日本人にとって、旅に出ることは見知らぬものを発見することではなく、歌枕をめぐることで古の旅人たちを追体験することであった。しかし江戸時代になると、旅人たちは新しい「現実」を発見することになる。旅は見聞を広め、自らを相対化し、あるいは「日本」を意識する機会になったのである。
そういう旅人たちが登場したのは、17世紀の終わりあたりからで、吉宗の時代のことである。そのころの一部の紀行文は、純粋な文芸作品であるというより「朱子学、本草学、地理、国学、漢学、文人画などを基礎にした博物学によって構築された文学(p.9)」である。
そういう紀行文では、各地の歌枕で立派な歌を詠むことより散文による事実の記録へと軸足が移っていた。まさにその態度の変化こそが「現実」を発見させることになったのである。本書は、そうした旅の記録について述べるものである。
「第1章 貝原益軒の情報欲」では、貝原益軒の『南遊紀事』を取り上げる。
本草学者で朱子学者であった貝原益軒は、たびたび採草の旅に出かけた。益軒は福岡を本拠に、江戸に12回、京都へ24回、長崎へ5回をはじめとして諸国を遍歴している。よって多くの紀行文を残しているが、中でも『南遊紀事』は彼の主観的な見方が述べられている点で例外であり、そのために「日本の近代紀行はこの作品から出発している(p.24)」とさえいえる。彼は基本的には私見や私情を交えず客観的に見聞を記録したが、「予(われ、おのれ)」はこう思うと付け加えた。一方、珍しい話や伝承なども鵜呑みにせず、史料と比較検討して事実を探り当てようとしている。彼は事実に立脚して自らの考えで見聞を編集したのである。
「第2章 本居宣長の考古学」では、本居宣長の『菅笠(すががさの)日記』を取り上げる。
本居宣長は1772年に大和盆地の陵墓を調査する旅に出た。宣長が現地の人々の話を訝しがりながら調査しているのが面白い。実際、現地の人は宣長へ明らかに間違った情報を教えていた。宣長には、自分が文献を通じて知っていることと、現地人の間違った情報を対照させつつ、「人のいうことなどあてにならない」とわざわざ確認しているような雰囲気さえある。そんな宣長が全幅の信頼を置いたのは文献史料であった。この旅で実地調査しても陵墓の位置についての確信は得られなかったのであるが、簡単に分かったつもりにならなかったことは、実証的な宣長の方法論の証左でもある。
なお、宣長は、のちに『古事記』などの古典を絶対視する方向へ向かっていくのであるが、この紀行文で意外なのは、彼が常に懐疑的であることだ。宣長が古典への妄信に向かったのは、現実の頼りなさ、現実への懐疑が根幹にあったのではないかと感じた。
「第3章 天明の大飢饉をめぐって―高山彦九郎と菅江真澄」では、天明の飢饉を描いた二人の紀行を取り上げる。
1783年~84年、東北地方は激しい飢饉に見舞われた。それを描写したものの一つが、広く旅して多くの紀行文を残した高山彦九郎の『北行日記』である。なお彼は道行の途中に、各地で「孝行」話を採録し、実際に孝行者を何人か訪ねている。彼は「孝行」の思想を追及していた。東北へゆくと、彼は悲惨な現実を目にした。多くの人が死に、300軒あった家が100軒になるなど、被害は彼の想像を超えていた。墓地には卒塔婆が立ち並び、人や家が減っただけでなく「生きるために必要な知識や技術がすべて消え失せてしま(p.56)」っていた。例えば、漁業を生業とする村で、魚を捕る方法がわからなくなってしまった、というようなものである。そして人肉食さえも行われていたような形跡がある。そういう「おぞましい話を、彦九郎は努めて冷静に記述している(p.60)」。
一方、菅江真澄は飢饉の翌年に東北を旅した。真澄は打ち捨てられたままの死人の骨を横目に見ながら進んだ。そして彼は、飢饉を生き延びた人々の話を聞きそれを記録した。彦九郎のそれも同様だが「実際に体験したり目撃したりした人から話を聞き、詳しく描いている(p.66)」というのは、現代から見れば当たり前だが、当時としては極めて新しい傾向であった。彼らの紀行は記録文学になっているのである。そしてそうした見聞を元にして「この二人の紀行作家は、国家全体を強く意識するように(p.67)」なった。この国は根本的に何かおかしいのではないか? 貧困と悪政を実見したことが、彦九郎を尊皇派に駆り立てたように思われるのである。
「第4章 古川古松軒の批判的精神」では、『西遊雑記』と『東遊雑記』を取り上げる。
古川古松軒は、『西遊雑記』で備中から九州を一巡する旅を記録した。そこでは、秀吉の朝鮮出兵を批判したり、薩摩や長崎について詳しく述べているが、そこで当時の日本の法律を批判してもいた。これがいい意味で幕府に注目され(!)、古松軒は幕府の奥羽巡見使に随行するように命じられた。当時は老中松平定信の時代。「公儀を謗るなどけしからん」とならなかったのは面白い。
そして奥羽巡見を記録したのが『東遊雑記』である。『西遊雑記』が私的な紀行であるのに対し、『東遊雑記』は公的な性格を持つが、それでも「古松軒が批判的態度をとるためには、どうしても「公」ではなく「私」の立場で書かざるを得なかった(p.73)」。ちなみに「巡見使」とは、将軍の代替わりの際に各地に派遣され、地方政治の監察を行うものであり、接待などは表向きは禁止されていたが、大集団で移動する大掛かりなものであった。
古松軒は、「殺生石」の伝説など、各地で不思議な話を耳にしたが、彼は非合理的な話や神秘的な話にはいつも批判的で、「ばかばかしい話だ」「くだらない伝説だ」などと切って捨てている。だが、「こういう話を聞いた」としてそれをわざわざ記録しているところに彼の記録者としての面目が躍如してもいる。つまり彼は、合理的批判的精神とともに「なんでも見てやろう」「なんでも記録してやろう」の精神も持っていた。
東北では、言葉が通じないことに驚いたり、地方で貧苦にあえぐ農民の姿を見たり、あるいは現地人が礼節をわきまえないことを嘆かわしく思ったりしている。彼は「未開」な地を訪れた大航海時代のヨーロッパ人のように、現地人を「野蛮」とみなすエスノセントリズム(自民族中心主義)的な部分を持っていたが、その批判的精神は為政者側にも向けられていた。「彼はその地の問題点が領主の悪政によるものと気づくと、誰憚ることない筆致で日記に記している(p.85)」。また、その旅で巡見使の一行が遭遇した滑稽なエピソード(案内人が全く頼りにならない、狂言に出てくるような男であったなど)もそのまま書いているのも、かえって貴重な記録である。巡検使は、こういう率直な書きぶりを期待して、役人でもない彼を同行させたのだろう。
蝦夷に入ると、古松軒は松前や江差などの町の豊かさに驚かされた(当然、これはアイヌとの交易でもたらされた富だった)。古松軒の目はアイヌの人々に注がれ、そして好意的にアイヌの風俗や言葉を記録している。ここではエスノセントリズムはほとんどなく、「日本人の考え方のほうにむしろ批判的で、アイヌを見下すような態度がいっさい見えない(p.101)」。彼の書き方は、アイヌを観察することで日本を相対化したようなところがある。
ちなみに『東遊雑記』では、幕政を批判した林子平の『三国通覧図説』を激しく批判しているが、それは同書が全くいいかげんな情報に基づいていたからであった。例えば「蝦夷、黄金の地」説とか、デタラメな地図とかである。そこではアイヌの風貌なども偏見によって記されていた。古松軒による林子平への批判の力点は、彼が重要であると思っていたことを示している。古松軒は「現実」をありのままに記すことで、「近代的といってよい批判精神」を育んだのである。
「第5章 日本民俗学の父と言われる男、菅江真澄」では、菅江真澄のアイヌ記録を取り上げる。これは単一の紀行ではなく彼の記録全体を対象にしている。
菅江真澄は賀茂真淵の弟子で、尾張藩の薬草園に勤め幅広い博物学的知識があった。さらに彼は画家でもあり、多様なスケッチを遺している。彼は東北や蝦夷の自然や風物を調べる旅に出て、なんと18年間も旅は続いた。その主目的は国内の式内社(延喜式神名帳に掲載された神社)を全て回ることだったという。
真澄は蝦夷滞在中、なるべくたくさんのアイヌ語を身につけようとし、また漁のやり方、家の設えや道具、日常生活を事細かに描写した。そこでは、アイヌの言葉で記録することが明確に意図されており、これは「文化人類学の専門教育など受けたわけもない人のそれとしては驚くべきこと(p.122)」である。
「第6章 新しいビジョンを提示した、橘南橘と司馬江漢」では、西洋思想を通して物事を見た旅人二人を取り上げる。
医者の橘南橘は、医学修業のため諸国を遍歴し、そこで出会った面白い話を記録した。彼の紀行は日記というより奇談集である。特に本章で取り上げられているのはエレキテルや顕微鏡・望遠鏡といった「奇器」の項目である。彼の文章は、奇器を通じて自らの世界観を修正していった当時の人の内面を窺うものである。
一方、画家の司馬江漢は、同時に革命的思想家でもあった。彼は中国画を絶対視する風潮を批判している。物事を客観的に観察するという営みの中で、彼は新たな「現実」に目を開かれていくのである。そして洋画研究を目的とした旅の中で、天文学や地理学の最新知識を身につけようとした。その旅の途中で、彼の地球に関する講釈を聞いていた婦人が「では極楽はどこにあるのか」と聞く場面は面白い。彼が極楽を天(宇宙)にあるとしたところは、新旧の世界観の折衷案の実例として価値がある。
本書の他の旅人は中国思想(本草・博物学)を通して新しいものの見方を身につけたが、橘南橘と司馬江漢の場合は、それを西洋から見出したところに特徴がある。
「第7章 参勤交代という名の博覧紀行—松浦静山」では、松浦静山の『甲子夜話』を取り上げる。
松浦静山は平戸藩主で、「好奇心旺盛という言葉では形容できないほどユニークな大名(p.152)」である。彼の全278巻からなる超大作『甲子夜話』は、多岐に亘る話が収められているが、本章では特に1800年の参勤交代の旅日記である『寛政紀行』が取り上げられている。
彼は一種の「記録魔」で、文人風の流麗な紀行文を書くことよりも、ともかく情報量の多い文章を書こうとしたように見える。ちょっとした事を記録する時も、そこにいた子供たちの名前と年齢を全員きちんと書いている。これは大名が書く記録としては度外れたものだ。だから彼の記録は、民俗学的な記録としても貴重なものに思われる。彼は「何事も批判的に見たりはしていないが、何事にも洩れなく関心を示している(p.163)」。そして大名の内面的生活を窺うことが出来るという意味でも、『甲子夜話』は貴重な存在である。
「第8章 富本繁太夫—19世紀初頭に生きた旅芸人の日々」では、旅芸人が遺した超時代的記録を取り上げる。
生没年未詳の旅芸人富本繁太夫が書いた『筆満可勢(ふでまかせ)』はあまり知られていないが興味深い作品である。彼は身分の低い旅芸人であったにもかかわらず、流麗な文章を書くことができた。彼も記録魔で、「どんな客の前でどんな浄瑠璃を語ったか、そのときの客の名前とその身分、あるいは語ったのがどういう店のどういう座敷だったかなども克明に記録している(p.167)」。しかも、自分が金に困って泥棒に入った(しかも2回も)ことも書いている。
彼は借金に追われて江戸にいられなくなり、仕方なく旅芸人になった。ところが盛岡では彼の舞台は大人気になり、この分だと生活できそうだと期待する。繁太夫はそんな中で出会った、痴情のもつれのエピソードや、変わった人や変わったもの、下世話な話を書き留めた。それは、身分の低い人たちの人間味溢れるゴタゴタ話であり、「徹底して人間臭い日記(p.175)」である。その記録の態度は「文化人以上に文化人らしい(同)」。どうしてこんな記録が旅芸人に書けたのか、著者は「わからないと言うほかない(同)」と言っている。
また彼は方言についても強い関心があったのか、わざわざ方言リストを作っていたりする。学者でもない繁太夫がなぜそんなことをしたのか、これもよくわからない。「あらゆる時代に何らかの形で必ずつきまとったイデオロギーをまったく感じさせない率直な個人生活の記録であるこの日記は、近代的な無形文化財といってもいいのではなかろうか(p.184)」。
「第9章 新しい美的ビジョン—渡辺崋山」では、渡辺崋山の短い旅の記録『游相日記』を取り上げる。
田原藩(三河国)の貧困な武士に生まれた渡辺崋山は、家禄の低さを補うべく画業を志し、ついで政治運動に身を投じた。家老職を次いだ崋山は「尚歯会」の一員となったがこれが幕府によって弾圧され自害した(蛮社の獄)。本書で取り上げられるのは、彼の江戸紀行である『游相日記』である。
その旅の目的は田原藩の政治状況と密接に関連しているので詳述は避けるが、前藩主の妾であるお銀を江戸から相模に訪ねるものであった。崋山は、お銀に幼い頃から可愛がられた恩があったのである。この紀行では、どこに住んでいるのかもわからない人間を僅かな手がかりのみで訪ねることに興味を覚える。崋山はいろんな人に道や事情を聞いて目的の村まで辿り着く。そして目的の女性を探し出すのである。女性は風貌も名前も変わっており、過去を捨てていた。しかし彼女は崋山を思い出し、二人は劇的な再会を果たすのである。この紀行はたった5日間の短いものであり、新しい現実の発見などもなかったのだが、実際にあったことを逐一記録し、その目的が文学的なものではなく、事実の率直な記録であるという点で、本書の他の旅人の記録と一脈通じるものがある。
「第10章 松浦武四郎の蝦夷探検」では、松浦武四郎の『三航蝦夷日誌』を取り上げる。
豪農の四男に産まれた松浦武四郎は、16歳にして「江戸、京都、大坂、長崎、そして中国からインドまで旅する」と親元に書状を送った、広い世界に呼ばれた人である。実際には武四郎はインドには行かなかったが、蝦夷地を熱心に探検した。彼は生涯で5回も蝦夷地にわたっている。そのうち3回は自費による渡航で、その記録が『三航蝦夷日誌』(全35巻)である。
彼もアイヌの言葉や習慣、風物をたくさん記録しているが、同時に下痢に苦しめられたことやアイヌ式便所の煩わしさを書き留めている。そういうことを記録するのは「極めて現代的な感覚の持ち主だと言える(p.207)」。彼は蝦夷地政策が重要になった幕末、蝦夷地の専門家として幕府に取り立てられ、維新後も北海道の開拓に携わることになった。しかし彼は明治政府の北海道政策、特にアイヌ文化の崩壊や北海道の植民地化に賛同できなかったようで、その職を辞任した。
「終章 江戸時代の旅と啓蒙思想」では、これまで取り上げた旅人の記録を通底する新しい思想について述べる。
本書に登場する旅人たちに共通するのは、現実への強い関心があったということである。しかもその物事の見方はどことなく個人主義的であった。彼らの全部が「私はこう思う」と独自の見解を声高に叫んだわけではないが、「博物学的興味、異文化への偏見なき観察力、批判精神などは個人意識の薄い人には生まれ得ない(p.218)」。つまり、新しいタイプの紀行が現れた背景には、個人主義の発達があったと著者は見る。
そして彼らは、みな近代的な目で「日本を再発見した」。そこにあったのは狭隘なナショナリズムとは違う、啓蒙主義的な国家観であった。そしてそれは、旅をすることで育まれたという面がある。ヨーロッパでも大航海時代に同時並行的に科学の進歩が起こったが、同じようなことが江戸時代の日本でも起こったのである。しかし明治時代になると、そういう啓蒙主義的な思想は衰退してしまった。日本は明治維新によって近代化したと思われているが、むしろ近代思想の盛り上がりは江戸時代にあり、明治時代になるとそれが退いてしまう。「江戸時代の思想のほうが、ヨーロッパ啓蒙主義の諸条件に類似している点が多い(p.228)」のである。
本書は全体として、あまり前提知識を必要とせず、平易に述べられており大変読みやすい。ただし、個人的には年号が書かれていないことはやや不便に感じた。近世史に親しんでいる人にとっては、年号があった方が分かりやすい。
ところで、旅が現実を発見させる契機となり、また新しいタイプの紀行文が登場したことが江戸時代流の啓蒙思想を示唆するものであるのは確かだとしても、その他大勢の旅人たちがどう世の中を見ていたのか、ということが気になった。
江戸時代は、厖大に旅人が存在した時代であった。参勤交代のために武士は定期的に江戸との往復を行ったし、また伊勢参りなど宗教的な目的を名目とした旅は貴賤にかかわらず盛んだった。では、そうした厖大な旅人たちは新たな現実を発見したのだろうか? そういう面もなかったとはいえない。何しろ、江戸時代ではどこかへ旅に出たという見聞は大事なものとみなされていたのである。しかし、全体としてそれが啓蒙思想に繋がったかというと、そこまでは言えないであろう。
厖大な旅人たちの中の、ごく一部の異能なものが遺した記録が本書に取り上げられるようなものであり、そこに現れる近代的知性の輝きは象徴的な意味を帯びてはいても、時代の思潮を表すものとはいえない。本書は時代の思潮を旅日記を通じて分析するものではないから、こういう見方はひねくれているのだろう。本書は旅日記という限定をすることで、江戸時代の新しいものの見方の登場を描くものだからである。
しかしながら、旅日記という限定の中でより重要なのは、板坂耀子が指摘する「歴史の発見」の方ではなかろうか。啓蒙思想による「新しい現実の発見」は、一部の異能にとってしか可能ではなく、結局、人々に共有されたのは「歴史」の方だったのではないか。本書でも暗示されているように、その旅日記の数々は、異能が到達しつつあった啓蒙思想が十分に育たないまま摘み取られてしまったという、悲劇の証拠として見るべきなのかもしれない。
江戸時代の近代思想を旅日記から紐解く平易な本。
【関連書籍の読書メモ】
『江戸の旅』今野 信雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_24.html
江戸時代の旅がどんな風であったかを述べる本。江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。
『江戸を歩く—近世紀行文の世界』板坂 耀子 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_29.html
近世の紀行文についてのエッセイ的な本。近世紀行文学を著者のエッセイも交えて紹介する、不思議な雰囲気の本。
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