2021年4月30日金曜日

『ハイドン 新版(大作曲家・人と作品)』大宮 真琴 著

ハイドンの伝記。

ハイドンは古典派音楽の黎明を担った人物であり、音楽史上に重要な位置を占めている。しかし日本では評伝に恵まれておらず、本書は1962年に出版された時点で日本語での最初のハイドン伝であった。この頃、ハイドン研究は日進月歩で進んでおり、特に著者とも交友があったロビンス・ランドンは1978年に全5巻の『ハイドン』を完成させてハイドン研究に画期をもたらした。本書は、ランドンの『ハイドン』によって旧版を改訂した新版である(1981年出版)。

ヨーゼフ・ハイドンはオーストリアのローラウという村に生まれた。ハイドンの生家は特別に音楽の教育を施せるほどではなかったが、ハイドンは早くから音楽的才能を示し、特に歌がうまかったので、8歳でウィーンのステファン寺院の合唱童児として引き取られる。

ステファン寺院にいた10年間、ハイドンは体系的な音楽教育を受けることはできなかったものの、ヴァイオリンなどの楽器の習練を行い、またその音楽的雰囲気によって生きた音楽の訓練を積んだ。しかし変声期を迎えて使いものにならなくなるとすげなく解雇され、17歳のハイドンは金も希望もない状態でウィーンの街に投げ出された。

宿無しのハイドンはある親切なテノール歌手の家の屋根裏に身を寄せ、半年後、暖炉もなければ窓もない惨めな屋根裏に居を構えた(ミヒャエラーハウス)。しかしハイドン自身はとにもかくにも独立した部屋を持ち、虫食いのクラヴサンを所有していることに満足していた。そしてこの頃、ハイドンは作曲を独学した。フックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』、マテゾンの『完全なる楽長』、ケルナーの『ゲネラルバス教程』の3冊で作曲理論を学んだらしい。またこの頃、エマヌエル・バッハ(J.S.バッハの子)のソナタと出会って熱心に研究した。 

やがてハイドンに運が向き始める。19歳の時には最初の劇音楽「せむしの悪魔」を作曲、成功させた。そして様々な幸運に導かれ、音楽好きな貴族フュールンベルク男爵に雇われる。ハイドンは男爵の自邸での音楽会を担った。この時期、ハイドンは最初期の弦楽四重奏曲を書いた。またハイドンのもとには様々な仕事が舞い込み、不安定だが多忙で自由な生活を送った。

ハイドンは27歳の時、フュールンベルク男爵の推挙によってボヘミアのモルツィン伯爵に楽長兼作曲家として仕えることになった。12〜16名のオーケストラを率いる立場だった。この時期、ハイドンは生涯最大の過ちを犯す。それはマリア・アンナ・アロイジアという女性と結婚したことだ。彼女は喧嘩好きで嫉妬深く、偏屈で浪費家だった。結局彼女との間には子どもを授かることもなく、暖かい家庭を築くことはなかった。ハイドンは家庭で孤独だった。そしてそのために、「いっそう彼は、芸術の世界に沈潜して(p.53)」 いった。

そして1761年、29歳のハイドンはオーストリアとハンガリーの境界あたりにあるアイゼンシュタットの町に赴任する。ハンガリーの大貴族、エステルハージ家の副楽長として仕えるためだった。当主パウル・アントン侯は大変な音楽愛好家で楽団を増強したが、その一環としてのハイドンの起用だったようだ。だがハイドンが雇用されて1年もたたないうちにパウル・アントン侯は死去し、弟のニコラウス・ヨーゼフが後を継いだ。ハイドンが30年にわたって仕え、親密な主従関係を結んだのはこのニコラウス侯である。

ハイドン赴任の当時のエステルハージ家の楽団は16人で、楽長は名目的なものだったので副学長だったハイドンが事実上楽長としての職務を果たした。 ハイドンは演奏に関しては厳格で細かい指示を与えたが、人柄は穏和で、何事につけても争うことがなく、楽団員を温かく保護した。そしてオーケストラを自由に使えるという、作曲家としてはこの上ない環境で、ハイドンは交響曲や室内楽曲を精力的に作曲していった。

ニコラウス侯は、エステルハージ家の「ヴェルサイユ宮」を作ることを思い立ち、避暑地としてノイジートラー湖畔に「エステルハーザ」と名付けた新しい宮殿を造営した(1784年完成)。ここは見渡す限り泥土に覆われた田舎の寂しいところだったが、ニコラウス侯はここが気に入って一年の大半を過ごすようになり、またここを芸術のセンターにしようとした。エステルハーザでは週に2回もオペラが上演され、他に人形芝居(マリオネット:音楽付き人形喜劇)も頻繁に演じられた。ハイドンは楽長に昇進し、交響曲、オペラ、マリオネット、そしてニコラウス侯が演奏するバリトン(チェロとギターを足したような楽器)の曲など、侯の要望に応じて厖大な作品を生みだした。

1781年、ハイドンは「ロシア四重奏曲」と呼ばれる弦楽四重奏曲のセットを出版する。これはソナタ形式の完成を告げるものだった。この頃、ハイドンの全ヨーロッパ的な名声が確立し、外部からの作曲の依頼が多数舞い込むようになった。1785年にはスペインのカディスの司教座聖堂参事会からの依頼で『十字架上のキリストの七語』が作曲され、同じ頃、パリの民間のオーケストラ、コンセール・ド・ラ・オランピックからの依頼で「パリ交響曲」と呼ばれる交響曲群(82番〜87番)が生みだされた。

また1780年代には、ハイドンはウィーンでモーツァルトと会うようになった。「ロシア四重奏曲」はモーツァルトに影響を与え、モーツァルトは6つの弦楽四重奏曲を作曲してハイドンに献呈した(ハイドン・セット)。二人は様々な点で正反対だったが、互いに天才として認め合っていた。ハイドンはモーツァルトが不遇だった時期に、彼を「最も偉大な作曲家」「100年に一度の天才」と言って憚らなかった。

ところで、ハイドンの音楽が最も人気を博したのはイギリスだった。折しも1790年、ニコラウス侯が亡くなり、後を継いだアントン侯は音楽好きではなかったので、ハイドンは名誉楽長となって暇になった。そこでハイドンはエステルハーザを離れてイギリスに行くことにした。ロンドンではヨハン・ペーター・ザロモンというヴァイオリニストが演奏会を企画し(ザロモン演奏会)、ハイドンの交響曲は喝采を浴びた。社交界からもハイドンは大歓待を受けた。

ハイドンは人気者としてチヤホヤされる騒々しい生活はあまり好きではなかったらしい。しかしロンドンにおける日々はハイドンの生涯で最も幸福な時期でもあった。しかも演奏会からは莫大な収益があった。ハイドンは2度ロンドンに渡り、一度はロンドンに永住する気にもなったほどだ。

2度目のロンドン旅行から帰ってきたハイドンは、アントン侯を継いだ新しいエステルハージ家当主ニコラウス2世から再び楽長に任じられた。ニコラウス2世は、かつてのエステルハージ家の楽団を再建しようとし、また今や全ヨーロッパ的名声を持つハイドンを抱えるという誘惑に勝てなかったのである。

しかしニコラウス2世の音楽の趣味はかなり偏っていた。彼は伝統的な宗教音楽を好み、新しい時代の音楽を切り拓いてきたハイドンの音楽はあまり好きでなかった。それでもハイドンは古くからの恩があるエステルハージ家から離れようとはせず、むしろ新しい主人の好みに合わせて宗教音楽の作品を作るようになった。ハイドンの晩年を飾る一連のミサ曲がエステルハージ家のために生みだされた。

そしてロンドン旅行の際、オラトリオ『メサイア』などヘンデルの偉大な作品に触れ刺激を受けていたハイドンは、全ての力を傾注してオラトリオ『天地創造』を作曲した。『天地創造』はロンドンで手に入れた台本をスヴィーテン男爵が翻訳し、また男爵が音楽愛好家の貴族から作曲の費用を集めるなど、男爵との協力のもとで作られたものである。これは各地で異常な成功を収めた。また男爵は『天地創造』の成功を受けて、「四季」の台本を作成してハイドンにオラトリオを作曲させた。「四季」の台本はあまり詩的ではなく、ハイドンは乗り気でなかったがこれも傑作となった。『天地創造』『四季』はハイドンの全声楽作品の中で燦然と輝く作品である。

ハイドンの晩年は様々な栄誉に彩られていた。ハイドンほどの名声を手中にした音楽家は、西洋音楽史でも初めてだったかもしれない。1809年、77歳でハイドンは死んだ。ちょうどナポレオン軍がオーストリアに侵攻してきた時で、ウィーンは占領下だったので死去時にはほとんど知られなかったが、葬式の後日、ウィーン中の名士が集まって追悼式が行われた。そこでウィーンの音楽家たちが歌った曲は、親友モーツァルトの『レクイエム』だった。

ハイドンの人生で特徴的なことは、キャリアの中心がエステルハージ家の楽長という地味で地方的なポジションだったことだ。エステルハーザ宮はヨーロッパの端っこで、周りには何もない田舎だった。ハイドン自身、田舎に勤務することの不利を感じていた。しかしこのヨーロッパの音楽シーンの中心とは離れた浮世離れした環境で新しい時代の音楽が生まれ、しかもそれが認められることになったのが不思議である。このあたりの事情は本書には詳らかではない。

ハイドンはロンドン旅行の前には、ウィーンとエステルハーザを往復する以外には大旅行をしたことがなかった。この時代の音楽家は各地の宮廷を渡り歩くのが成功の常道であったにもかかわらずだ。ハイドンの成功は、当時のセオリーとは違った形であったのは間違いないようだ。エステルハーザでの職務は多忙だったが、孤独で喧騒のない環境は却って芸術が醸すのによかったのかもしれない。

本書は、伝記が約半分で、4分の1が作品の簡単な解説、その他に作品リストと年表、交友リストなどとなっている。本書は、ハイドンの生涯を知ることの出来る良書であるが、一つ物足りない点がある。それは、記述のスタンスとして、音楽の内容には極力踏み込まないようにしていることである。主役はあくまでもハイドンの人生であるということだ。

音楽についての記載は簡略だが、正確かつ抑制された筆によるハイドンの伝記。


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