2016年6月8日水曜日

『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』原口 虎雄 著

幕末の薩摩藩の財政改革を成し遂げた調所笑左衛門の実像を探る本。

幕末の薩摩藩は、他藩以上の慢性的な赤字財政に苦しんでいた。 参勤交代の過重な負担や幕府から命ぜられる大規模土木工事、そして農村の疲弊によって日本一の貧乏藩になりはて、その借金は500万両にも及んでいた。当時の経常収入がおよそ15万両と考えられており、年間利息の60万両すらも全く支払えない有様だった。

この崩壊した藩財政を立て直すため、島津重豪(しげひで)は調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)を抜擢する。調所は元は身分の低い武士で茶坊主(接待係)から重豪の秘書的な役目(御小納戸頭取)に取り立てられて栄進し、町奉行になっていた人物。御小納戸頭取は主君の意を汲んで各所に取次をするという仕事で、ここで調所は重豪に大変重用された。どうも、調所は人の感情の機微をよく理解し、様々なことに気が利いてことをうまく進める能力に長けていたらしく、英邁ではあったが苛烈で傲岸不遜な重豪に足りない部分を持っていたようだ。

調所は財政は全くの素人だったから最初は固辞したが、重豪からほぼ全権委任的な言質をとって家老となり財政改革に取り組んだ。重豪としては、自分の意を完璧に理解して、いわば「自分の分身」として物事を進められる人材として調所を抜擢したようである。

調所は自分が素人であるという自覚があったから、有能な人材を家格や身分の上下によらず積極的に登用して重役につけた。そして自分自身でも寸暇を惜しんで勉強と視察に励み、財政立て直しに邁進した。

薩摩藩は表向きは様々なことが統制されていたけれども、実際には「穴だらけの統制」であった。調所はこれを様々な面で厳しく取り締まり、 薩摩藩を本当の統制経済に変えていった。例えば出来高に応じて納税(年貢)の量が変動する制度があったが、これが悪用されているとして廃止し、一定の年貢へと変更している。しかしただ苛斂誅求を推し進めるだけでなく、調所は流通経路の徹底した合理化とともに旧習の打破にも努めた。

そして奄美の黒糖生産は全てを統制して自由貿易を禁止。藩の専売とするだけでなく島民には黒糖生産以外のほとんどの農業を禁止し、貨幣までも廃止してしまった。奄美の人にはひたすら黒糖のみを生産させ藩はそれを安く買いたたき、藩外に高くで売るという今日から見れば非人道的な貿易を行って暴利を得た。

しかし調所の改革のハイライトはなんといっても500万両の借金踏み倒しである。古い証文を認め替えるという名目で借金の証文を集めて焼き捨て(!)、上下貴賤の別を問わず全ての借金を勝手に「250カ年の無利子償還」へと書き換えてしまった。250年と言えば関係者は誰も生きていないどころか、子や孫でも生きていないわけだから、これは事実上の借金棒引きであった(ただし、旧藩債消滅の命令が発布される前年の明治4年までの間、250年割として律儀に少しずつ返済はした)。

どうしてこんな暴挙が可能であったのかはよくわからない。普通、このような勝手な借金棒引きが行われたら貸し主らから暴動がおきそうなものだが、さほどのことは起きなかった。根回しの周到な調所のことだから、要所で緻密な調整を行っていたのかもしれない。

調所の改革は重豪の死後も藩主斉興(なりおき)の下で進められた。斉興も調所をよく信頼し、持ち前の頑固で一徹な決断力によって調所の改革を断行させた。これにより日本一の貧乏藩だった薩摩藩の財政が徐々に好転し、普段の生活もままならない貧乏藩から対外的に売って出る雄藩へと変貌していく。明治維新において薩摩藩の活躍が甚だしかったのは、調所の改革の成果という側面が大きいのである。

ところがいざ財政が黒字化してくると、苛烈な緊縮策と統制の厳格化への反動が起こらざるを得ない。調所は徹底的な能力第一主義で人材を登用したから、その人材は清廉潔白の徒とはいえず、汚職もかなりあったようだ。調所は仕事さえできれば素行には目をつぶった。調所自身は仕事一徹で公明正大だったらしいがこうした部下の評判は甚だ悪く、次第にアンチ調所派が形成されてくる。

その首魁が島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬は嫡子でありながら40歳になっても家督を譲られず、その原因の一つが調所らの妨害工作にあると斉彬派は考えた。斉彬が藩主になれば、曾祖父の重豪ゆずりの蘭学趣味や蕩尽癖によってせっかく立て直した財政がまた傾くおそれがあるということで、斉興と調所には斉彬の登場をできるだけ遅くしたいとの思惑があったのは事実のようだ。

そこで斉彬は奇手に出る。調所は幕府からは禁じられていた琉球との貿易を民間の業者に秘密裏に行わせて莫大な利益を生みだしていたが、斉彬はあろうことかこれを幕府の家老阿部正弘に密告したのである。薩摩藩自体を危殆にさらす可能性もある密告であった。これをうけて調所は幕府から取り調べにあう。まさか斉彬が密告したとは知らない調所は、薩摩藩が禁を犯したということで処分されることを案じ、罪を自分一人で負って真相をうやむやにするため、ついに服毒自殺したのである。しかし実際には、斉彬と阿部との間には「薩摩藩は処分しない」という密約が裏では交わされていた。全ては調所を失脚させるためのシナリオだったのである。

明治維新を進める大きな力となった斉彬の敵対勢力であったということで、調所笑左衛門は正当に評価されていない、と著者は嘆く。そのためこの一書をものしたということだ。出版は1966年(昭和41年)。その甲斐あってか、近年ではかなり調所の仕事は見直され、薩摩藩が雄藩として飛躍する基礎をつくった人物として評価が定まっているように見受けられる。

本書を読むと、反感の嵐の中で改革を断行した調所の人格と振る舞いにも興味が湧く。藩主(斉興)と時期藩主(斉彬)の対立にも巻き込まれ、素行のよくない部下にも振り回されつつ、非常に温厚に穏便に、そして驚くほど精力的に仕事を進めたという。

財政再建の大業を成し遂げながら非業の死を遂げた調所広郷を知る好著。

【関連書籍】
『島津重豪』芳 即正 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post_21.html
薩摩藩が雄飛する基礎をつくった型破りの藩主、島津重豪(しげひで)の初の本格的評伝。500万両の借金が正当な条件によるものではなく高利による不当なものであったことを論証している。


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