2025年7月15日火曜日

[論文]「古代中世の葬送と女性——参列参会を中心として」島津 毅 著

古代中世において、女性がどう葬送に参画したかを分析する論文。

平安時代には、母は子の葬送に参列すらしなかったという。例えば美福門院藤原得子の葬列には娘の暲子内親王、姝子内親王は参加していない。暲子内親王は両親から莫大な財産を相続していたにもかかわらず、母の葬送に参列していない。なぜ女性は葬送に参列しなかったのか。

これを検討するため、著者は8世紀から16世紀の葬送事例90(+α)を詳細に分析し、そこに女性がどのように関与したかを調査した。これは記録が詳細に残っているものが対象であるため、王家が半分、続いて公家、13世紀以降は武家も数例ある、といったバランスで、身分の高いものに偏っていることは一応注意が必要だろう。

「第1章 13世紀頃までの葬送と女性」では、女性が葬送に参加していない事情を分析している。

先ほどの90例では、葬送における女性は「8世紀には参列や参会を確認出来たが、9世紀から13世紀半ばまではまったく確認できず、13世紀以降、中下級貴族を皮切りに、14世紀からは王家や室町将軍家にも確認出来る」。

8世紀には女性も葬送に参画していたが、これは当時の女性が夫とは別な「家」の「家主」すなわち「家刀自」であったからと考えられる。家産を所有する妻女が独自に葬送を執り行っていたのである。

ところが、9世紀半ばの嵯峨上皇の葬送の頃からこれが変化し、内親王等の娘の姿が確認出来なくなる。そして皇后や母后の姿も見ることができず、葬送の場から女性が排除されていったと考えられる。「王家の葬送では女性親族が参列せず、荼毘所(火葬場)にいなかったことは確かなようである」。

このように、9世紀半ば以降、王家・摂関家では、妻はもとより母や娘も葬送には参列しておらず、それを「見送るだけ」であった。ただし、中宮などの女性の死の場合、やはり肉親は参列していないものの、女官や女房は参列していることは注意が必要である。

では、なぜ女性は葬送の場から排除されたのか。

まず死穢との関わりだが、荼毘所での同席は死穢にならなかったことが『延喜式』で明瞭である。つまり死穢自体は問題ではない。むしろ葬送を凶事として憚られるようになったことの方が大きいのではないかと著者は考える。「その憚りとは、死体が人を他界へ引きずり込むと信じられていた、穢とは異質な禍々しさに由来するものであった」。これは、著者が『日本古代中世の葬送と社会』で力説した点である。なお、当時の庶民の間では遺棄葬が行われており、葬所には死体が散乱していたと考えられる。こういう場が禍々しいのは当然である。よって遺体そのものというより「葬所へ向かうことが忌避された」面があったと考えられる。

この考えを裏付けるのが、年少者と妊婦が特に参列や参会を制限されていたと記録から読み取れることである。年少者と妊婦は特に死亡率が高かった。よってそういう人を他界へ引きずり込まれかねない葬所がより避けられたと考えられる。

では妊婦以外はどうか。『栄花物語』の書きぶりを見てみると、万寿2年(1025)の藤原嬉子の葬送に母倫子は参列してはいないが、葬送の前に「母倫子は嬉子の遺体の入棺の様子を御帳のなかで泣きながら見、また直接遺体にも触れていた。つまり女性親族にとっても、故人の遺体は愛惜の対象であり、それを穢や禍々しきものとして忌避してはいなかった」ことがわかる。女性も「亡き親族の遺体そのものを忌避することはなかった。よって、一般の女性親族にとり、葬所の凶事性ゆえに葬所へ赴くことが制限されることまではなかったはず」と著者はいい、にもかかわらず現実に葬送から女性が排除されているのはどうしてかと再び問う。

なお、この部分は、若干論理の混乱があるように思われる。というのは、ここでは、「凶事・禍々しい」と認識されていたものが、葬送なのか、葬所なのか、葬所にある腐乱死体なのか、親族の遺体なのか、ということが峻別されずに記述されている。

具体的には、前段(死穢との関わり云々の後)では、葬所・葬送が「凶事・禍々しい」から年少者・妊婦は避けた、と言っているのに、後段では、親族の遺体は「凶事・禍々しい」とされていなかったから凶事性ゆえに葬所・葬送が避けられたとは思えない、という。だが親族の遺体は禍々しくはなかったとしても、葬所・葬送が「凶事・禍々しい」というのは変わらない。そして年少者や妊婦にとっても親族の遺体は愛惜の対象だったと思う。

ともかく、死穢も凶事性も理由にならないとすれば葬送から女性が排除されたのはどうしてか。9世紀後半以降は、「女性は公的な社会から疎外され、私的世界で生きる存在となっていった」ことが要因ではないかと著者はいう。「喪葬令」的葬送は貴族・官人たちの序列を視覚的に示すものだったし、仏教的葬送になっても社会的身分の誇示という葬列の社会的機能は変わらなかった(むしろ強化された)。一方、女性は中世的な「家」が形成されていくに従い、「家」に従属する存在となって、公的立場を喪失した。このように葬送が公的行事として確立し、逆に女性が公的行事から排除されたことが女性が葬送に参画できなくなった理由だという。

その証拠に、女性が葬送から排除された後も、女官や女房は参列している。彼女らの参列は公務だったからである。

また皇后の場合は、葬送に参加するにはあまりに身分が高貴すぎ、また天皇とは別個の家政機関としての家を持っていたため、天皇家の「家」を取り仕切ることはできなかったために天皇の葬送に参加できなかったと考えられる(つまり「家」の一員ではなかったから葬送に参加できなかった)。

「第2章 13世紀後半以降の葬送」では、女性が葬送に参加するようになった事情が述べられる。 

14世紀には、室町将軍家・親王等の王家・公家では「母や妻妾そして娘も葬礼や荼毘・埋葬の行われた寺院へ参会」するようになった。こうした変化の先駆けとなったのが文永11年(1274)の藤原経光の葬送である。

ではなぜ女性は葬送に参画するようになったのか。第1に葬所が変化した。寺院が独自に荼毘所や墓地を所有するようになると、鳥辺野のような無秩序な墓地とは違って凶事性がないばかりか「葬送荼毘の場はむしろ往生をもたらしてくれる「結縁の場」に変容」した。葬送は不吉なものではなくなったのである。第2に葬列がなくなった。葬所が寺院内にあるため、入棺・荼毘・拾骨までが寺院内で完結するようになった。この2つの変化によって葬送の在り方が大きく変化し、女性の葬送への制限が取り払われたというのが著者の考えである。

さらには、12世紀以降の「家」の成立によって、妻は家長権に従属しつつも「家」の重要行事を取り仕切る家妻権を保持するようになった、ということもその背景にある。特に葬送は相続慣行の一つとなり、後家にとっては葬送に参画することは重要であった。

では、天皇や上皇の葬送では后や皇女はどう葬送に臨んでいたのか。まず、天皇・上皇の葬所(荼毘所)も泉涌寺などの寺院境内へ移行していた。ただ、王家の場合は古代中世を通じて葬送を伴う葬送が行われている。これは言うまでもなく公的行事としての葬送である。

ここで留意すべきなのは、14世紀以降、后・皇女の位置づけが平安時代とは大きく変わったということである。後醍醐天皇以降、後水尾天皇に徳川和子が皇后して立てられるまで、天皇には皇后が立てられることがなかった。つまり当時の天皇の妻は全て妾である。また皇女も、後小松天皇以降、正親町天皇まで皇女に内親王が宣下されることがなく、多くが比丘尼御所(尼寺)へ入れられた。すなわち14世紀以降、近世に至るまで、天皇家には正式な身分を持った女性が存在しなかったことになる。しかし彼女たちは、葬送に参加していた。「ただし、これらは天皇・上皇の妻妾が女房であったこと、また娘も尼であったことなど、それぞれ参会が職務であったと言うことができる」。天皇家の場合はちょっと独特な事情であったが、女性が葬送に参加するようになったという結果は同じである。

「むすびにかえて」では、結論を要約し、大陸からの影響について問題提起している。

古代中国では、葬送には女性親族が参列参会していた。また宋代には、朱熹の『家礼』の影響が大きくなるが、やはり夫人は葬列に連なり、墓所で葬礼に臨んでいた。日本の中世では『家礼』を全体的に受容していたかどうかは不明であり、中国からの影響があったかどうかは定かでない。しかし日本の葬送は入宋僧を介して大陸からの影響があったことは明らかであるため、葬礼に女性が参会するようになった背景として検討する必要があるとして擱筆している。

本稿は、著者の『日本古代中世の葬送と社会』 において、葬送における女性の扱いを解明することが今後の課題である、としていたことに対応して執筆されたものである。本稿では、同書で提示された葬送の「凶事性・禍々しさ」などが再度論じられるとともに、同書の視角が女性に適用され、葬送における女性の扱いを実証的に解明したものとして価値が高い。

しかし、なぜ女性が葬送から排除されたか、という理由の考察についてはいまいち腑に落ちない部分があった。

第1に、女性の社会的立場が弱くなったからだと著者はいうが本当か。というのは、摂関・院政期は女性の立場が非常に強く、慈円が「女人入眼の日本国」と書いた『愚管抄』も13世紀前半である。この時期には天皇家では女院号が濫発され、また八条院を初めとして厖大な荘園を持っていた女性は多い。むしろ摂関・院政期は女性の権力のピークであるという観さえある。確かに、女性官位が男性と別枠になったり、朝儀や節会など政治の場から疎外されていったということは事実であるが、単純に女性の社会的立場の弱体化とは見なせないのではないだろうか。

第2に、全てを「家」で説明している観が否めない。女性は中世的な「家」が形成されていくに従い、「家」に従属する存在となって、公的立場を喪失して葬送から排除されたが、家妻権の確立によって葬送へ参加するようになった…というのは納得できるのだが、排除と参加の理屈の双方が「家」の事情であるというのは、少し奇異な感じがする。葬送が「家」と強く結びついていたのは確かだが、むしろ「家」を中心に見る限り女性が排除される理由がわからない。女性が公的行事から排除されたとしても、「家」は私的な存在だからである。

第1の点も第2の点も、私はまだ「葬送とはつまるところ何なのか?」が未だ分かっていないから、そこから女性が排除される理由がピンとこないということなのかもしれない。例えば、古代中世の葬儀に友人は参加したか? 王家や貴族では「友人」のような素朴な存在はいないと思うが、武士の場合ではどうだったのか。こういう単純なことがまだわからないのである。

ところで、本稿では先述したとおり「凶事性・禍々しさ」が適用される範囲が曖昧であるが、それはともかく、「故人の遺体は愛惜の対象であり、それを穢や禍々しきものとして忌避してはいなかった」と指摘したことは重要に思う。著者は前著『日本古代中世の葬送と社会』において死体や葬送の「凶事性・禍々しさ」を指摘したが、私はこれを興味深く思いながらも腑に落ちない部分があった。親類の死体が禍々しいというのはちょっと不思議だからだ。

本稿の主題からは逸れるが、その点について自分なりに考えてみたところ、葬送・葬所は「不吉(凶)」であり、腐乱死体などは「恐ろしい」と認識されていたが、親類の遺体は「愛惜の対象」であった、と考えるのが、あまり現代と変わらず面白味はないが実態に即したものでないかと思う。平安時代後期以降は、陰陽師が大きな影響力を持ち、吉凶が必要以上にクローズアップされたのであるが、葬送を陰陽師がどう捉え、人々に何を指導したのか気になった。 

古代中世における女性と葬送の関わりを実証的にまとめた論文。

※史学雑誌 第129編第1号 2020 

【関連書籍の読書メモ】
『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/07/blog-post.html
日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。 

『女たちの平安後期――紫式部から源平までの200年』榎村 寛之 著 
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女性の存在に注目して平安時代後期を語る本。女院を通じて平安後期を別角度から見る興味深い本。 

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