2018年2月11日日曜日

『明治維新と国学者』阪本 是丸 著(その1)

国学者が近代天皇制国家の創出に果たした役割と限界について考察する重厚な論文集。

収録された論文は、その対象とする年代が重なりまた前後していて、通読すると時代を行きつ戻りつしている感じがし、重複もかなり多い。そのため、通読する本というよりは、独立した論文集として読む方がよい。

しかし、それは異なった視点から何度も時代の流れを追っているとも言えるので、全体を読むことでより重層的に理解できるという利点もある。私は本書で朧気ながらこの時代の国学者たちの動向が分かってきた。

本書によって強調されるのは、明治初期の段階で国学者たちの構想はある程度実現したが、政治力を早くに失ってしまったためにその構想は一時的なものに終わってしまったということである。それは島崎藤村が『夜明け前』で書いたことと同じであり、本書は『世明け前』の背景を学術的に解き明かすものであるとも言える。

しかし私自身、本書の内容を完全に咀嚼できたとは言い難い。そこで、章ごとにその内容をメモしていくことする。

序章「祭政一致国家の樹立と国学者の動向」

王政復古の基本方針の一つが「神武創業の始めに返る」ことであったのはよく知られているが、この方針の決定にあたり大きな影響力を持ったのが、蟄居中の岩倉具視に国学思想を鼓吹した玉松操であった。そして、実際に明治政府に対してこの方針を貫徹させようとしたのは、同じ平田派の国学者、矢野玄道(はるみち)であった。

だが、2人は岩倉具視以外の政府首脳とは繋がりを持っておらず、政治的にはほぼ無力であったこと、まためまぐるしく変わっていく政府の方針に対して柔軟に対処せず、ある意味では「頑迷固陋」な方針に固執したこと、特に東京遷都に対して批判的であったことなどで維新後に急速に疎まれるようになり、それに代わって平田派から派生した大国隆正の思想を奉ずる亀井茲監(これみ)・福羽美静(びせい)らいわゆる「津和野派」が擡頭してくるのである。

平田派の持っていた構想は、ある意味では素朴であり、単純に言えば「復古」その一語に尽きる。よって明治政府によって神祇官が再興され、一応古代律令制度が復活したとき、その目的は達したのである。しかし彼らはそれ以上の構想を持っていなかった。明治政府が「復古」だけで前進できるはずもなく、律令制が明治の時代に合うわけもなかった。また彼ら自身にも制度を再考していく政治的力量がなく、いつまでも復古という題目にとらわれる時代錯誤な人間と思われ、平田派は没落したのだった。

それを端的に表す、矢野玄道が詠んだ歌が「橿原の御代に返ると頼みしは あらぬ夢にて有りけるものを」である。明治政府の初期段階において、平田派は挫折し、表舞台から遠のくことになった。「復古」という夢は、露と消えたのである。

第1章「神祇官再興と国学者」

神祇官が再興される経緯を扱う。神祇官を含む古代律令制が再現されたのは、直接には平田派の運動の結果であるが、これは明治維新の際に急ごしらえされたものではなく、伝統的神道家である白川家・吉田家や三条実万など、幕末に至るまでの様々な人が関わっていた。

そしてこれを具体化したのが岩倉具視であり、その手足となったのが薩摩藩出身の井上石見であった。岩倉は千種有文宛の書簡(慶応3年)で「神道復古神祇官出来候由、(中略)実は悉く薩人尽力の由に候…」と述べている。岩倉らは神祇官復興にあたって吉田家を中心とした伝統的神道を基本としたものを考えていたらしく、また矢野玄道は元白川家学師であったために神祇官の中心は白川家という意見だったようだ。しかしその考えは両者とも次第に変わっていく。

王政復古の大号令が発せられたのが慶応3年10月。慶応4年2月には神祇事務局が置かれ、トップは白川資訓(すけのり)が就任。同4月には太政官を分けて七官とし、神祇事務局は神祇官とされ、ここに神祇官が復活した。そして神祇官自身が上申書を提出し、明治2年7月の官制の改革によって神祇官は太政官から特立することとなった(それまでは太政官の下にある一部局)。こうして、平田派は目的であった神祇官再興、特に太政官からの独立という「祭政一致国家」を実現し、権力の絶頂に達した。

しかし、「神武創業の始めに基づく」という理念は、ある意味では平田派の墓穴であった。なぜなら、彼らが企図していたのは古代律令制の復活であったにも関わらず、歴史的には全く明らかでない神武天皇の治世が基準となってしまったからである。このため明治の為政者たちは「復古」を掲げながらも歴史事実にとらわれることなく、ほとんどフリーハンドで政治機構を設計することができた。逆説的なことだが、歴史的に明確な「建武中興」や「古代律令制」ではなく、神話の中にある「神武創業」を旗印にしたことは明治政府を開明的に変革していく余地を残したのである。

第2章「明治初年の神祇政策と国学者」

明治初期の政権構想において、国学者が従来思われていたほど大きな影響力を有していなかったことを述べる。

政権に関与した国学グループは大きく3つある。第1に矢野玄道や平田鐵胤ら平田派、第2に福羽・亀井ら津和野派、そして第3に白川家、吉田家の伝統的神道家の両家であった。王政復古の思想を具体化するにあたってその理論を提供したのはまずは矢野であった。矢野は白川家の学師をつとめていたこともありその間は親密であったが、それは必然的に吉田家との軋轢を生じ、また吉田家は白川家に対抗して井上石見や岩倉具視の支援の元に神祇官再興運動に取り組んだ。しかし両家の次元の低い勢力争いには周囲もついていけなくなり、やがて両家の存在感は低下していった。

矢野が提供した思想は、古代律令制の復興による祭政一致国家の確立であり、その到達点が神祇官の再興であったわけだが、津和野派のそれは少し違っていた。同じ祭政一致国家を目指すのでも、津和野派は天皇親祭——すなわち神祇官によるのではなく、天皇自身が祭りを行うという体制を構想した。天皇親祭にして天皇親政、これこそが津和野派が目指す真の祭政一致であった。天皇自身が祭りを行う以上、神祇官など不要なのである。そしてこの方針は木戸孝允や大久保利通らに原則的に支持されていた。

津和野派の特徴は、維新の功臣に強力な人脈があったということである。亀井自身が津和野藩の藩主であり、津和野藩は長州藩の隣藩だったため長州閥との関係が深かった。一方、なんら政治的な基盤を持たない矢野らが自然に閑職へと追いやられていくのは、思想的な敗北があったにしても自然のなりゆきだった。また津和野派は、天皇親祭を目標とする以上、白川家・吉田家のような全国の神社を統べる中間管理職的な存在は不要と見なし、政権内から両家の排除を計画してある程度成功した。

こうして神祇官が再興された時点で既に、平田派は政権の中枢から遠ざかり、白川家・吉田家も排除されつつあった。神道国教化政策を担ったとされる平田派は、実際には神祇・宗教行政には直接関与していないのである。逆に、政権の中枢へと食い込んだのは亀井ら津和野派で、彼らがしばらく神祇行政をリードする。

第3章「明治初年における国民教導と国学者」

明治政府の宗教政策において神祇官再興と並ぶ大きな目的は、キリスト教をどうやって防ぐかということにあった。慶応4年の段階では明治政府はキリスト教厳禁を明示している。しかし西欧諸国はキリスト教解禁を強硬に求め、その要求は次第に拒絶できないものになっていく。そこで政府はキリスト教対策の方針を、「弾圧」から「教化」へ変えていった。キリスト教が蔓延しないように、日本国民をしっかり教育しようというのである。

このため明治2年に、国民教導を担う「教導局」が置かれることになった。この教導局設置を唱導したのが小野述信(のぶざね)、長州の儒臣で早くから国民教導の必要性を説いていた。

一方で、神祇行政をリードしていた津和野派は、その理論的支柱である大国隆正が神道の改革を目論み、その教えを全国に広める構想を持っていた。大国はこれまでの神道はあまりにも漠然としていてとてもキリスト教に対抗できないので、”御一新”を機に神道も一新して新たな教義を確立し、これを国民教化の法にすることを企てた。

教導局は、平田派も含めこうした様々な勢力を包含して出発した。しかしこれは不偏不党の人選といえば聞こえはいいが、ただの寄せ集めでもあった。そして、国民を教導しようにも、その内容がほとんど全く確立していなかった。神道・国学、仏教、漢学など様々な思潮がある中で、それらを包含しうる教義・教法はなかった。

教導局が改組されて「宣教使」となっても、宣教しようにも教義は確立せず、宣教のための人材も得られなかった。宣教使が人民に「宣教」するどころの話ではなく、「宣教」の内容そのものを討議するところから始められた。

明くる明治3年1月には、 「宣布大教の詔」が発せられ、宣教使は”惟神之大道(かんながらの大道)”を以て天下に布教することとなった。各藩においても宣教の活動をするように指導されたが、多くの藩が適当な人材がいないことを理由に免除や猶予を願い出た。国民教導の活動は、内部の対立や教義の不確立、人材の不足などによって全くうまくいかなかった。

こうして、これまでの体制ではキリスト教へ防禦が出来ないことが明らかになった。明治政府は、国民教導に新たな対策を講ずる必要に迫られていたのである。

第4章「祭政一致国家の構想と東京奠都問題」

東京奠都(都と定めること)に関して、平田派と津和野派の動向を述べる。

明治初年の宗教行政に強い影響力を持った平田派であったが、先述のように彼らの思想はその限界が自ずから定められていた。律令制を規範とし、古代国家の仕組みをそのまま現代に持ち込もうとしても、明治の時代にそれが合うわけもない。彼らの構想は具体的かつ固定的でありすぎたがゆえに、次第に政府からはやっかいなものと見なされていく。

逆に津和野派の構想はより柔軟であった。津和野派が構想していた祭政一致国家は、律令制によるそれではなく、天皇親祭にして親政であったし、政務を司る場所も京都でなくてもよかった。平田派が京都を中心にしていたのに対し、津和野派は江戸派や考証派の国学者も取り込んでもいた。こういう事情から、東京奠都は平田派と津和野派の明暗を分ける分水嶺になった。

津和野派の考える天皇親祭の総仕上げとも言うべきものが、東京への行幸の際に行われた氷川神社への親拝である。このために氷川神社は祭神に格付けがされるなど勅祭社にふさわしい体裁に整えられ、「皇城」の鎮護社となった。そして氷川神社は、以後の神祇官・神祇省による神社改正の雛形ともなり、これを契機として、神祇官は府藩県の式内社・式外大社の調査に乗り出していくのである。

もちろん京都を基盤とする勢力は、東京奠都には猛烈に反対した。だが平田派国学者を中心とし、守旧派公家層、京都市民、全国にいる草莽の国学者が反対運動を展開したものの、それは政府からいくばくかの懐柔策を引き出しただけではかばかしい成果を上げなかった。

東京奠都を契機として、福羽美静ら津和野派はその政治的力量と人脈を活かし、他の維新官僚にはできない分野での制度の調査・改革に中心的に取り組んでいくことになった。

第5章「教部省設置の事情と伝統的祭政一致観の敗退」

復興された神祇官には、祭祀の実施と同じくらいキリスト教の蔓延防止が期待されていた。

このため政府は神祇官の外局的な組織として宣教使を設置し、明治3年1月には「宣布大教の詔」を出して「大教」を宣布せしめた。この「大教宣布運動」を通じ、政府は神道を国教化しようと試みた。しかし復古神道には確たる宗教理論もなく、教導しようにもその中身がなかった。「大教」などと言ってもなんら積極的な教えがなかったのである。

中身のない教えによって、人々の信仰という内面的なものを強制的に変えさせるのは不可能な話であった。大教宣布の運動は、大した成果も上げることなく頓挫した。

一方で、仏教勢力にとってもキリスト教の防止は大きな課題として受け止められていた。あからさまな神道優遇の政策が行われる中で、仏教がキリスト教の防禦を担うことで仏教の地位を向上させようとする目論見もあった。よって仏教はキリスト教を法敵として排撃し、自ら進んで神仏儒三教一致による国民教化運動へ乗り出そうとした。

そういう事情の中で、明治4年8月、神祇官は改組されて神祇省と格下げされた。これには、神祇官の人々が復古的で時勢に合わず、教化策もうまくいかないと考えていた大久保利通や岩倉具視の影響もあったのであろう。神祇官にはそもそも何ら行政執行権も与えられておらず、無用のものと見なされていた。

なお神祇省への格下げの直前、明治4年3月には、丸山作楽、角田忠行、権田直助、小河一敏など平田派の神道家・国学者が突然諸藩お預けの処分を受けた。これは福羽美静の讒言によるとも言われるが真相は定かでない。平田派の地位低下を示す象徴的な事件であった。

ところが福羽が主導した神祇省も長くは続かなかった。神道一辺倒の大教宣布の運動がうまくいかなかったことで、明治4年秋頃からは仏教を動員して異教防禦を行うべきとの意見が支配的になっていった。つまり、神道のみによる国民教導の限界が、そのまま神祇省の限界となった。

こうして明治5年8月には神祇省が廃され、神仏合同で布教を行う教部省が設置された。この設置は神祇省の官員にすら知らされずに秘密裏に、そして突然行われた。この教部省設置は、福羽らの既定路線ではあったが、国学者たちの敗北でもあった。祭政一致国家であるにも関わらず、仏教を国家的宗教勢力と認めたことになるからだ。ここに、神道を国教化するという目論見は挫折した。

なおこの改組に際して、神祇省が司っていた祭祀関係の業務は式部寮に引き継がれ、教部省は教法のみを担うこととなり、祭教分離の体制へと移行した。

これに応じ、 神道における祭祀的性格と宗教的性格は分離され、祭祀面を国家的精神の源泉としていく方向性となっていったのである。

(つづく)


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