2021年5月10日月曜日

『ナショナリズム──その神話と論理』橋川 文三 著

日本のナショナリズムの起源を後期水戸学から探る本。

本書はアンバランスな論考である。著者自身があとがきで「敗退の記録」と述べているように、とりあえずぶち上げた「ナショナリズム論」をどうにかこうにか形にするべく悪戦苦闘した末、途中で投げ出したような代物だ。「この書物は、せいぜい全体として日本ナショナリズムというテーマに迫るための序説のうちの序論(p.245)」で終わったものなのだ。

では本書が内容の薄い本かというとそうではない。確かに論考のバランスは取れていない。序論で提出された壮大なテーマはほとんど消化不良のままに終わる。だが短い記述の中に日本のナショナリズムの特質が描き出されており、長大な思想史の一部分を垣間見たような気になる本である。

序論では、ヨーロッパのナショナリズム論のエッセンス(特にナチスを巡るもの)が紹介され、ナショナリズムは自然発生的なものではなく(それどころかしばしば郷土愛とは相容れず)人為的に作られたものであると述べる。さらにルソーのナショナリズム論に触れ、ナショナリズムは、神を失った社会で「一般意志」(主権者の意志)に服従させるための「新しい神」を創出するものであったと見る。ナショナリズムは、自国の誇りを鼓舞するというような単純なものでなく、最初から「公共の利益」のために全てを犠牲にすることを求めるグロテスクなものとして生まれた。ナショナリズムとは「新しい政治的共同体への忠誠と愛着の感情(p.49)」なのだ。

第1章では、日本におけるネーションの誕生を考察する。それにあたりまずは徳川斉昭(水戸藩主)、会沢正志斎(水戸学者)、大橋訥庵(儒学者)らの水戸学に関係した夷狄排撃論が紹介される。彼らは日本を「神州」と位置づけつつも、それはあくまで封建領主の所有であると考え、また民衆を愚民視して露骨に猜疑した。その論には挙国一致を呼びかける風はなく、彼らの頭に共同体の一員としての民衆(=ネーション)は存在していない。後期水戸学はナショナリズムの母体ではあるが、そのものはネーションを生まなかった。

一方、脱藩して東北に行き、水戸学と出会って「歴史」を発見した吉田松陰は違った人間観を持っていた。彼は男女を対等なものと見なし、民衆どころか部落民をも差別しなかった。しかも理詰めでそうしていたわけではなく、ごく自然な人間の情感や「善意」からの行動だった。この「善意」が(ある意味では皮肉なことに)ネーションを予見させた。

松陰は猛烈に歴史を勉強し、歴史の核心に「忠誠心」を据えた。その忠誠とは体制に盲従するのではなく、時として君主に諫言するのも厭わないもので、表面的な忠誠のみしかない佞臣は最も彼が嫌ったところである。であるから、彼はあくまでも幕府に忠誠を誓っていた。ところが倒幕論者の勤王僧黙霖とのやりとりの中で松陰は転向し、正統な統治者は天皇のみであると考えるようになった。そして天皇に対する「億兆」として、天皇以外の人々が相対化されることになったのである。

こうして体制擁護の学であった水戸学から倒幕の思想が生まれてきたのであるが、豪農層・商人層が信奉していた国学からも、別の面から一種の革命思想が生長してきた。それは、本居宣長が古代をユートピアとして描きつつ、この世の全てを神のはからいとして肯定し、ただあるがままに身を任せることを理想化したことから始まる。あるがままの対極が儒教的な規範、すなわち封建的社会論であったので、国学は結果的に封建社会の仕組みを根底から批判することになった。宣長の思想は徹底的に非政治的であったために、かえって現実の政権を相対化する役割を果たしたのである。

さらに平田篤胤は、宣長の思想を神学に転化させた。日本人はみな神の後裔であるとされ、彼の鼓吹した天皇に対する仰望=恋闕(れんけつ)はキリスト教の「神への愛」にも比すべきのとなった。ここでも人々は天皇の前に平等であると考えられるようになる。

幕末にネーション形成への機運が起こった背景には現実的な要請があった。夷狄を攘うための武力を必要としたことから国民兵(農民も兵士としてとりたてる)の構想がむしろ民衆側から提出されたし、また下級武士たちは無能な上級武士たちを押しのけるため能力本位な社会の仕組みを求めていた。そうした階級上昇を求める切実な要望に呼応するかのように、水戸学からも国学からも、天皇を超越的な支配者とし、それによって全ての階級を相対化する一種の平等思想が生まれていたのである。「自己の身命にいたるまで皆天皇の御物」という意味で、天皇以外の全ての人は平等なのである。どうやら日本における「平等」の概念は、まずは「天皇の前における平等」として理解されたようだ。

第2章では、このように準備されていた思想が明治政府樹立後にどのように変節して行ったかが述べられる。明治政府は攘夷の実現のために樹立されたにもかかわらず、実際的な必要から開国を進めた。いくら日本が神州だと述べたところで、現実には日本は多くの国の中の一国に過ぎず、列強に伍するための富国強兵には「万国公法」に従うべしとされた。

国学者たちはその時勢の流れについていけず、大国隆正のように「日本」への狂信と世界への開明性が奇妙に繋がった例外もあったにしろ、古代社会を理想とする国学は急速に顧みられなくなっていった。そうした国学者たちの失望を島崎藤村は『夜明け前』に書いた。

そして本書には詳らかでないが、国学と共倒れしたのが水戸学を含む儒学であった。国学との無意味な主導権争いによって政府首脳から愛想を尽かされ、より実用的かつ倫理的でもあった洋学が明治政府によって大々的に採用されることになるのである。

このように、幕末に意図せずして成長しつつあった「平等」の思想は、十分に形にならないままうやむやに立ち消えてしまった。そして「文明開化」に邁進する政府によって従前の思想が全て無意味化されてしまい、武士も民衆も、思想的なアノミー状態に突入する。雨あられのように乱発された難解で朝令暮改な布告は民衆を苦しめ、むしろ無気力で刹那的にしていった。旧時代は安定し自律した生活を営んでいたのに、新政府はその基盤を破壊したのである。

しかし今度は、政府の方がネーション=国民を求めることになる。それは、対外的な脅威に対抗する挙国一致体制を作るため、進んで国家に身を献げる民衆を創出する必要があったからだ。民衆は「国民」として国家に組み込まれた。そのための一手が「天皇親政」であった。ここで「天皇の前における平等」が持ち出された。しかしそれよりも国民意識を持たせたのは、納税や兵役の義務、そして戸籍の作成であったと著者は見る。

特に戸籍法は、「国民概念の法的表現」であり画期的な意義を有した。そしてそれが戸(家族)を単位としたことは日本のナショナル・キャラクターに大きな影響を与えた。国家が直接個人を支配するのではなく、家を介して支配する仕組み・前提が出来上がっていったからである。それまで一般民衆は家(イエ)にはまるで無縁だったのに(そもそも名字すら持っていなかった)、歴史的にそうであった以上に権威主義的でしかも上位権力に卑屈な家の概念が国家によって持ち込まれ、それによって明治期のネーションが形成されていったのである。

そしてもう一つ、国民の創出を別の方向から訴えていたのが自由民権運動であるが、これにしても国家に進んで命を捧げる共同体を作るために国会を作ることが必要だ、というようなロジックを使っており、「愛国」のための国民創出という点では政府の考えとほとんど変わらなかった。

すなわち、日本では「国民のナショナルな目醒めを経て国民国家が成立したのではない。列強に伍すべき「国民国家」が少数の専制的指導者によって設計され、それに必要な国民は教育によて創り出された(p.252 渡辺京二による解説)」のである。そして、日本は国民国家であるにもかかわらず、国民の意思(一般意志)は顧みられることはなく、主権者はあくまでも天皇であった。そして戦後、主権者が国民となっても、未だに確固たる「国民」は生まれていない。

本書は、著者自身が「序説のうちの序論」という通り、日本ナショナリズム論のアイデアが提示されただけで終わった感がある。特に不十分に感じたのが、吉田松陰の転換がどう幕末の思想史に繋がってくるかという点と、戸籍法についての考察である。しかしそういう点はあるにせよ、本書の視点はユニークで十分に読む価値がある。というのは、水戸学や国学が明治国家の政治にどう繋がって行ったのかという論考は多いのだが、それが民衆の「思想」にどう反映したかという論考は意外と数少ないからだ。

私なりに本書の結論をまとめると次の通りである。(1)日本においては「国民」はあくまでも天皇=国家と億兆(個人)という縦の関係のみで創出され、共同体を構成する「同胞」といった横の関係は十分に発達しなかった(むしろ明治政府は横の関係が発達することを恐れ民衆の団結を弾圧した)。(2)そして縦の関係は、それまで武士以外では見られなかった権威主義的な家父長制を導入することによって具体化した。(3)日本国民は、天皇ー戸主ー家族という関係で位置付けられ、そこに国民の意思を代表する機関が中間に存在しなかったために、国民の一般意志(主権)はないがしろにされ、またその発達を阻害した。

幕末明治における「国民」の成立を通じて語られる出色の近代日本論。

【関連書籍の読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html
朱子学の日本的変容を述べる本。現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。本書は前期水戸学までで筆が擱かれているため、後期水戸学から出発する『ナショナリズム』と合わせて読むと現代までの接続がよく理解できる。

『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。

★Amazonページ
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