本書は、ホノルル美術館所蔵の『十番虫合絵巻(じゅうばんむしあわせえまき)』が、同絵巻の最善本であることがわかったことから行われた国際共同研究の成果をまとめたものである。
さて、この「十番虫合」とは何かというと、天明2年(1782)8月、隅田川のそばにある木母寺(もくぼじ)で行われた優雅な遊びである。参加者は左右に分かれて、それぞれ松虫と鈴虫をテーマに和歌を提出する。また同時に、それにまつわる「洲浜(すはま)」と呼ばれる作り物(ミニチュア)も提出。和歌と洲浜はそれぞれ優劣が判定され、この勝負が10番行われた。この時の参加者の一人である三島景雄が、和歌、洲浜、その判定を記録したのが『十番虫合絵巻』なのである(正確には、洲浜は別の画家が描いたのを模写した可能性が高い)。
【参考】十番虫合絵巻
https://juban-mushi-awase.dhii.jp/index.html
こういう、歌や物を優雅にしつらえて対決する遊びを「物合(ものあわせ)」という。これは平安時代の宮廷で行われていたものだ。では、江戸の町で、こんな王朝風の遊びが行われたのはなぜなのだろうか。
その一つの契機となったのが、明和2年(1765)に田安宗武(徳川吉宗の子)が行った「梅合」である。男女に分かれた参加者が趣向を凝らした梅の洲浜を対決させた。「宗武は有職学・服飾学・雅楽・歌学の知識を集約して王朝時代の物合を江戸で再興したのである(p.130)」。この頃、王朝風服飾文化復活の流れがあった。
その動きを引き継いだのが荷田派の古学者で、寛政の改革(1787~)で下火になるまで歌合が流行した。その中心には、京都の堂上歌人有栖川宮職仁(よりひと)親王の門人の三島景雄や賀茂季鷹がいた。
その頃、京都(朝廷)では歌合は廃れていたばかりか、なぜか禁止されていたらしい。江戸では、歌合・物合をもちろん宮廷行事ではなく「遊戯」として行った。「身分の低いものが公家の真似をするのは恐れ多いことであるが、ただの遊びなのだからよいだろう」という理屈で彼らは自他を納得させていたようだ。
面白いのは、「十番虫合」の参加者である。一番身分が高いのは刈谷藩主の土井利徳(としなり)。主催者は旗本の川村蔭政。和歌の判者は賀茂季鷹。彼は有栖川家に仕えた歌人で、荷田御風(のりかぜ)の門人(後に京都に帰り賀茂神社の神職となった)。作物の判者は加藤(橘)千蔭で、彼は江戸町奉行の与力。賀茂真淵の門人で「県門四天王」の一人に数えられる。与力は今でいうと警察署長クラスらしい。そして先述の三島景雄であるが、彼は幕府御用達の呉服商である。
これだけでも、大名、旗本、与力、商人が同席しているが、さらに歌を提出した人々を見ると、医師、同心、装飾金工(職人)、詳細不明の女性など多様な身分の人がいた。王朝文化復興に憧れたのは上級武士だけではなかった。そしてそれが「遊び」の場であればこそ、身分を超えて王朝文化に参画することができたのだ。そして王朝文化の再興といっても、そこには公家が一人もいないことは示唆的だ。
そして、この催しが木母寺で行われたのも偶然ではなさそうだ。隅田川は、かつて在原業平が「いざ言問わむ都どり」と遠い都を思いながら歌っており、京の都のみやびを呼び起こす歴史的な場所だった。また木母寺は、京都の公家の子梅若丸に始まる寺であり、また江戸時代には勅使が参詣する寺でもあった。つまり木母寺は「江戸にあって宮廷文化の香を格別に色濃く醸す場(p.158)」であったと考えられる。
そしてもちろん、王朝文化の中心をなすのが和歌であったことは言うまでもない。特に「千年以上にわたり開催され続けた歌合は、勅撰集に次いで和歌史において重要な位置を占める営為(p.165)」であった。
平安時代の歌合は遊戯というよりは公の儀式であり、午後3時頃から夜通し続けられ、酒や管弦の演奏もあった。そこでは自作の歌が披露されたのではなく、歌を持ち寄って対決させ、その議論が行われた。
歌合は鎌倉時代には空前の隆盛期を迎え、朝廷の威信回復を目指す後鳥羽上皇によって史上最大の歌合とされる「千五百番歌合」が開催された。江戸時代には、元禄時代から歌合が京都・大坂で地下人(ぢげにん)によって行われた(ここでいう地下人は官位を持たない人の総称と思われる)。特に国学諸派が成立すると、その流派の中で多くの歌合が催された。歌合の開催が堂上(とうしょう=上級公家)ではなかったことは、江戸の王朝文化復興の特質を示しているように思われる。
歌合は真面目な古典復興のムーブメントであったが、一方で物合は、狂歌師が中心となったちょっとふざけた(パロディ的な要素がある)遊びであったようだ。江戸時代には物合の大ブームがあったが、「狂歌師たちのパロディ物合にも、大名筋の貴人たちが別名を用いて登場(p.174)」した。ここでも「遊び」が身分を超越する場として機能していた。物合の会場としてよく寺院が選ばれていたが、これも身分超越の性格があったからかもしれない。
なお寛政の改革の影響で物合も下火になるが、代わりに19世紀初頭には古器古物等を持ち寄って考証する会が行われた。古書画を鑑定して楽しむ会だ。古い時代への関心と知識があったことが窺える。それらの動きは、やがて古物古美術木版図録である『集古十種』に結実する。これは松平定信に後援された民間のプロジェクトであった。
ともかく、「十番虫合」は、当時ブームになっていた歌合と物合を組み合わせた、身分を超越する「遊び」だったのだ。ちなみに物合のテーマとして「虫」が選ばれたのは、当時、鈴虫・松虫などの声を愛でる「虫聴(むしきき)」が流行していたこともあるようだ。
さて、ここでこの『十番虫合絵巻』の判定を読んでみると面白いことに気付く。それは、歌の判定は至極アッサリとしている一方で、作物(洲浜)の判定にはとても力が入っているということだ。そして洲浜自体も、かなりのコストを掛けて制作していたようである。
洲浜は一種のミニチュアで、『源氏物語』や『古今和歌集』『伊勢物語』など各種の古典を踏まえつつ、和歌にちなんだものを虫かごに設えたものである(なので、実際に松虫や鈴虫が入っている)。洲浜は提出された和歌と無関係ではないが、それよりも古典を題材にして(本歌取りして)作られている。平安時代の物合にも作り物が伴ったらしいが、工芸の力によって平安時代をミニチュアで表現したのが「十番虫合」の洲浜なのだ。そしてこれに非常に力がこもっていたためか、参加者はこれを絵巻にして記録する意義を感じた。これ以外に作り物を描き留める例はないのだという。
つまり、 「十番虫合」は王朝文化に興味を持つ人々の「遊び」であったが、王朝文化の核心である「和歌」よりも、それを踏まえた雅な作り物「洲浜」があってこそ成立したと考えられる。これは江戸の王朝文化再興を考える上で非常に重要な点だと感じた。文芸という抽象的なものばかりでなく、手に触れられるモノを媒介にして人々は王朝文化の香を感じたのであろう。
ところで私が本書を手に取ったのは、明治維新との関連である。明治維新は、言うまでもなく王政復古の革命であった。そこでは結果的に「神武創業」が謳われたが、王政復古を考えていた人たちはその基準を王朝文化としていた節がある。そして明治維新後も、日本文化を表象するものとして王朝文化が(おそらくは意図的に)称揚された。日本文化といえば、まず『源氏物語』なのだ。
それは明治政府を動かした人たちが恣意的に設定したのではなく、江戸時代の中頃から徐々に醸成されていた。様々な身分の人たちが、王朝文化を「発見」し、それを擬えた「遊び」によってそこに参画しようとしていた。それは、明治維新とは一見何も関係ない。しかしそれは、文化的に明治維新を準備していたといえなくもない。それは理想化された過去の日本を復活させようとする取り組みの一つだったのである。
『十番虫合絵巻』を正確に理解することで、江戸時代の王朝文化復興を多面的に捉えた良書。
【関連書籍の読書メモ】
『歴史で読む国学』國學院大學日本文化研究所編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/09/blog-post.html
国学の発展の歴史を平易に述べる本。国学史の教科書として現時点の決定版。荷田派の活動も取り上げている。
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