2018年2月6日火曜日

『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』芳 即正 著

初めて書かれた島津久光の伝記。

久光というと、西郷や大久保と対立したことから、(最近はそうでもなくなってきているが)鹿児島では暗君というイメージがある。しかし著者は、久光があってこそ西郷や大久保の活躍があったと述べる。

本書に描かれる久光のイメージは、学者肌で神経質なところはあるが、政治的バランス感覚に優れ、ひとたび決断を下すや実行は果断かつ大胆であり、何よりも人の和を重んじた人物、というところだ。

他の雄藩がかわるがわる政治の舞台に移ろう中で、薩摩藩だけが幕末政治の中心に居続けることができたのは、藩内がよく統一され、藩全体が同じ方向を見据えていたためである。その中心には、下級武士に過ぎない西郷や大久保ではなく、当時藩主だった島津忠義(久光の実子)でもなくて、間違いなく久光がいた。

簡単に、久光の人生をハイライトしてみよう。

第1に、大久保利通ら誠忠組の突出計画を阻止し、藩の機構に取り立てた。誠忠組は脱藩して幕府要人を殺害する計画を立てていたが、これを察知した久光は、本来は厳罰に処すべき脱藩の計画を咎めないばかりか「精忠」と呼んでその志を認め、やがて挙藩一致してことにあたることを誓った。これにより大久保らが藩内で活躍していくことになった。

第2に、 文久2年、前代未聞の率兵上京を成功させた。久光は先君斉彬の遺志を継ぎ、また誠忠組との約束を果たす意味で、無位無官ながら千人もの兵を率いて京都に入り朝廷と接触。浪士鎮撫の勅諚を得て滞京し、勅使大原重徳とともに江戸へ赴いて幕政改革を促す「三事策」を突きつけた。この滞京の際、過激派薩摩藩士との衝突「寺田屋事件」があったが、これに敢然と対応したことはむしろ久光の信頼と声望を高めた。

第3に、 生麦事件からの薩英戦争をよく処理し、これをきっかけに海軍の増強と藩内の殖産興業に取り組んだ。また斉彬の没後に中断されていた集成館事業の一部を再開させて洋式紡績工場を建設するとともに、英国へ留学生を派遣した。元々、久光は斉彬の開明路線には賛同していたようだが、財政的な問題などで頓挫していたこれらの事業の真の必要性に気づいたのは薩英戦争の経験があってこそであった。

第4に、八月十八日政変や薩長同盟の締結など、幕末の政局をリードし続けた。八月十八日政変は、朝廷における過激な攘夷派を武力を背景に強引に排除した政変。この政変には久光は直接手を下していないが、久光の監督の下で行われたものである。また、幕末政治の一つの焦点は長州問題、すなわち反幕府的態度をとった長州をどう処分するかということにあったが、当初長州征伐の先鋒を担った薩摩藩が親長州に変わったことが幕末政治のターニングポイントになった。

第5に、武力による倒幕を決意し、王政復古のクーデターを成し遂げた。久光はそもそも公武合体を主導していたが、そこに大きく立ちはだかったのが、かつて薩摩藩が支援していた徳川慶喜だった。「三事策」においても慶喜の起用が提言されていた。ところが慶喜は要職に就くや稀代の手腕によって朝幕の政治を手玉に取り幕府の復権のみに心を砕いた。慶喜は薩摩藩にとって手強い敵であり、久光を含め諸大名も朝廷も、慶喜の政治的才覚には完全に敗北していたように思える。だが、慶喜に踊らされる朝廷と幕府を見限ったことが、久光が武力による倒幕を決意した要因であると著者は考える。

このようにして、薩英戦争のゴタゴタの時期を除いて、一貫して幕末政局の中心にいた久光だったが、いざ新政府が樹立されると急速に表舞台から姿を消す。本書では、類書では簡単にしか扱われない維新後の久光についても詳しく述べていて大変参考になる。

久光が表舞台から姿を消したのは政治的失点のためではなかった。むしろ自ら望んで身を引いた部分がある。新政府の西洋化路線への反抗を示すためにだ。新政府は、建前としては、いっこうに攘夷を実行出来ない幕府に代わって政権を担うという意味で誕生したものであった。しかし新政府は、攘夷どころか外国の制度や文物を積極的に導入し、あまつさえ天皇は洋服を着ていた。

幕末、久光を動かしたのは、このままでは日本は西洋の属国となってしまうかもしれないという危機感だった。事実、清国は内乱に乗じて列強により植民地化されている。この危機感があったから、久光はなんとしても内戦だけは避けなければならないと思っていた。イギリスとの関係から、海外からの干渉がないと確信できて初めて武力討伐を決意したという側面もあった。

しかし新政府は、植民地化こそ免れたものの、精神的には西洋を追従するだけの属国になってしまった。西洋のものならば何でもよいとし、古くからのものはなんでも否定されるような世情になっていた。そんな社会であるのなら、なんのための王政復古だったのかと久光は憤激し、天皇に改革を難ずる建白書を奉呈した。

その建白書は巷で話題となり、反明治政府的な考えを持つ全国の人々が久光に建白書を送ってくることにもなった。だが新政府は、維新の功労者である久光の処遇には大変気を遣い、最大の栄誉を与えたけれども、その意見には一切耳を貸さなかった。

西南戦争により鹿児島は潰滅し、久光の影響力も小さくなった。以後久光は歴史の編纂など学究的な仕事に取り組み、それが現在の鹿児島の維新資料の基になった。久光がいなかったら、鹿児島の明治維新の歴史は謎だらけだったかもしれない。

ところで改めて思うのは、これだけの仕事を行いながら、これまで久光の伝記がただの一冊も書かれなかったという不思議な事実である。西郷や大久保と反目したために人気がないという事情があるにせよ、久光の政治的活躍が無視できないものであるのは明らかなことである。

鹿児島の明治維新にとって過小評価されてきた、島津久光を再評価する重要な本。


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