したのは奇異な感じがするが、処分をしなければ天誅と称して暗殺される危険があったためだろう。なおこの処分を実行した関白近衛忠煕は天皇から信頼を失い、その結果彼自身も政治的意欲を失っていく。

しかし盛り上がる攘夷のムードをよそに、朝廷は幕府に即今攘夷を求めることは朝幕関係に水を差すだろうと及び腰になりはじめる。このような中、青蓮院宮が永蟄居を宥免されて復帰。そして正親町三条実愛と中山忠能、島津久光から後援を受けていた青蓮院宮らは、有力な公家たちを朝議に参加させようと、関白近衛に働きかけ「国事御用掛」を設置させた。これは摂家から名家までの公家(つまり半家はない)と皇族(青蓮院宮)の21名が任命された。ここでも身分の高下と役職が直接リンクしなくなっていることが重要だ。

「第4章 攘夷をめぐる激闘」では、攘夷の実施と長州藩処分をめぐっての権力闘争が描かれる。文久3年(1863年)には社会全体がさらに過激な攘夷のムードになり、穏健派の公家が後退。関白近衛忠煕が辞職して鷹司輔煕が継いだ。さらに国事御用掛から人材が「精選」されて「国事参政・国事寄人」が設置。尊攘派公家がこれに任命された。また学習院が政治の談議をする場として活用されるようになっていく。それまで政治からは排除されていた公家たちが政治に参画するようになり、多くの集会を開き、議論するようになったのである。

孝明天皇は攘夷を求めてはいたものの、幕府に対しては穏健な態度を取っていた。ところが期限を定めた攘夷実行を求める強行派の公家たちに押され、幕府にも強硬な態度を取らざるを得なくなる。朝廷の中枢にとって、国事御用掛・国事参政・国事寄人の意見は無視できなかった。このような状況の中、孝明天皇は212年ぶりとなる賀茂両社への行幸、石清水八幡宮への行幸で攘夷を祈願した。さらに朝廷は10万石以上の大名から人を出させて「御親兵」を設置した。防衛は武家の領域だったにもかかわらず、議奏三条実美が「京都御守衛御用掛」となった。

こうして下級公家たちの突き上げによって前例踏襲の公家の世界が変わっていったが、朝廷上層部と天皇はそうした過激で強引な言説を好ましく思わなかった。そして天皇は朝廷の正常化のために島津久光に期待するようになり、三条実美らを朝廷から排除する「八月十八日の政変」が薩摩藩・会津藩・淀藩によって起こされた。国事参政・国事寄人は廃止され、尊攘派の公家たちが処罰された。しかし三条実美や沢宣嘉、東久世通禧らは長州に脱出(七卿落ち)。公家が天皇の許可を得ずに京都を離れることは違反行為であったため、七卿は追って官位を剥奪された。

一方、鷹司輔煕は辞職し二条斉敬(なりゆき)が就任。廷臣の顔ぶれは幕府寄りで無理な攘夷を避けるものとなった。中山忠能は、息子たちが過激な攘夷派であったことの不都合や持病の痔が悪化して中枢から後退。他方、山階宮晃親王はその才覚を買われ、尊攘派公家を抑えることを期待して還俗させられ政治に参画するようになる。

そのような中、横浜・函館・長崎の鎖港(特に横浜鎖港)と長州藩処分などの意見の対立から公家と武家の人事が動き、一橋慶喜・桑名藩・会津藩の「一会桑」が成立した。だが一会桑の下でも過激な攘夷を主張する公家は引き続き活動した。一条実良は幕府に横浜鎖港の実行を督促する建白書を門流一同38人の連署で提出。また中山忠能は長州藩に寛大な処分を求め攘夷の実行を促す上書を58人の連署で提出した。攘夷と長州藩の処遇がリンクし焦点となったが、朝廷は長州藩追討の勅語を出す。

こうして会津藩・薩摩藩と長州藩との間の戦闘「禁門の変」が起こった。洛中は大火となり堂上公家の家も24家が焼失。御所へ向けて発砲した長州藩は「朝敵」となり、それに同情的な姿勢を示した多くの公家も処分の対象となった。

「第5章 朝廷の内と外」では、孝明天皇が亡くなるまでの政治的混乱が述べられる。幕府と朝廷では長州問題や攘夷、開港の立場を巡る関係者の思惑が交錯し、朝幕入り乱れた対立の構図が生じた。そういう状況の中、慶応元年(1865)9月末に岩倉具視は「復古一新」を考えるようになる。この頃、岩倉具視は裏で薩摩藩と手を結んでいた。そして朝幕が長州問題を渋々寛大な処分でおさめようとしていた時、薩長同盟が結ばれる。よって長州は幕府の処分案に応じず、幕府と長州軍が一触即発の状態となった。

このような緊迫した時期、孝明天皇は乱心し日々三四度の酒宴を開き、鳥類などを庭で鑑賞したり雅楽を演奏させた。朝廷内も意見の相違から動揺。慶応2年(1866)、「二十二人の列参運動」が起こった。これは中御門・大原重徳など22人の公家が(1)朝廷主導で諸藩招集、(2)文久2・3年、元治元年(=1862〜64)に処分された公家の赦免、(3)朝廷改革、(4)長州解兵を求めたものである。しかしこれは天皇に受けが悪く、功を奏さなかった。天皇は公家たちから受ける突き上げに辟易していたのかもしれない。

一方、将軍家定は長州征伐中に病死。しかしそれを継ぐはずの一橋慶喜は将軍職を辞退して幕府には政治的空白が生じる。朝廷ではこの辞退を乗り切るべく諸藩を招集しようとしたがうまくいかず、二条斉敬と中川宮朝彦親王が辞意を表した。しかし孝明天皇としては、信頼する二人を失いたくはなく、二十二人の列参運動を起こした公家22人と彼らに協力した山階宮晃親王と正親町三条に処分が下った。四度目の廷臣処分である。これで合計して62人もの皇族や公家が朝廷から去ったのである。こうした中、慶喜への将軍宣下が行われた。その直後孝明天皇は体調を崩し病死。タイミングがよすぎる死去にかつては毒殺説も唱えられたが、現在では天然痘説が有力である。

「第6章 王政復古への道程」では、王政復古のクーデターに至る動向が述べられる。孝明天皇の死は、彼によって処罰され朝廷を去ったものたちの赦免の機会となった。それは順調に行われたのではないが、順次赦免が行われた。「四奸」の赦免も行われたものの完全な赦免ではなく、月に一度だけの入京が許可されただけであった。

こうした赦免によって多くの廷臣が復帰すると、朝廷に人事の変動が起こった。結果、朝廷・幕府・雄藩(特に薩摩藩)が朝廷の要職を巡って駆け引きを繰り返す。その間に立った二条斉敬は、幕府が難色を示していた正親町三条を雄藩らの意見に基づき議奏に就任させた。さらに朝廷は長州の寛大処分と兵庫開港を許可。二日間にわたり「幕府の言い分を致し方ないとする公家と開港反対と異議を唱える公家が舌戦を繰り広げた(p.223)」末の、二条の苦渋の決断であった。

ここで注目されるのは島津久光と朝廷の微妙な距離感である。朝廷は幕府に対抗するために久光の力を必要としたが、久光は公家たちと必ずしも協調していなかった。薩摩藩では幕府との協調を見限り、討幕の意志を固めていたからなのかもしれない(朝廷は倒幕など毛頭考えていない)。

慶応4年(1868)10月14日、徳川慶喜が大政奉還。そして同日、薩長に「討幕の密勅」が下された。連署したのは正親町三条・中御門経之・中山忠能。準備は岩倉具視で、文案は玉松操による。これは朝廷の正式な手続きを経ない、偽勅といってもよいものである。彼らは覚悟を決めたのだった。

大政奉還後には政権が極めて流動的になり、摂家中心の復古政体が構想されたり、一度は覚悟を決めたはずの正親町三条と中山が不安になって揺り戻されたりした。12月8日に朝議が開かれ、翌日まで議論がもつれたが長州藩の復権(藩主親子の官位復旧)、岩倉具視など「四奸」の還俗の許可、三条実美など五卿の復権が決定。これと並行して岩倉邸では政変の準備が進んでいた。そして朝議が終わったことを見計らい、王政復古のクーデターが行われたのである。

朝廷にとっての王政復古は、まずは官職の廃止であった。摂政・関白・内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・京都所司代が廃止された。これらが律令国家の百官に基づかない令外官だったからだ。また幕府寄りと見なされた二条斉敬はじめ多くの要職者たちは参朝停止となり、新政府の要職に就くことはできなかった。一方、それまで尊攘派と見なされた公家たちは大逆転して、総裁・議定・参与という新たに設けられた要職に就いた。

「第7章 維新の功労」では、公家たちが「華族」として再編成していく様が述べられる。一度は要職に就いた尊攘派公家たちも、その多くは新政権にお墨付きを与えるだけの存在であったので、一部の例外を除きわずか3年半の間に要職から遠ざけられた。なお版籍奉還(明治2年)の後に「公卿」と「諸侯」の名称を廃止して合わせて「華族」が生まれた。

明治9年(1876)に華族を統括する宮内庁部長局が設置。東京在住華族の「宮中侍侯」、京都在住の「桂宮侍侯」が置かれ、後にそれぞれ「宮中祗候」「桂宮淑子内親王家祗候」に改められた。無職の華族の生活保護のための名目的官職である。さらに明治17年には華族令が公布され、公・侯・伯・子・男爵の五爵が設けられた。幕末から明治維新時には公家の上下関係を破壊する動きがあり、「華族」として一緒くたにしたにもかかわらず、改めてそこに世襲の(!)上下関係を再編していったのは時代の変化を感じざるを得ない。

なおこの叙爵内規は公表されなかったため、公家たちはどのようにして上下関係が決められたのか知らなかった。 その原理は大雑把に言えば、公家の旧家格をもとに爵を設定し、「国家に偉勲ある者」の爵を上昇させたということである。しかし叙爵に納得しない公家も多かった。特に嵯峨実愛・中御門経之・大原重徳は過小評価されたことに不満を抱いた。逆に三条実美・岩倉具視・東久世通禧は他より偉勲が加味されている。

「終章 公家にとっての明治維新」では、維新後に公家がその歴史と伝統を保存しようとした動きを述べている。明治維新は、結果的には公家の世界を破壊することになった。その一部は華族として温存され存続したものの、伝統文化を継承する公家の世界はもはや存在しなかったのである。公家たちは「憲法や議会をもたらすために王政復古をしたのではなかった(p.282)」のに、結果的に自らを解体していた。

公家の世界が失われることを危惧した岩倉具視は、明治10年に中山・嵯峨・橋本実梁に「維新以前諸儀式取調」を依頼した。追って宮内省により正式に設置され、公家の多くがこれに参画することになった。そして明治24年に完成したのが「公事録」全29冊・附図1帖。こうして維新以前の儀礼が保存されたのである。

また公家たちにとって最後の大仕事とも言えるのが『孝明天皇記』の編纂。完成したのは明治38年。多くの公家たちが心血を注いだ果ての大作であった。明治維新は、それに参画した公家たちにとっても自らの思惑とは違うものになっていたから、彼らが夢見た本当の王政復古を、「公事録」や『孝明天皇記』に託したのかも知れない。

本書全体を振り返って幕末維新における公家の存在を考えてみると、その第1の画期となったのが安政5年(1858)の「八十八人の列参」である。これは公家たちの下剋上の先駆けとなったもので、公家が家格ではなく数を恃んで実力行使に出るきっかけになった。第2の画期が「国事御用書記」の設置である。これには家格や官位官職に関係なく多くの公家が任命され、公家の世界に「能力主義の人事」をもたらした。

元々、最高位の公家(摂家など)も大きな政治的発言権があったわけではないが、政権から排除されていた中下級の公家にとっては、家格によって自らが縛られていると感じるのはやむを得ないことだ。これを打破することが中下級の公家たちの希望であった。それを唯一叶えたといえるのが、中級の羽林家から最上位まで上り詰めた岩倉具視である。

しかし家格を否定し能力主義を導入することは、公家自体の存在意義を否定することでもあった。公家が公家でいられるのは、家柄以外ではあり得ないからだ。幕末維新を巡る公家たちは、結果的に自らを解体する作業を進めていたのである。それでも公家が完全に解体されずかなりの程度華族として温存されたのは、明治維新が朝廷の権威を借りて実現したものだったからである。

それにしても幕末維新の公家たちは実によく議論し、意見書をまとめ、建白し、しばしば実力行使に出ている。この時期、公家の世界が活性化したことだけは間違いない。一般の維新史では、彼らは有職故実に囚われ現実を知らない無力な存在と描かれがちで、今でも「お公家さん」と言えば俗に自分の意見を持たないお飾り的な存在を指す。しかし当時の公家たちは、武家と同じくらい新しい時代について考えていたのかもしれないと本書を読んで感じた。

それでも、本書の帯にあるように公家たちが幕末維新の「真の主役」であったとまでは言えないだろう。彼らの動向が幕末史を左右したことは事実でも、ついに公家からは新時代を創出する偉大な思想家は生まれなかったし、真の意味で歴史の主役と呼びうる活躍をしたのは、孝明天皇の他は落飾し洛中を追放されていた岩倉具視くらいしか見受けられないのである。

公家たちは歴史の変動の中で表舞台に躍り出、特に中下級の公家たちが活発に活動するようになった。しかしそれが同時に公家の解体を促したところが歴史の皮肉である。本書はこの皮肉な歴史を冷静な筆致で辿ったものである。

公家にとっての幕末維新を冷静な目で述べた良書。


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