2018年2月13日火曜日

『明治維新と国学者』阪本 是丸 著(その2)

(前回からのつづき)

第6章「矢野玄道と学校問題」

国学による国民的な学校を作りたいという構想を抱き、その実現に邁進したのはなんといっても矢野玄道(はるみち)であった。

伝統的神祇道家である白川・吉田両家も国学による学校を設立することは幕末から企図しており、特に白川家は慶応3年に学寮を設立している。吉田家はこれに対抗し、本来はあまり好ましいと思っていなかった平田派を取り込むため矢野を学頭に招いて学館設立運動に乗り出した。 なおこの周旋には薩摩藩が動いていたらしい。吉田家と薩摩藩には密接な連絡があったらしく、薩摩藩はその廃寺政策を強力に進めるためにも吉田家を主とした神祇道復古に期待を寄せていた。要するに、吉田家と薩摩藩の政治的利害が一致したため矢野を担ぎ出したということのようだ。

こういう経緯であったためか、やがて矢野は白川家・吉田家の両家ともに神祇行政から排除すべきと考えるようになるのだが、ともかくこれが矢野が学校問題に手をつける端緒となり、維新後、矢野は学制取調を命ぜられることになる。

矢野ら平田派国学者は、明治政府の初期神祇行政で重んぜられたが、津和野派との主導権争いに破れ、やがて本務とも言うべき神祇事務行政からは遠ざけられ、学校設立の事務へと追いやられていく。だが矢野にとっては、学校問題の方がより熱心だったのでこれは本人の希望に沿ったものでもあったかもしれない。

ともかく、明治政府は学制立案という最初の教育・学校行政を矢野玄道、平田鉄胤、玉松 操という三人の平田派国学者に一任したのであった。三人は内国事務局に籍を置き、神祇行政とは無縁のところで(しかし彼らの構想が国学に基づくものであることは言うまでもない)学制立案に情熱を傾けた。

ところがこの努力は、政府からは評価されるどころかほとんど無視された。その内容が漢学や儒学を無視した国学びいきのものでありすぎたからだ。

そして矢野らの構想が無視された形で、公家向けの教育機関である学習院が開校され、 内国事務局は廃止となり、矢野たちは自然廃官となって学制取調は宙に浮いた格好になった。

とはいっても、政府は一度は国学者たちに学制立案を一任したほどであったから、さほど重きを置かなくなっていったとはいえ、矢野たちには追って改めて学校掛を命じて彼らは学校設立に向けて運動を再出発させた。

しかし彼らの構想は、京都に国学主体の大学校を設立し、さらには諸藩にもその分校を設けるという壮大なもので現実性がなかった。開明路線へと走っていく明治政府にとって、このような構想は滑稽ですらあったろう。政府が彼らの構想を実現する気がないと悟るや、平田は岩倉や政府首脳に対して建白書を盛んに出したが、その建白にはもはや政府を説得する力はなかった。

政府は江戸において旧幕府の医学所や昌平学校を復興し、また学校問題については岩下方平・長谷川昭道へ軸足を移した。そして長谷川の意見が受け入れられ、明治元年、京都に皇学所・漢学所が並行しておかれることとなった。これは漢学を感情論から攻撃して目に余るものがあった国学を牽制し、漢学との政治的なバランスをとったものであって、あくまで国学を最高の地位において教育をしたかった矢野らの構想の挫折であった。

矢野らはこうしたことから自然と政府とは疎遠になり、立場も不安定なものになっていく。

第7章「皇学所・仮大学校と国学者の動向」

平田派国学者にとっては不本意であった皇学所の設立であったが、彼らはそこを立派な「天朝の学校」にしたいと意気込んだ。しかるにそこで行われた教育がどうであったか。

結論的に言えば、皇学所は学校規則やカリキュラムの面では立派に見えこそすれ、その内容はほとんど伴っていなかった。これを主導した矢野は自身が勉学に打ち込み続けた人間であったから、普通の人に必要な教育が何かということを考えていなかったようだ。

さらに大きな問題は、皇学所が漢学に対して敵意を持ち、講義内において漢学への誹謗中傷を繰り返したということだ。皇学所・漢学所という横並びの存在であったことがライバル意識を生み、元来そうであった以上に対立の構図をもたらしたのかもしれない。

もう一つは、皇学所の中心であった玉松操をその代表として、守旧的意見をどんどん強くしていったということがある。これには、国学を漢学や洋学と差別化し、「皇朝」の伝統を継承しようとする意識が働いていたように見える。このため、授業は烏帽子・直垂を着用して受けることにすらなっていった。しかしこうなると、政府の首脳としてはもはやついて行けない。玉松は岩倉や中御門経之らにとっては師匠格に当たる存在であったが、やがてその間は不調和になっていった。

政府では、東京に大学校を設けてこれに平田派国学の総帥平田鐵胤を抜擢し、皇学所から平田が去ることになった。皇学所は見るべき成果も上げられないまま弱体化していった。そして国学(皇学所)と漢学(漢学所)の次元の低い感情的な争いに辟易していた政府は、両校を廃止・統合し、明治2年12月、京都に仮大学校を設立させた。

これには、当然のことながら矢野は大不服であったが、多くの教員は素直に大学教官に再任させられたことを喜んだらしい。皇学所は内部からも限界を迎えていたということだ。しかしこの仮大学校の命脈も、一年と持たなかった。

というのは、時代の中心がもはや東京へと移っていたからだ。京都の仮大学校には生徒が300名近くいたが、多くの教授陣は東京へ移らざるを得なかった。強硬な守旧派だった玉松すら、明治3年3月には東京へ移った。さらに6月には、仮大学校の幹部級国学者であった後醍院真柱が宣教使として東京へ引き抜かれた。こうして仮大学校はどんどん先細りになっていった。

その上、国学と漢学の対立は仮大学校にも持ち越されていた。学校が先細りになり予算的にも窮屈になってくるとその対立が表面化し、辞表を出すものが続出。こうして内部の対立によって仮大学校は崩壊した。時を同じくして、京都以上に両派の対立が激化していた東京の大学校も崩壊。東京の大学校が閉校したのが明治3年7月、京都の仮大学校が閉校したのが同8月であった。

大学校で教鞭を執った国学者は、こうしてちりぢりになっていった。そして国学と漢学が抗争し共倒れした果てにひとり無傷で残ったのは、洋学のみであった。

第8章「角田忠行と明治維新」

代表的な平田派国学者である角田忠行の人生について概説的に述べる。

角田忠行といえば、島崎藤村『夜明け前』で「暮田正香」として登場し、主人公青山半蔵と深く関わった人物だ。

角田は天保5年に生まれ、安政2年に平田篤胤の没後の門人となった。門人の中では出色の存在であり、後年、矢野玄道とともに平田家の後見人のような立場にもなる。角田の存在が門人の中で際立つきっかけとなったのが彼が文久2年に著した『古史略』である。『古史略』は古事記の神代7代から神武天皇崩御までの歴史を略説したもので、学問的な価値はともかくとして、同門の中で重要人物と認識されるにはかなり効果があったらしい。角田はこれを著した年、京都へと登った。角田は京都で平田鐵胤の秘書のような働きをした。

角田が世に出たのは、いわゆる「足利将軍木像梟首事件」である。これは角田ら京都でくすぶっていた平田派門を中心とする数人が、等持院に安置されている足利将軍三代の木像の首をはねて三条河原に梟首し、傍らにその罪状を掲げた事件を指す。これは朝廷を軽んじた足利将軍を糾弾することで、幕府への公然たる挑戦を行うものであった。これは計画的犯行ではなく、犯人たちも大事件になるとは思っていなかったようであるが、京都守護職はこれを重く見て犯人検挙に乗り出し相次いで捕縛した。このため角田は信州伊那谷へ逃亡する。

角田は 慶応2年まで信州に潜伏していたが、「米川要人」と名を変えて京都へ上った。彼は山階宮晃親王の知己を得、また薩摩藩の客分として遇された。薩摩藩の家老であった岩下方平が力になったらしい。彼は薩摩藩の京屋敷に身を寄せていたのである。そういう縁からなのか詳細は不明だが、角田は公家の澤為量(ためかず)の家令となることができ、再び志士としての活動を始めた。角田は為量の手足となり、情報収集や志士たちとの連絡にあたった。

為量の嗣子には「七卿落ち」(廷臣八十八卿列参事件)で失脚した澤宣嘉(よしのぶ)がいたが、維新後、角田は復権した宣嘉に従って行動。戊辰戦争で九州鎮撫総督兼外国事務総督を命じられた宣嘉とともに長崎へと下った。この際、長崎に近い島原藩にいた平田派国学者丸山作楽と繋がりができ、丸山・澤・角田の三者には特別に親密な関係が築かれた。また、角田は矢野玄道とも同門の先輩後輩を越えた深い関係があった。矢野を通じて岩倉具視の知遇も得、角田は国学者として押しも押されぬ人物になっていた。

角田は明治2年、矢野が実質的に主催する皇学所に監察として赴任した。矢野にとっては心強い援軍であり、二人は親友としてともに力を合わせて皇学所の運営に取り組んだ。しかし皇学所ははかばかしい成果も上げられず廃止となり、角田は翌明治3年には東京へ向けて出発する。

東京に着いてから暫くは無職で矢野の元で雌伏していたらしい。大学校が廃止されると、矢野は免官になったが、平田派国学者の集団を無視できなかった政府は、矢野、角田など平田派国学者と西周など洋学者を学制取調御用掛に命じた。こうして政府の要職に起用された角田であったが、順調な時間は数ヶ月と続かなかった。

明治4年3月に、角田、矢野、丸山作楽、権田直助、宮和田胤影らが「ご不審の筋これあり」として突然拘束され、それぞれ諸藩お預けの処分を受けた。丸山作楽の征韓の陰謀に関わったというのが名目とされたらしい。これを「平田派国事犯事件」という。この事件の原因・背景はよくわかっていない。祭祀の中心を東京に移そうとした神祇官少副の福羽美静が、それに強硬に反対していた角田・矢野を抑圧するために拘禁させたともいわれるが真相は定かでない。

翌明治5年にはお預け処分が解かれたが、もはや角田は政府の要路からは排除されていた。角田は明治6年に官幣大社賀茂御祖神社の少宮司、翌7年には熱田神宮の少宮司となり、以後熱田神宮の待遇改善に尽力し、神官・神職として活躍、大正7年に85歳で没した。

第9章「近代の熱田神宮と角田忠行」

角田忠行が後半生を掛けて実現しようとした熱田神宮の地位向上運動について述べる。

熱田神宮は三種の神器の一つとされる草薙の剣を祀る神社である。古来より皇室からの崇敬を受けてきたが、それがにわかに強化されたのが幕末においてだった。攘夷祈願のために孝明天皇が熱田神宮に重きを置いたからだ。

維新後、明治天皇もその動きを踏襲したが、元来の熱田神宮の存在感を越えてこの神社の地位向上・待遇改善に与ったのが角田忠行だった。神祇行政・学校設立に挫折した角田は、教部省から熱田神宮の少宮司に任じられた。当時教部省は、伝統ある大社に公家や国学者を大少宮司として送り込み、神社の改革に従事させようとしていた。

熱田神宮に赴任した角田は、大宮司千秋季福とともに同社を特別な神社へと引き上げる運動を行った。彼が赴任しての最初の大仕事は、熱田白鳥古墳・陀武夫古墳を日本武尊の陵として公認・保存させることだった。角田はこのため古墳の由緒を記した『熱田地陵墓考』を著すなど国学者らしい仕事を行い、見事公認を勝ち取った。

しかし角田の仕事は、世襲で熱田神宮に奉斎してきた勢力との軋轢を生まずにはいられなかった。角田の登場は旧社家の世界を徹底的に破壊することも意味していた。明治9年には千秋季福が自殺。その原因は不明であるが角田にとっても衝撃は大きかった。

角田は千秋の自殺後に一時広田神社へ転任したが、明治10年にはまた熱田神宮に大宮司として戻ってきた。角田は周囲との軋轢を抱え、また人望を失いながらも熱田神宮の地位向上のために一層力を入れた。彼の構想は、熱田神宮を官幣大社の列から脱し、神宮(伊勢神宮)と並ぶ「両宮」の地位を獲得することだった。要するに、伊勢神宮と同格にするのが最終目標だった。

彼は国学者らしい考証力と人脈を使い、社殿改造費用を国庫から支出させることに成功し、また熱田神宮を「尾張神宮」として伊勢神宮並の社格に引き上げる企画を政権に認めさせた。しかしこれは伊勢神宮派からの猛反対を受けることになり、また考証の上でも、それほどの由緒を証明することができず、実現の一歩手前で廃案になった。とはいえ角田の運動はかなりの程度実を結び、実際に熱田神宮を伊勢神宮に次ぐ立場まで押し上げた。

こうして角田の宿願は実現することはなかったが、これほどまでに一個人の執念が神社の在り方に影響を与えた例は全国的にも稀有なことであった。まさに近代の熱田神宮をつくり上げたのは、角田忠行その人だったのである。

……

こうして章ごとのメモを書き終えたので、改めて本書の感想について述べたい。

本書は『明治維新と国学者』とは銘打っているが、実際に中心とするのは、概ね慶応3年から明治5年という短い期間の、しかも矢野玄道を中心とする平田派国学者の動向であって、明治維新と国学者の全体像が見えるとは言えない。

平田派国学者の構想は一度は実現したものの、大した成果を上げられないまま頓挫し、その後に手がけた学校問題でも挫折した。そういう次第であるから、本書のみを読むとあたかも国学者たちは政権にほとんど影響を与えられないまま退場したという印象を抱く。

しかし政権に与えた影響という点では亀井茲監(これみ)・福羽美静(びせい)ら津和野派の動向も重要だ。むしろ神祇行政を担ったのは津和野派と言ってよく、本書では津和野派についてあまり語られていないのは残念だ。彼らの構想が近代天皇制の創出に大きく寄与しているというのは間違いないと思う。

そして本書では、神仏分離政策と国学者の関わりがさほど述べられていないのも不満な点である。神仏分離政策そのものの成否はともかく、少なくとも日本全国に大きな影響を与えているのは事実であり、国学者たちの構想が実際の政策に色濃く反映した事例であろう。本書がこだわるのは神祇官復興から教部省設立までの行政史であって、それ以外の点については記載が簡潔すぎる。

なお、私が本書を手に取ったのは、明治初期の宗教行政について知りたいということの他に、薩摩藩と国学勢力との関わりについても興味があったからだ。本書には、それについての論考はなかったが、全体を通じてみると次のように言える。

薩摩藩の国学者は、明治初期の段階まではまとまった勢力になっていなかった。むしろ平田派国学者が世に出るための踏み台的な役割を果たした。例えば、薩摩藩出身で近衛家に仕えていた井上石見は蟄居中の岩倉の片腕となり、国学者たちと岩倉、そして薩摩藩を繋ぐ役割をした。神祇官再興は、国学者たちの構想を岩倉が咀嚼し、薩摩藩の力によって実現したものと言える。王政復古までの井上石見の動きはもっと注目されてよい。

また、薩摩藩は吉田家と深い繋がりがあったようである。その廃寺政策を進める上で吉田家をブレーン的に頼りにしていたのだろう。元来は敵対関係にあった矢野玄道を吉田家に引き合わせたのも薩摩藩であり、また潜伏中の角田忠行をかくまったのも薩摩藩であることを考えると、薩摩藩は国学者を厚遇している印象があるが、おそらくその中心にいたのは、家老だった岩下方平(みちひら)だ。

岩下方平については本書では詳しい記載がないが、西郷や大久保らのグループ「誠忠組」において、彼は最も家格が高く名目上のリーダーだった。岩下は平田国学(気吹舎)に入門して国学を学んでおり、平田派国学者と薩摩藩を結ぶ働きをしたようだ。なお岩下は維新後には政府の宗教行政に携わることになる。この他、本書には全く言及がないが、薩摩藩出身で近衛家に仕えた葛城彦一も平田篤胤に弟子入りしており、平田派国学者と近衛家、薩摩藩を結ぶ役割をした。

このように、幕末において薩摩藩は平田派の国学者とは親密な関係があったと考えられる。しかし薩摩藩自身は表舞台には出てきていない。せいぜい後醍院真柱など一部の薩摩藩出身の平田派国学者が活躍する程度である。よってその動きは明瞭には分からず、裏で蠢いている感じがする。薩摩藩が国学勢力のパワーバランスにどのように影響していたのかというのが、非常に興味深いところである。

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