2016年8月18日木曜日

『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』石光 真人 編著

幼い時に会津戦争によって人生を狂わされ、塗炭の苦しみの中で生き抜き、やがて軍人として大成した柴五郎の前半生の自伝。

会津は、明治維新において一方的に朝敵とされ、会津からみれば言いがかりのような理由によって薩長連合軍に蹂躙された。城下は火の海と化して藩士たちは戦いに倒れ、婦女は生きて辱めを受けぬため、また兵糧を徒に費やさぬためとして次々に自刃、そして幸か不幸か生き残った者たちにも過酷な運命が待ち構えていた。

敗北した会津藩はかろうじて恩赦され下北半島に移封となり、新たに斗南藩となって藩士は集団移住するが、そこは冬は氷に閉ざされる荒れ地であった。会津藩は30万石弱あったが、斗南藩はたったの3万石、しかもそれは帳簿上だけのことで、実態は僅か7000石ほどしか生産高がなく、移封というよりも、ほとんど追放・流罪に等しい境遇だったのである。本書の主人公柴五郎は、武士の子として育てられながら、この時代の濁流に呑み込まれて零落し、下北半島の地で乞食同然の暮らしを強いられる。それでもどうにかして再起を果たそうと足掻いたのは、ひとえに薩長、特に薩摩への恨みをなんとかして雪がなければならないという、強烈な復讐心だった。五郎の祖母、母、姉妹は、会津戦争において自刃し兄弟は離散、この過酷な運命への反抗こそが五郎の前半生だ。

本書は、薩長への強い復讐心を抱きつつ、明治の混乱を生き抜いたこの青年の目を通して、敗者からの維新史を綴るものである。時代としては、明治維新から西南戦争までのほぼ10年を中心としており、西南戦争に兄たちが参戦することで薩摩へと一矢報いたところで擱筆されている。

しかし、その内容は単に薩長への恨み辛みだけではない。むしろ、書こうと思えば恨み辛みはもっとたくさん書けたはずなのに、幼い自分が経験したことを素直に記録しておこうという真面目な記述が多い。自らの人生に託して薩長の悪逆を糾弾するという部分はなく、あくまで経験に即した事実だけが述べられている。

私は鹿児島に育ったが、会津戦争のことは学校教育でほとんど教えられていないと記憶している。逆に会津の方では、会津の人の運命を狂わせ、多くの人の命を奪った会津戦争をかなりしっかり伝えている印象があり、会津の人の持つ薩摩人への敵意にはビックリすることがある。本書を読むまで、その敵意にピンと来ていなかったが、ようやく私はその敵意の理由に合点がいった。

我々が知っている明治維新史は、勝者の作った歴史でしかなかったのであり、敗者の側からの歴史は、また違ったものだったのだ。しかし、本書は勝者がなしてきた歴史の修飾を糾弾するものでもない。本当に淡々と、自らの経験を述べるものであって、だからこそ一層、踏みにじられたたくさんの会津人を思い起こさせる。記録に残らなかった、過酷な人生の数々が、本書の裏に見え隠れする。

本書は、柴五郎が80歳を超えてようやく書けるようになった苦難の前半生であり、そうした機会を持たなかった多くの会津人の不運の一片(ひとひら)でも記録し、失われた魂の菩提を弔うためにものされたものであろう。

鹿児島県人には必読と思える、会津人の鎮魂の書。

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