2021年4月6日火曜日

『クララ・シューマン』萩谷 由喜子 著

クララ・シューマンの伝記。

クララ・シューマンと言えば、クラシック音楽に詳しい人ならば作曲家ロベルト・シューマンの妻だったピアニストとして知っているだろう。しかし、当時においてはクララの方がずっと有名で、むしろロベルトの方が 「クララの夫」として認識されていた。

クララの父は音楽教育家のフリードリヒ・ヴィーク。ライプツィヒで音楽教室を営み、また音楽サロンを主催して町の音楽界の要人を気取っていた。

母(マリアンネ)はヴィークの弟子でピアノを学び、また声楽もこなした人だったが、ヴィークの亭主関白ぶりと、妊娠中だろうが産後間もない時期だろうがかまわずステージに立たせる人権無視の家内労働に辟易して離婚する。マリアンネのステージはヴィークの音楽教室の最高の広告塔だったのだ。こうしてクララは母の愛情に飢えた少女時代を過ごすことになる。

そしてヴィークは、母の代わりにクララをピアニストにすべく、クララのピアノ鍛錬を生活の中心に据え、徹底的な指導を行った。といっても、彼は優れたピアノ教師だったので、闇雲にピアノに向かわせたのではなく、むしろピアノのレッスンの時間は意外に短く、音楽の総合的な勉強に長い時間を宛てていた。またクララには音楽的才能があったため嫌々ピアノをやっているというわけではなかったようだ。

ところがヴィークの気味の悪いところは、クララの全人格を管理してピアノに集中させようとしたところで、なんとヴィークはクララの日記を一人称「わたし」を使って代わりに書いている。「父は急行馬車で夕方七時に到着した。わたしは、父の腕に飛び込んだ」…といった文章を父ヴィークが書いているのである! 人格すらも手中にする手段だったのだろうか。ある意味洗脳のようなところがある方法である。この「日記」は7歳から17、18歳までヴィークの手で書かれクララ自身に引き継がれた。

クララは8歳の誕生日を前にしてモーツァルトのピアノ協奏曲でピアニストとしてデビュー。もちろんこれはヴィークがお膳立てしたお仕着せのコンサートであったが、次第に彼女自身もコンサートピアニストとして身を立てるべく闘志を燃やすようになる。

そんなヴィーク家にピアノの生徒としてやってきたのが、クララの9歳年上のロベルト・シューマンだった。 二人はまさに対照的だった。幼い頃からピアノ一筋の教育を受け、厳しい暮らしの中で愛情に飢えていたクララと、何不自由ない豊かな暮らしの中で、暖かい愛情を受けて「自分探し」をしていたロベルトは。

ロベルトは、すぐにヴィーク家の「お兄ちゃん」としてクララたちきょうだいを楽しませるようになった。ヴィーク家に足りていなかった暖かな愛情や冗談をロベルトは自然に持っていた。子どもたちと一緒に泣いたり笑ったり怒ったり。きょうだいみんながロベルトを大好きになった。

一方クララは、11歳にしてプロのピアニストとなった。ヴィークの力が大きかったのは言うまでもないが、彼女自身が幼くして高いプロ意識を持ち、やりきる意志と体力、そして技術を持っていた。クララはゲーテにも認められ、多くのピアニストが犇めく当時のヨーロッパにおいて頭角を現していった。しかも彼女は少女らしく愛らしい曲ではなく、当時ほとんど演奏されていなかったバッハのフーガや、ベートーヴェンの熱情ソナタといった本格派の曲目で勝負していた。

クララが15〜16歳の頃、ロベルトとクララは恋に落ちる。しかしヴィークは交際を一切認めず、二人の手紙のやりとりすら禁止した。クララはヴィークの「作品」であり、これから花開こうという時にふわふわした頼りない男ロベルトに取られるわけにはいかなかった。クララ18歳の時、ロベルトが求婚。ヴィークは、ロベルトが到底不可能な年収を条件にあげて諦めさせようとしたが、二人は裁判所に父が不当に結婚を妨害していると訴え、結局ヴィークは敗訴する。

こうして二人はライプツィヒで新婚生活を始めた。二人は幸せだったが、クララのキャリアには結婚はマイナスだった。作曲家として名を上げつつあったロベルトは作曲に没頭。その間にはクララはピアノに触れることができず、また家事の負担もあり、自分の時間を持てなくなっていた。

ロベルトは、クララがコンサートピアニストとして働くことを理解し応援していた。だがこの時代のピアニストは旅から旅にコンサートを渡り歩いていくことが必要で、コンサートピアニストであることは、家庭を長い間不在にすることを意味していた。ロベルトはロシア旅行には同行したが、体が弱いロベルトに当時の旅は苛酷すぎて体調を崩した。お互いの才能を認め合っていた二人だからこそ、二人で生きていくことには葛藤があった。

ところで、シューマン夫妻を理解し後援してきたのが、メンデルスゾーンだった。ロベルトは一歳年上のメンデルスゾーンをとても尊敬していた。そのメンデルスゾーンが38歳で急死。ロベルトは衝撃を受け、元々崩していた精神状態がさらに悪化。作曲家としての名声が確立していく一方で衰弱していった。そして1854年、クララが35歳の時にロベルトはライン川に投身自殺を図る。その時は救助されたものの、ロベルトは自発的に精神病院に入った。

この混乱した時期に夫妻を支えたのが、クララの14歳年下のヨハネス・ブラームスである。ロベルトはブラームスの才能をいち早く見抜き、強力に支援した。ロベルトが衰弱死するまでの2年間、ブラームスはロベルトに面会して夫妻の間のメッセンジャーを務め、シューマン家の幼い子どもたちの世話をした。そしてその中で、ブラームスは次第にクララに対して愛情を感じるようになっていった。ロベルト死後、おそらくブラームスはクララに求婚したに違いない。しかしその間の事情は全く歴史に記録されていない。二人は、友人として生きる選択をし、事実生涯にわたっての親友となった。

寡婦となったクララは、子どもたちを養うため、また追って成人した子供の家庭をも養うため(三男はモルヒネ中毒になって働けなくなった)、コンサートピアニストとしてそれまで以上にバリバリ働くことになる。旅から旅の暮らしでは子どもたちの面倒を見ることはできないから、乳母や家政婦に子どもたちの世話を任せ、また長じては寄宿学校に入れた。59歳の時にはフランクフルト・アムマインの音楽院教授にも就任。ピアニストとしてだけではなく作曲家としても評価され、なんと72歳まで演奏会を行った。

クララのピアニストとしての功績は次のように要約できる。(1)バッハのフーガを積極的に取り上げ聴衆に受け入れられた、(2)ベートーヴェンの難解なソナタ(「ハンマークラヴィーア」等)を広めた、(3)ショパンの作品をドイツに紹介した、(4)ロベルト・シューマンの作品を積極的に演奏して評価を高めた。そしてそれらを知的な解釈で豊かに表現した。つまり、クララは稀有な女性コンサートピアニストだっただけでなく、19世紀のピアノのレパートリーの開拓者でもあった。

クララ・シューマンは76歳で亡くなった。ブラームスとは晩年には互いに頑固なところが災いして諍いもあったが、44年に渉る交友は概して温かなものだった。そしてクララの死後、魂の抜け殻となったブラームスは、わずかその10ヶ月後、後を追うように肝臓癌で急死するのである。

本書は、子供向けに書かれたものであるため大変読みやすい。だが子供向けとはいえ変な省略はなく、参考文献もしっかり載っていて信頼できる。クララの生涯はドラマチックで、つい引き込まれてしまった。ただ、ライフストーリーが中心であるため、音楽面の解説は簡略に感じた。特にクララの作曲活動についてはごく簡単に述べられるに過ぎない。そこだけ少し物足りなかった。

世界で初めて、妻・母としてコンサートピアニストの人生を全うした一人の女性の生涯。

 

【関連書籍の読書メモ】
『音楽と音楽家』シューマン 著、吉田 秀和 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_33.html
ロマン派の歴史を、音楽作品でだけでなく文筆によっても作ったシューマンの評論。


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