2021年4月18日日曜日

『女犯—聖の性』石田 瑞麿 著

女犯(にょぼん)を中心に、日本仏教における破戒の歴史を述べる。

東アジアの仏教圏においては、日本の僧侶は戒律を守らないことで有名だ。妻帯や肉食は普通で、しかも信者からそれが問題であるとも見なされない。では歴史的にはどうだったか。殺人や盗みといった破戒ももちろんあったのであるが、事例として圧倒的に多いのは女犯——つまり姦淫——であった。そこで本書は、古代・中世・近世における女犯の歴史を繙く。

といっても、かつてどれくらい僧侶の女犯が行われたか、統計資料があるわけでもない。そこで著者は、女犯の事例を様々な資料から博引旁証する。寺院の記録、随筆、裁判記録、そして時には物語(フィクション)の力も借りて、女犯の歴史を語ったのが本書である。

本書ではあまり述べられていないが、本題に入る前に、そもそも戒律とは何だろうか? 戒律とは、元来は世俗社会から離脱して僧尼のコミュニティに入る際に制約した規約である。インドで誕生した仏教は、僧尼が集団生活(サンガ)を営んだ。そこにコミュニティを破壊するような「異分子」が入ってくると大変な問題になる。現代でも、友だちグループの中に新しいメンバーが入ってきてグループが瓦解するようなことはよくあるが、そういうことを避けるために、仲間に入れるかどうか全員で討議したのが元々の「受戒」であった。

しかし僧尼が巨大な集団になってくると、グループ全員で討議するのは現実的でない。そこで、新参者の加入の際、規約(戒律)を誓約させるにあたってグループの代表者10人でその吟味を行った。それが「十師」(三師七証)である。やがて討議の機能は失われて、十師は受戒の証人というような位置づけに変わっていった。要するに、受戒とは「戒律」とその「証人」の両方を必要とする行為なのだ。

一方で、日本における仏教集団は国家が「僧尼令」で作ったものだが、受戒に必要となる最初の10人はどうするかという問題があった。最初の仏教集団は誰も証人立ち会いの下で戒律を授けられていなかったので、いわば古代の僧尼全員が無戒律の状態にあったのである。こうして、そもそも出家という方法が仏法に適っているのかという疑問が出てきた。その疑問を抱き続けたのが元興寺の隆尊である。彼は時の政権に働きかけ、結果として中国から道璿(どうせん)が来日した。

さらに鑑真らの来日によって十師が揃い、ここでようやく日本でも如法の十師受戒を行うことができるようになったのである。ところが、こうして苦労して十師を揃えたのにもかかわらず、肝心の戒律護持については日本の僧侶はほとんど関心を持たなかったように見える。受戒を形式的に成立させることには熱意をそそいだのに、それを実行することには無関心だったというのが日本の戒律の出発であった。

また最澄は、十師受戒は必要ないと考えて、従来は副次的なものだった「梵網戒」のみにより受戒が可能とした。それは死後国家にも認められ、天台宗は独自の戒壇を持つことになった。これは日本独自の受戒制度であった。なお比丘尼の場合は、中国から比丘尼の十師が来日することはなかったので十師受戒はいつまでもできなかった。そこで天台宗は、万寿4年(1027)山下の法成寺に「比丘尼戒壇」を建立。ここに比丘尼が受戒できる体制がようやく整った。しかし約30年後、法成寺は消失する。以後、比丘尼戒壇は再建を見ることはなかった。

【古代】

先述の通り、古代においては受戒は大きな問題であったが、肝心の中身についてはすぐに閑却された。多くの僧尼は、戒律の内容がなんであったのかさえ分かっていないと考えられるという。十師受戒の内容は「二百五十戒」と呼ばれる250条の規約であったが、少なくともこれが全ての僧に認知されていた様子はない(尼の場合は348条)。

そして妻帯が横行することになり、沙弥(まだ受戒していない見習い僧)の場合は即妻帯者と考えられるほど一般化した。比丘(受戒後の僧侶)の場合も寺にいながら妻帯する場合が多く見られた。古代の場合、出家は国家に管理された行為である。受戒し僧尼になれば、国家が課していた義務から解放されたのである。にも関わらず、その行為が俗人と変わらないとなれば何のための出家かということになる。そこで延暦23年(804)、仏教界の腐敗・戒律の無視を批判する勅が出されたが、破戒を取り締まる側の僧綱・指導的立場にある諸寺が積極的に動いた形跡はない。眼に余る破戒僧は「僧尼令」によって処罰されたものの、それも見せしめ的なものに留まった。

平安時代に入ると、妻を持つ僧侶は普通のこととなり、しかもそれが悪いことだという認識もなくなったようだ。僧と尼のカップルも散見される。説話文学などでも、僧が懸想した相手と結ばれたことを「めでたし、めでたし」という調子で語っているものがある。そこには男女の間の結びつきを自然なものと考える態度があり、戒律は護持しなければならないという意識自体がない。

一方、宇多法皇は出家後に子供をもうけているが、世間体を気にして醍醐天皇の子ということにしている。高僧なども含め、社会の上層には一応破戒という意識はあったようである。ところが一般僧の場合は女犯は一般的だったようであまり悪びれた様子がなく、問題にもされていない。密通の事実が明らかになっても何の処罰も行われなかったケースもある。

また、男色については女犯以上に多かったようである。

さらに日本仏教に特異な風習として成立したのが「父子相伝」である。自分の子を弟子にしたのを「真弟(しんてい)」といい、寺を相続させるのだ。要は寺院の実子相続であり、破戒を前提とした制度である。天台口伝法門ではこの世襲制が重視された。

【中世】

授戒が全く形式的・儀式的なものになってしまって、内実が伴わないことへの反省が律学の徒から起こってきた。そもそも破戒僧ばかりを10人集めても十師にはならないので、形式的にも授戒を行うことはできない。そこで天台・真言の両宗を学んだ俊芿(しゅんじょう)は宋に渡り、律を極めて帰国した。俊芿は(十師を招聘することができなかったので)授戒の面では現状を打開することはできなかったが、律学の新たな局面を切り拓いた。

一方、興福寺の貞慶の弟子、戒如の門下から、覚盛(かくじょう)、叡尊、有厳(うごん)、円晴という律宗復興を果たす「自誓の四哲」が輩出された。「自誓」とは、自らの内面によって得戒できるという考えで、彼らは受戒の形式的な要件ではなく戒律護持の内面をこそ重視した。覚盛・叡尊によってこの新しい受戒が進められ、覚盛に教えを受けた円照によって東大寺の戒壇院も再興された。

西大寺の叡尊は新しい戒律の考えによって多くの人に授戒を行い、貴賤の人が一千人単位で受戒していった。また門下では忍性(にんしょう)が傑出し叡尊の後を継いだ。しかし、多くの人が受戒に殺到したのは、心から戒律護持を決意したためではなかった。叡尊らの内面重視の考え方とは逆に、受戒によって戒体(止悪作善の力を持つなにか)を得られ、それがある限りは戒を犯しても大丈夫だという「受戒による功徳」を人々は期待していたのである。例えば病気平癒を祈って受戒する、といったようなことがあった。やはり戒律は形無しになっていったのである。

しかも叡尊自身、たとえ相手が婬女(売春婦)であっても授戒したし、亀山上皇から授戒を求められた際は婬戒を外しておいて(!)、上皇がその後も女性と性的関係を結べるようにするなど(戒の全部ではなく一部のみ授戒する=少分戒)、厳格な戒律護持を念頭に置いていなかったことは明らかである。

一方、『貞永式目』の追加法(1235)で破戒僧を鎌倉から追放することが定められ、『公家新制』(朝廷が定めた法規)でも戒律護持を求めるなど、戒律は法規的に位置づけられるようになった。ところがその禁制は厳格なものでなく、常態化していた僧侶の妻帯・女犯を半ば黙認していた雰囲気がある。

なお諸寺においても禁制が作られたが、そこで「尼は常住できない」といった規制を設けていることが注目される(例:摂津の勝尾寺)。つまり寺に尼が住んでいたからこういう規制ができたということだ。古代寺院では僧尼は別住していたが、中世ではその規範が崩れていたのである。僧の妻帯は、寺に僧の(母や姉などの女性を含む)家族が同居していることを意味し、さらに家族以外の尼も常住していたのである。

さらに中世には念仏者の破戒が問題になってくる。念仏のみによって往生できるならば戒律は不要だとの(法然によれば間違った)認識が広まってきたからだ。そうした専修念仏者の破戒行為は他宗派の僧侶(特に興福寺)から批判が出たが、実際の行状は五十歩百歩であったらしい。

そんな中、本書に挙げられた宗性(東大寺別当に任じられた学識高い僧)の例は衝撃的である。彼は34歳の時、節制の誓いを立てたのであるがその内容は、

  • 笠置寺にいるうちは節制する。ただし休暇の際に山を下りた時は酒を飲み淫事を行い勝負ごともする。
  • 酒宴を禁断する。ただし良薬として用いることを除き、飲む際は一日3合までにする。

といったことで、ここまで緩い節制なのにそれを自分では「善心」と評価している。さらに36歳の時は禁欲の誓いを立てたが、その内容は、

  • これまで95人の男と関係を持ったが100人で止めにしよう。
  • 特に41歳で笠置寺に籠居したら、亀王丸の他は関係を持たない。
  • 自房の中には上童を置かない。(自房の中じゃなかったらいいのか?)

などだ。男との関係は100人で止める、ということなどは、禁欲というより「百人斬り」の誓いのようなもので、しかも100人で止めると言っておきながらお気に入りの亀王丸との関係は続ける気満々である(ちなみに戒律では男色も禁じられている)。本人はこれが「禁欲」だと大まじめに信じており、当時の僧は現代の普通の人よりも性的に放縦であったように思われる。

この他、各宗における女犯の事例やその受容など詳しく述べられているが、総じて言えば、戒律護持が叫ばれることはあっても現実に横行する破戒行為が多すぎていかんともしがたく、消極的にであれ破戒は容認され、しかも一般の社会からも問題視されることは少なかった、とまとめることができる。

【近世】

近世に至って破戒への政権の対応は一変する。江戸幕府は諸宗に対して強い規制を以て臨み、『公事方御定書』では、女犯の僧は遠島、密夫の僧の場合は獄門、などと破戒に対して極めて厳しい刑罰を加えたのである。

しかしそれでも、僧侶の女犯(特に遊郭通いと妻帯)はかなり多かった。また寺に女性を住まわせる場合も多かったようである。寺で遊女を囲っていた事例も紹介されている。またそうした女性関係は犯罪も誘発した。そこで『御定書百箇条』では僧の女犯は磔(はりつけ)となって極刑となった。これは主人・親・師匠などの殺人に適用されたのと同じ量刑であった。

遊郭帰りを一挙に検挙された事例では70人もの僧が召し捕らえられたこともあり、取り締まる側では、破戒を減らそうとしたようである。しかし女犯が顕著に減少したということはないようだ。僧は「梵妻」などといって寺に半ば公然と妻を置いていた。当局が検挙キャンペーンを行うと多くの寺がお咎めを受けたが、また暫くすると元に戻ってしまった。

こうした仏教の腐敗堕落に対して、社会の方から批判が起こってきたのが中世とは異なった点だった。例えば熊沢蕃山、中山竹山、上田秋成は、破戒の寺は破却されて当然だというようなことを述べている。中世の頃は、いくら破戒でも僧は有り難いものだという観念があったのに対し、江戸時代では破戒僧などいないほうがましだ、というような態度になっている。

このようにすっかり堕落した状態で仏教界は明治維新を迎え、政府による「妻帯肉食自由」の太政官布達によって国家の規制の箍が外れると、自然消滅的に戒律は空文化していった。

全体を通じ、本書は非常に多くの事例が引かれており、資料的価値が高い。僧の女犯について語る際には必ず参照すべき基本図書と言える。一方で、尼の破戒については記載が少ない。比丘尼寺もたくさんあったわけだが、そこでの戒律護持はどうだったのだろうか。例えば臨済宗の尼五山ではどうだったのか? そのあたりはさらに知りたくなったところである。

また、本書は事例列挙の面が強くそれを横断的に分析することはしないが、僧+俗人の妻、僧+尼、俗人の夫+尼、といった破戒のいろいろなケースについて分析してみたら面白いと思った。本書の研究を基盤にしてさらなる破戒の研究がなされることを期待したい。

大量の資料から根気よく僧の女犯の事例を探し出した大変な労作。初めてまとめられた破戒の日本史。


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