クラシック音楽の歴史において、随一の才能を持っていたのがフェーリクス・メンデルスゾーンであるが、その姉ファニー・メンデルスゾーンも弟に負けず劣らず音楽の才能があった。しかし音楽家として成功した弟と違い、その活躍の場は限られ、家庭人として一生を終えざるを得なかった。本書はこの知られざる作曲家・音楽家、ファニー・メンデルスゾーンに光を当てるものである。
彼らの祖父モーゼスは低い身分のユダヤ人として生まれたが、勉学に勤しみ哲学者として大成した。『モーセ五書』のドイツ語訳をしたのもモーゼスの大きな功績である。彼は子どもの教育にも極めて熱心で、長男ヨーゼフと次男アーブラハムは金融業の世界で目覚ましい成功を収める。このアーブラハムがファニーの父親である。
一方、母親はレーア・ザロモン。彼女は裕福なユダヤ人銀行家の娘であった。アーブラハムはかつてフランス贔屓だった(つまり共和制に憧れた)が、レーアと結婚して社会的地位も安定するとプロイセンに適応して愛国者になった。彼はユダヤ人として最初のベルリンの市参事会員になっている。その背景には、フランス支配下の重税や徴兵、文化統制や検閲により、フランス革命への幻滅があったこと、ドイツ統一を求める民族主義の高まりが指摘できる。この時代、「ユダヤ人解放令」によってユダヤ人は建前としてドイツ人と同様の権利を認められたが、民族主義の高まりの中で反ユダヤの動きも起こってくるのである。
アーブラハムはこうした中、子どもたちに厳格で高レベルな教育を施し、ドイツ人以上にドイツ文化を身につけさせた。さらに子どもたちはキリスト教徒として育てている。ファニーやフェーリクスは利発で、様々な面で優れていたが、殊の外音楽には優れた才能を示し、作曲をツェルターに教わった。ファニーはフェーリクスより4歳年上だったので、フェーリクスよりも早く作曲に習熟した。しかし父親は作曲に熱中するファニーを諫め、「女らしさだけが女性の勲章」と諭している。
ところで、ツェルターはジングアカデミー(ベルリンの民間音楽組織)の監督であり、音楽教育家(マイアベーアの師)でありまたオルガニストでもあったが、驚いたことにレンガ積み職人でもあった。彼は不安定な音楽の仕事の収入を補うため、王立協会アカデミーの教授になった後でも、職人との二足のわらじを履いていたのである。
一方、メンデルスゾーン家には湯水のようにお金があった。旅行をすれば王侯貴族の行列のようなのだ。フェーリクスは父に連れられて見聞を広め、当時神のように崇められていたゲーテにも紹介された。ファニーも追ってゲーテと面会したが、弟と同程度の音楽の技術や才能があったのに、彼女が話題の中心になることはなかった。ファニーはちょっと音楽の得意な娘さんとしか扱ってもらえなかったのである。なおフェーリクスは大学に進学しているが、ファニーは進学させてもらっていない。
そんなファニーが力を注いだのが、メンデルスゾーン家で定期的に行われる日曜音楽会である。これは私的な演奏会であったが、各界の名士が参加し、自作を披露できる場になっていた。ファニーは優れた歌曲を書き、またフェーリクスの「無言歌」にもファニーの作品が紛れ込んでいるのではないかと考えられている。
ファニーは画家のヴィルヘルム・ヘンゼルに求婚される。しかし両親は直ちに結婚を認めず、ヴィルヘルムはその後5年間ローマに留学。その間、彼はメンデルスゾーン家の人々を理想化した肖像画を送って求婚し続けた。留学から帰ると、ヴィルヘルムはプロイセンの宮廷画家に任命され、1829年に結婚を認められた。
この1829年には、フェーリクスが中心となりバッハの『マタイ受難曲』の復活公演が行われているが、これにはファニーも重要な役割を果たした。ファニーは弟以上にバッハを崇拝しており、13歳の時、父アーブラハムの誕生日にバッハの平均律第1集の全24曲を暗譜で弾いている。なお、これは一族に賛否両論を巻き起こしたらしい。あまりにも音楽に入れ込みすぎているというのだ。
そして同年、『マタイ受難曲』の上演が終わると、フェーリクスはイギリスへと旅立った。「ファニーはその後も家族や大勢の友人たちに囲まれていたが、憂鬱に取りつかれ、心には大きな穴が開いたようだった(p.89)」。ファニーにとって、フェーリクスは自分の分身であり恋人のような存在だったのである。この年の1月4日からファニーが日記を書き続けていることは象徴的だ。
ただ、ファニーの家庭生活は幸福だった。25歳の時には男児を出産。バッハ、ベートーヴェン、フェーリクスに因んでゼバスティアン・ルートヴィヒ・フェーリクスと名付けられた。ヴィルヘルムは音楽の素養はなかったが、同じ芸術家としてファニーの創作活動を応援した。逆にフェーリクスは、姉の音楽の才能を大いに買いながらも、主婦の役割に徹するべきだと主張していた。このあたりはとても面白い。
ファニーが30歳の時、父アーブラハムが死ぬ。ファニーの創作は父を喜ばせたいとの思いが強かったので、父の死去はその意欲を減衰させた。またフェーリクスは実家住まいではなかったので、自然とファニーが一族を取り仕切る役目となり、自分自身の時間が持てなくなった。日曜音楽会も中止され、ファニーは作曲の意欲を失った。そこには、結局自分の作品を理解してくれる者が誰もいないという孤独感も伴っていた。フェーリクスに手紙を書いても、そこに温かい言葉はなかった。ファニーは深刻な鬱状態に陥っていく。
ファニーは弟の顔色を窺いながらも、歌曲集を出版。フェーリクスはそれに対してお祝いの言葉一つ述べず、母には「芸術家になるにはファニーには意欲も使命感もない」などと書いている。この時期、彼は彼で追い詰められていたのであるが、姉の才能を理解しながら(彼は「生涯にわたってファニーを音楽の手本として仰ぎ、自作に対する彼女の批評を最高のものと見なした(p.196)」)こういう切り捨て方をしているのは驚きである。父の死後、フェーリクスがアーブラハムの役割を引き継いで、女性を家庭に押し込める言動をするようになっていた。
そんな中でも、1838年、ファニーは生涯で唯一の公開演奏を行っている。上流階級の人たちによる慈善講演会(収益を貧しい人たちに寄附する)である。イギリスの音楽批評誌「アシニーアム」はファニーについて「ミセス・シューマンやミセス・プレイエルと並んで、超一流のピアニストとして世界中に有名になっただろう」と書いている。だがファニーは職業人として有名になるには、あまりに上流階級のお嬢さんすぎた。
33歳の頃、ファニーたちは家族で1年にわたるイタリア旅行に出かけた。ファニーは最初こそ落ちぶれたイタリアの姿に幻滅したが、ローマでフランスの芸術家たちと知り合って意気投合。彼らはファニーに演奏をせがみ、ファニーはバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽の本格的な作品を次々と弾いた。彼らはその素晴らしさに感動し、「ファニーは日に日に心が解放されていくのを感じた(p.151)」。ファニーは人に認めてもらえる喜びを噛みしめた。なおこのフランスの芸術家の中に、『アヴェ・マリア』で有名なグノーがいる。『アヴェ・マリア』(バッハ平均律第1巻第1曲のプレリュードを伴奏にした歌曲)はファニーの影響で作曲されたものである。こうして、たった2ヶ月間であったが、ファニーはローマで人生最良の日々を過ごした。
ローマから帰ると、ファニーは旺盛に音楽活動に取り組み始めた。ベルリンは三月革命前の混乱した政治状況にあり、母の死などもあったが、ファニーには平穏で幸せな日々が続いた。ヴィルヘルムもファニーの音楽活動を励ましていた。また司法官試補コイデルと出逢い、彼がローマでのフランス人芸術家たちのようにファニーを崇拝して、活気をもたらした。コイデルの助言でファニーは歌曲の出版を決めた。その時にフェーリクスに出した手紙にはこうある。「私は14歳の時にお父さんが恐かったように、40にもなって弟たちが恐いのです(p.186)」。フェーリクスは保守化しており、政治的に急進的な青年ドイツ派の作家や女性の社会活動家には嫌悪を示していた。しかし姉の曲集出版にはしぶしぶながら「了承」を与えている。ファニーはフェーリクスからわざわざ了承を得なければならなかったということが、彼らの関係性を表している。
それでもファニーは許しが得られて幸せだった。編集や曲作りに幸せいっぱいに取り組み、次々と作品を出版した。「当時の音楽界は女性に独創性など認めていなかった(p.194)」が、ファニーは作品で反論できることを励みにして意欲に溢れていた。
なお、同じ女性音楽家であるクラーラ・シューマンもファニーを作曲家として認めていなかったというのが興味深い。クラーラはファニーのピアノの腕には舌を巻いていたが、その活動を全面的には認めていなかった。クラーラは貧しい生まれで、幼い頃から演奏活動で家族を支えていた。彼女らは育った環境があまりにも違いすぎて互いにしっくりこないものがあったらしい。
1847年5月14日、意欲的に活動していたファニーは、突然脳卒中で倒れ、その日のうちに息を引き取った。41歳。遺作となったのは、前日に作曲された歌曲『山の喜び』。「そこには、生きていればファニーの前に開かれたであろう広々とした自由な世界が潑剌とした曲調で描かれていた(p.205)」。
フェーリクスは姉の死に衝撃を受けた。彼は姉の創作活動を妨害していたことに罪悪感を覚え、「まるで姉に対する罪滅ぼしのように(p.210)」その遺稿集をまとめた。そして憔悴したフェーリクスは、姉の死から半年後、38歳で亡くなってしまうのである。フェーリクスの亡骸は姉の横に埋葬された。
ファニーは、上流階級に生まれたことでその可能性を狭められた面がある。同時代のクラーラ・シューマンは働かざるを得ない境遇だったために、女性ピアニストとしてヨーロッパ中で活躍できた。だがファニーは女性が外で働くことが「はしたない」とみなされる階級であった。それでも、音楽活動に理解ある夫のおかげで、その枠内では「才能ある女性に許されていた可能性を当時としては十二分に生かしきったとも言える(p.215)」と著者はいう。
とはいえ、ファニーの人生には女性が直面せざるを得ない現実が象徴されている。つまり、人生で一番意欲と能力と体力が溢れた時期に、女性は子育てをやらなければならず、子育てが一段落してようやく自分の時間が持てるようになった頃には、もう以前ほどの能力や体力はなく、人生の可能性が狭まっている、という現実だ。現代では、女性が外の世界で活躍することはそれほど悪く思われていない。それでも、女性は人生のある時期、出産や育児にかかりきりになってしまうから、女性は家庭人となるか、自己実現を図るかで二者択一を迫られてしまう。
ファニーの場合、家庭人となったことは悪くなかった。夫は典型的なビーダーマイヤー型(小市民型)であり、現実的なつまらない面を持っていたが、それだけに妻を愛して家庭を平穏に守った。それがファニーの限界を定めた面もあるものの、ファニー自身も家族を愛して幸せだった。夫を亡くしたクラーラ・シューマンが、子どもを家政婦に預けて演奏旅行で飛び回らなくてはならなかったのと比べると、どちらが幸福というのではないが、やはりファニーは恵まれていたといえる。彼女が「忘れられた音楽家」にならざるを得なかったとしてもだ。
なお、ファニーは手紙を大量に書いており、中断はあるが日記を死まで書いていることから、メンデルスゾーン研究の基礎資料を残してくれた。「ファニーの一人息子ゼバスティアンはモーゼに始まるメンデルスゾーン家三代にわたる評伝を著し、これがその後のすべてのメンデルスゾーン研究の出発点となった(p.216)」 。
非凡な才能を持ちながら、時代の制約からついに活躍できなかった女性を描く力作。
【関連書籍の読書メモ】
『メンデルスゾーン』ひのまどか著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/04/blog-post_13.html
平易かつ内容のしっかりしたメンデルスゾーン伝。
『クララ・シューマン』萩谷 由喜子 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/04/blog-post.html
クララ・シューマンの伝記。世界で初めて、妻・母としてコンサートピアニストの人生を全うした一人の女性の生涯。
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