女性の存在に注目して平安時代後期を語る本。
本書は、藤原道長が政権を握ってから源平の合戦までを中心として、女性の動向に注意して歴史を述べるものである。この頃は武士が抬頭して武家政権へと向かっていく時代であるが、女性が大きな権力を持っていた時代でもある。それは慈円が『愚管抄』で「女人入眼(じゅげん)の日本国(女性が大事なことを決める国)」と書いた通りだ。
ところで、この時代の人間関係は非常に複雑である。それは、第1に天皇には妻が複数いたこと、第2に養子や猶子(名義上の子供)、准母(名義上の母親)など血のつながりのない家族(現代の概念とは異なる家族)が多く見られたこと、第3に婚姻・血縁関係が重層的であること(だれそれが誰の妹で、彼女が誰の叔母で…といったような)、が主な理由である。
そんなわけで、本書を理解するのは骨が折れた。随所に懇切な系図が挿入されているのだがそれでも難しい。正直にいって、当時の人間関係を頭に入れるまでには至っていない。しかもこの時代は歴史の動きと人間関係が密接にかかわっている。そもそも摂関政治とは天皇のミウチによる政治だからだ。そして女性は、その人間関係・血縁関係の重要な紐帯であった。であるからこそ、この時代に女性の権威が高まったのだ。よって、人間関係が頭に入っていないと女性の立場は理解できないのだ。よって、私の理解は一知半解と言わざるを得ない。以下、私が気になったことを中心にメモする。
なお、当時の女性の権力者には「女院(にょいん)」という立場が多い。これは上皇(院)に擬えたもので、天皇から贈られる尊号のようである。本書の主人公の女性たちはみな「女院」だ。ちなみに女院の第一号は東三条院詮子(あきこ)、藤原道長の姉で一条天皇の母である。
本書の始めの主人公は、上東門院彰子(あきこ)である。彼女は藤原道長の娘で、一条天皇の中宮である。ちなみに一条天皇の皇后は定子(さだこ:道長の兄の子、彰子にとっての従姉妹)であるが、そのほか一条天皇には3人の妻がいる。彰子は道長の後援の下で一条天皇の皇子を生むことができ、さらにその子が後一条天皇として即位したことで権威を確立した。天皇の母となって後は道長も彼女に気を遣ってはいたが、それでも道長の「手駒(p.36)」「ロボット(p.40)」にすぎなかった。しかしその後彼女の権力は次第に実体化し、宮廷で影響力を行使するようになった。
道長は娘を後宮に次々送り込んだが、男性皇族の数が少なく、また短命でもあったので、道長が「この世をば~」の歌を詠んだ時点では天皇家はたった5人しかいなかった。すなわち、後一条天皇、敦良親王(あつなが、後一条の子→後朱雀天皇)、姸子(きよこ、三条天皇(故人)の中宮、彰子の妹)、威子(たけこ、後一条天皇の中宮、彰子の妹)、それから彰子の5人である。この中での彰子の立場は、天皇の母でありキサキたちの姉であり、東宮の祖母ということになり、天皇家の家長なのだ。彰子は道長より格上であり、道長を太政大臣に任命したのは彰子であった。
彼女は万寿3年(1026)に出家し(=法名「清浄覚」)、藤原氏の中宮経験者としては初めて「上東門院」という女院となった(女院としては東三条院に続いて二番目)。「ものすごい身分の女性(p.43)」である。道長が没すると彼女は天皇家と摂関家の双方に君臨した。しかも彼女は当時としてはとびぬけて長命で、87歳まで生きた。
そして彼女のサロンには「なかなかとんでもない身分の女房がいた(p.44)」。世が世なら女御や中宮になるような高級貴族の娘が出仕していたのだ。彰子や源倫子(道長の正妻)のサロンは、政治的に微妙な(後援者を失った)女性や、政治的な才覚に乏しい女性を入れることで保護していた可能性がある。それはサロンの価値を高めることでもあった。
次の主人公は、陽明門院禎子(さだこ)内親王である。彰子の妹・姸子(きよこ)と三条天皇との間に生まれたのが彼女である(残念ながら姸子は男子を産まなかった)。道長は、最初禎子が男子でないことに失望したが、考えを改めて彼女を後援し、異例の速さで彼女を昇進させた。彼女は若くして一品(いっぽん、皇族の最高位)になっている。
そして彼女は、正妻を亡くしていた敦良(あつなが)親王、後の後朱雀天皇と結婚した。これは村上天皇から分かれた冷泉系(三条天皇)・円融系(一条天皇・後朱雀天皇)の血統を再統合・回収するという政策意図があったとされる。二人の結婚は道長がなくなる8か月前の万寿4年(1027)であった。
ちなみに頼通(道長の子)の代では、人間関係図が一変する。それは道長と違い、頼通には女子が一人しかいなかったからだ。禎子と後朱雀は両方道長の孫ではあるが、天皇家内の結婚であって当然藤原氏ではない。道長は、藤原氏の娘を天皇家に入内させることができない以上、せめて藤原氏との血縁を濃くしようと禎子と敦良を結婚させたのだろう。それは「氏」というものがルーズになっていった事情もあるようだ。
なお藤原頼通には「もう一つの面白い顔(p.67)」がある。神鏡に対する信仰は一条天皇時代から高まっていたが、内侍所神楽を完成させたらしいのが頼通なのだ。この時代は天皇家と神祇信仰との関わりも深く、皇族の女子は伊勢斎王、賀茂斎院として派遣された。そして斎王・斎院であることは女性の権威の源泉の一つであった。(本書では斎王・斎院・斎宮の用語があまり区別されずに使われているように見える。)
だが頼通は伊勢斎王にはあまり価値を置いていなかったらしき形跡がある。ここで本書では、伊勢斎王にまつわる政治的動向を記すが詳細は割愛する。その要諦は、どうしても摂関家を天皇家の外戚としたい頼通は、道長の六女と後朱雀天皇の子=後冷泉天皇の系統に皇位を継承させたかったが、禎子はその子(後の後三条天皇)に継承させたい、という両者のライバル争いであった。ただし禎子は皇族の家長で最高の権威はあったが外戚のような後援者がいない。そこで彼女が雌伏の時をすごすのに、近親者を伊勢斎王・賀茂斎院に送るという手法を取ったのではないかというのである。結局、このライバル争いは後冷泉天皇が子供をもうけないうちに死去してしまったことで禎子側の粘り勝ちになり、後三条天皇が即位した。なお禎子は長命で82歳まで生きた。「長生きすることで成功への一番の近道(p.77)」なのだ。本書は禎子について「摂関家を権力の座から追い落した生涯(同)」と言っている。
ここで本書では2つのエピソードが挿入されている。第1に斎王密通事件(第4章)、第2に『新猿楽記』に見る女性たちである(第5章)。第1については武士とはいかなる存在であるかを事件を通じて考察するものであり、第2については『新猿楽記』の主役である一家の個性的な女性たちについて面白おかしく紹介したものだ。彼女らはかなり戯画化された存在であるとはいえ、当時の生き生きとした社会を彷彿させる。紫式部とほぼ同時代、息が詰まる宮廷の外では、女性も男性も躍動していた。
次の主役は、郁芳門院媞子(やすこ)内親王である。彼女は行き当たりばったりの専制君主白河天皇の子で、母親は若くして亡くなった藤原賢子(かたいこ)。白河が死のケガレも気にせず側に寄り添ったという愛妃の子である。彼女の生涯で面白いのは、わずか5歳で伊勢斎王となっていることだ。先述のとおり伊勢斎王には一定の権威があった。斎王は未婚の皇女(内親王)が務めるから、人材不足の時もある。この時は三条系の女子が斎王を務めていたが、白河にとってはこれを自分の系統に取り戻す必要がある。それで派遣されたのが媞子なのである。ちなみに彼女は3歳で「准三宮」に任じられている。これは皇后宮・皇太后宮・太皇太后宮の三宮に准ずる地位である。
この媞子の同母弟がこれまたわずか8歳で堀川天皇として即位すると、その翌年、媞子は准母になった。そもそも天皇の母は、即位儀を一人で行えない幼帝のために必要であったが、堀河天皇は8歳で即位儀を一人で行っており、必ずしも准母は必要なかった。にもかかわらず白河院は媞子を准母にした。続いて、寛治5年(1091)、白河院は彼女を未婚のまま「中宮」にした。これは本来は天皇の正妻(の宮殿)の意だが、この頃には天皇になった親王の母に与えられる称号になっていた。
さらに、その2年後には中宮を「卒業」し、より自由な立場である郁芳門院という女院になった。彼女は天下の権勢この人にありといわれる状態となり、白河院も出歩くときにはほとんど彼女を伴っていた。彼女は嘉保3年(1096)に急死したため、白河院が彼女をどうしたかったのかは不明であるが、未婚女院という前例となったことと、白河院が彼女の菩提を弔うために彼女の居宅「六条殿」を「六条御堂」という寺に改装したことは重要である。
彼女の権威の源泉は、もちろん白河院の後援にもあったのだが、やはり元斎王ということにあったようだ。彼女の妹令子(のりこ)も賀茂斎院になっているが、未婚で鳥羽天皇の准母となって、鳥羽天皇の即位後は皇后となった。最高位の輿に乗れるのは天皇・皇后・斎王に限られていたというのも、斎王の地位を考える上で象徴的な事実である。
藤原璋子(たまこ)こと待賢門院も重要だ。彼女は閑院流藤原氏の出身で、鳥羽天皇の中宮、崇徳・後白河天皇の母である。閑院流藤原氏とは、藤原氏の家系の一つであるが、この時代、藤原氏は「五摂家」と呼ばれる家系が分立し、「氏」とはちがう「家」という系統が確立していった。「家」とは男系子孫が家職を継承していく仕組みである。閑院流は藤原道長の叔父公季の子孫であり、ここから徳大寺・西園寺・三条などの「家」が生まれた系統であるが、摂関家ではない。彼女が崇徳・後白河を生んだことで、結果的に皇統から摂関家が排除され、名実ともに外戚としての摂関家は終了した。こうして院と摂関は相互依存しながら別の権門として機能する体制になる。
璋子は崇徳院の即位にともなって天皇の母ということで女院号を受け、待賢門院となった。彼女には大量の荘園が寄進され、大荘園領主となった(白河から譲られたのではない!)。
一方、鳥羽天皇(上皇)には傍流藤原氏の出身の藤原得子(なりこ)という愛人がいた(女御でもなかった!)。彼女が愛人の立場で生んだ子が近衛天皇として即位すると、彼女はきわめて異例なことに皇后となった(先述の中宮と同じく地位を示す称号であり、天皇の后となったわけではない)。さらに彼女は女院となってステップアップする。美福門院である。そして鳥羽院と美福門院の菩提を弔うため、生前に安楽寿院(寺院)が建立されているが、ここには大量の荘園が集積された(→安楽寿院領)。美福門院はこの大荘園領主となったのである。なお、鳥羽院の遺体は安楽寿院の三重塔に葬られたが、美福門院はそれを拒否して高野山に納骨させた。なぜなのか興味深い。
ところで、なぜ女院領荘園には大量の荘園が集積されたのか。それは、先述した女院のサロンに関係がある。女院の下には数多くの女房が出仕していたが、その女房の夫にとっては、権力者とのつながりがこのサロンということになる。女院や院の御願寺を建立するとなれば、出仕している女房を通じて荘園を寄進するのが権力者に取り入る手っ取り早い手段だったのである。それに形式的にでも寺院領とすることは、相続に伴う分割などを気にしなくてもよいという事情もあった。よって女院や院の御願寺には荘園が集積したのである。
しかしながら、「一見すると女性が社会を動かしているように見えるが、ことはそう単純ではない。女性の栄華は待賢門院でも美福門院でも祇園女御(※白河院の晩年の愛人)でも一代限り(p.166)」であった。いくら女性に権威があったからといってもその根源には院からの寵愛があり、独自の「権門」ではあったがそれを自らの意思でその血統に継承させていくことはできなかった。藤原氏、大寺院といった他の「権門」が法人のようなものであったのと比べ、女院の「権門」は個人事業主のようなものだったのだ。
ちなみに院の寵愛を受けたものが女性とは限らず、白河院の男色の愛人だった藤原成親は栄達を遂げている(鹿ケ谷の陰謀事件で失脚)。
先述の通り、鳥羽天皇と待賢門院との間に生まれたのが後白河であるが、その子供(後の二条天皇)を養子にしたのが意外なことに美福門院であった。二条天皇から見ると、祖父の愛人の養子になったことになる。もともと後白河は皇位を継承する位置になかった自由人で、時の天皇は鳥羽院と美福門院との子近衛であってその系統が期待されていた。ところが近衛が17歳で早世したことで棚ぼた的に後白河にお鉢が回ってきた。なぜなら、当時最も権威があった美福門院としては、血縁はなくとも自分が養子にしている二条に皇統を継がせたく、それならばその父の後白河を天皇にするほかないからである。
よって後白河は東宮になることなく異例の即位を行った。そして二条天皇が16歳で即位すると、美福門院と鳥羽天皇の子で未婚の暲子(あきこ)内親王を准母にした。だが彼女は中宮・皇后としての経験がないのはもちろん、斎宮・斎院としての経験もない。異例の准母だ。そして永暦元年(1160)に美福門院が死ぬと、その地位を暲子が八条院として継承。こうして天皇としての基礎教育を受けていない後白河と、社会に出たことがない経験不足の八条院(しかもすでに出家していた)、そして若年の二条天皇という、「政治力、経験値とも乏しい三者が並び立つ、きわめてバランスの悪い事態(p.188)」となった。この中で各勢力の調整役として奔走しすべての勢力を掌握したのが、平清盛であった。
平清盛と平時子の子が、建礼門院徳子である。彼女は高倉天皇の中宮である(その際、後白河院の猶子として入内している)。彼女が産んだのが安徳天皇であり、こうして彼女は国母となった。それまでの慣例では、院の妻、天皇の母であることは最高権力を持つことを意味したが、彼女の場合は違った。高倉天皇と清盛が死去すると建礼門院号を下されたものの、「それは、中宮、あるいは国母としての彼女の政治への関わりが排除されたことにすぎない(p.193)」のだ。つまり女院号が最高権力者の称号ではなく、むしろ引退宣言、名誉教授の称号のようなものに変質しているのだ。同時期、斎院・斎宮への意識の変化もあったようだ。1170年代から1180年代半ばまでの平家政権の時代には、斎王がほとんど機能していない。未婚女院を生み出す基盤の一つであった斎王制度もぐらついていた。
話は再び八条院暲子内親王に戻る。いうまでもなく彼女は「超お嬢様」で、鳥羽天皇から溺愛され、4歳の時に安楽寿院領という巨大荘園群を譲られ、10歳で准三宮となっている。面白いのは21歳の時に女院になる前に出家していることだ。(法名「金剛観」)。だからこそ彼女は斎王としての経験も皇后としての経験もなかったのである。なぜ彼女は出家したのだろうか。
また、彼女は巨大な荘園領主であったため、その運営のための機構や人々も相続していた。多くの事務官僚を抱えていたのである。そんな中に八条院大弐局(だいにのつぼね)こと浄覚という尼僧(!)がいた。この尼僧は荘園領主でもあった。「事務官僚」といっても、今のそれとは全然イメージが違うのである。
八条院は巨大な財力を持った潜在的な権力者であったが、権力を発動する機構がない。つまり院や天皇、政治機構(太政大臣など)を動かす立場にないのである。しかし、荘園領主であるがゆえに、荘園に所属する人々を動員することができる。荘園が自立した村の集合体となり、領域的に設定されるものになっていたからだ。その村を治める在地領主たちは、常に頼れる親方を探しており、八条院がその気になればその武力を動員できたと考えられる。一見無謀な以仁王の乱(以仁王は八条院の猶子)もそういった武力を恃んでいたようだ。
しかし、「八条院領には知行国はほとんどなかったらしい(p.211)」。つまり受領の人事権はなかった。「現実には、財力、武力はあるが、人事権を持たない八条院は、不完全な権門であった(同)」。逆に財力・武力・人事権を兼ね備えたのが鎌倉幕府だったのである。
そして、女院権力にはもう一つ不完全な点があった。それは先述の通り継承がままならなかった点である。八条院は血縁のない後鳥羽天皇の皇女娘昇子(のりこ)内親王(春華門院)を後継者にして八条院領を継承させた。どうやら血縁ではなく未婚皇女を指名して継承させていく動きがあったようなのだ。「いうならば、八条院の「権門」は、美福門院から受け継ぎ、春華門院に受け渡された、上東門院や郁芳門院以来、皇后や斎王という特別な立場の女院たちに託された「女性の権力体」の最終形態であった(p.214)」。
だが、この「女性の権力体」の持続が難しいのは、「未婚皇女」という存在を前提とする以上明らかだ。なお現実の歴史では、鎌倉幕府は八条院領を没収し、その荘園はのちに大覚寺統となる南朝の家産として重大な役割を背負うことになった。
鎌倉時代になると、女院は存在してはいたが、かつてのような「権門」ではなくなった。鎌倉時代には公家にも「男系で継承される家」ができ、女性の財産権もかなり制限されていたようだ。よって鎌倉時代には「たとえ女院領であっても、一期分(いちごぶん)、つまり本人限りとなり、継承されなくなる(p.227)」。
ただし鎌倉時代でも女性家長はいた。例えば平政子だ。慈円が「女人入眼の日本国」と書いたのは、政子と藤原兼子(後鳥羽院の乳母)が次期将軍を決めたことについて述べたものだ。そして鳥居禅尼。彼女は源義朝の異母妹と推測され、熊野の一角を担う熊野新宮のトップだった行範の妻となった人である。彼女は行範の死後、熊野勢のトップとなって、その武力は頼朝の合戦に協力した。つまり頼朝の叔母が熊野のトップにいたから源氏は平氏に勝ったことになる。この功績により、鳥居禅尼は紀伊国と但馬国の荘園の地頭に任じられ、女性ながら御家人になっている。しかしその財産はやはり彼女の子孫に継承されなかった。「女性家長はその財産を継承していく独自の家を作れなかったのである(p.231)」。
本書の最後の主人公は広義門院寧子(やすこ)である。彼女は南北朝時代の「正平一統」の政変の時に苦し紛れに担ぎ出された女院であるが、平安時代後期ではないので詳細は割愛する。
本書は最後に斎宮について述べている。賀茂斎院については承久の乱後に廃絶した。伊勢の斎王については鎌倉時代にも続いたが、天皇の未婚の娘という本来の形が保てなくなり、上皇の娘から選ばれることが多くなった。持明院統と大覚寺統の分裂以後は置かれないことが多くなり、南北朝時代には斎王を置くどころではなくなって、600年続いた伊勢斎王もついに廃絶した。
しかしながら、鎌倉幕府や持明院統の天皇も斎王がなくてもいいとは思っていなかったようである。むしろ斎王が廃絶したのは伊勢神宮の変質によるものかもしれない。伊勢神宮に多くの人が参詣するようになり「私幣禁断」の神社でなくなると、天皇家の権威を借りる斎宮など必要がなくなったと考えられるのである。
本書は全体として、この時代の歴史書ではあまり深くは取り上げられない女性から歴史を述べており、非常に参考になった。この時代を語ろうとすればふつうは戦乱がメインになるが、女性たちは戦には直接はかかわっていないため、宮廷から見た歴史のみが語られることになる。それは人間関係と人事の歴史だ。ややこしいが、それは歴史を動かしたのが決して戦乱の勝敗だけではないことを教えている。
ただ、強調しておかなくてはならないのは、本書はあくまで歴史書であって女性論ではないということだ。よって女院とは何か、ということは本書に随所に述べられているがテーマそのものではない。
だが私は女院自体に興味がある。よって、本書の記述を基にしながら自分なりに気になっている点について考えてみたい。まず、本書に登場する女院について表にしてみる(一部登場してない人もあるかもしれない。自分の興味に従って適宜追加した)。
東三条院―藤原氏出身、円融天皇の女御、一条天皇の母(962-1002)
上東門院―藤原氏出身、一条天皇の中宮、後一条天皇・後朱雀天皇の母(988-1074)
陽明門院―皇族、後朱雀天皇の皇后(1013-1094)
郁芳門院―藤原氏出身、伊勢斎宮、堀河天皇准母(1076-1096)
高陽院 ―藤原氏出身、鳥羽上皇の皇后(1095-1156)
待賢門院―藤原氏出身、鳥羽天皇の中宮、崇徳天皇・後白河天皇の母(1101-1145)
美福門院―藤原氏出身、鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の母(1117-1160)
皇嘉門院―藤原氏出身、崇徳天皇の中宮、近衛天皇の准母(1122-1182)
上西門院―皇族、賀茂斎院、後白河院の准母、未婚皇后(1126-1189)
九条院 ―藤原氏出身、近衛天皇の中宮(1131-1176)
八条院 ―皇族、二条天皇の准母(1137-1211)
高松院 ―皇族、二条天皇の中宮(1141-1176)
建春門院―平氏出身、後白河天皇の女御・皇太后、高倉天皇の母(1142-1176)
殷富門院―皇族、斎宮、安徳天皇・後鳥羽天皇・順徳天皇の准母、未婚皇后(1147-1216)
建礼門院―平氏出身、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母(1155-1214)
春華門院―皇族、順徳天皇の准母(1195-1211)
宜秋門院―九条家出身、後鳥羽天皇の中宮(1173-1129)
式乾門院―皇族、元斎王、四条天皇の准母(1197-1251)
この表は、女院を網羅したものでもなんでもないが、それにしてもまず気づくことは、女院の数の多さである。数えてはいないが、おそらく院(上皇)よりも多いと思う。なぜ女院は院よりも多いのか。それは院が天皇を経験し(ただし小一条院を除く)、天皇の父として権力を行使するという条件を満たさなければなれなかったのに対し、女院はそういう条件がなく、天皇の妻でも母でもなくても「准母」という制度を使って比較的容易になれたことが影響している。この「准母」というのもクセモノで、「准母」はあるのになぜ「准父」はないのか。もしかしたらそれだけ「母」というものが軽んじられていた証左なのかもしれない。
そして次に注目されるのは、女院第一号の東三条院が皇族ではなく、藤原氏出身であることだ。2番目の上東門院も藤原氏出身だ。3番目の陽明門院は皇族であったが、上東門院の先例によって女院号が与えられたという。つまり「女院」という制度そのものが藤原氏のためにつくられたのではないかと考えられる。そして摂関家の子女を次々と入内させるという摂関政治が行き詰まりを迎えて、広く藤原氏の子女が入内するようになると、摂関家によって外戚の権威が意図的に無力化された結果、入内した女性自身が主体的に権力を行使するようになり、その地位を追認するかのように「女院」号が活用されたのかもしれない。
やがてそれは皇女にも適用され、未婚皇女のキャリアパスとして斎王と並ぶ重要なポジションになった(上記の表では、皇族出身の女院のうち高松院以外が未婚だ)。それは、未婚皇女の待遇が不安定だったことを逆に示しているのかもしれない。女院という立場になることによってようやく安定した身分を得られたと考えられる。とすれば、女院と出家の関係を考えざるを得ない。出家は世俗とは違う身分を得ることを意味したからだ。室町時代になると未婚皇女は尼門跡という寺院に出されることが多くなる(ように思う)が、女院とは尼門跡確立以前の女性の身分形態だともみなせるのではないか。
次に、これは女院制度の本質とはかかわりないかもしれないが、その名前が興味深い。なぜ「上東門院」とか「陽明門院」のような門の名前がついているのか。これは「門のそばに住んでいたから」というような説明がなされることもあるが、明らかにそうではない。そして逆に、門の名前がついていない女院には何か意味があるのか。そのあたりが全くわからない。ちなみに平安京にあった門は大きく分けて3種類ある。外側から順に、平安京と外を区切る門(羅城門のような)、大内裏(官庁街)を囲む門、最後に内裏の門である。
というわけで、先ほどの表に、出家の情報(女院になったのは出家の前後どちらか)とどこの門(または地名)かを書き加えたものが以下である。
東三条院―出家後、京内地名?
上東門院―出家同日、大内裏東
陽明門院―出家せず、大内裏東
郁芳門院―出家せず、大内裏東
高陽院 ―出家前、京内邸宅名
待賢門院―出家前、大内裏東
美福門院―出家前?、大内裏南
皇嘉門院―出家前、大内裏南
上西門院―出家前、大内裏西
九条院 ―出家後、京内条名
八条院 ―出家後、京内条名
高松院 ―出家後、京内邸宅名(高松殿)
建春門院―出家せず、内裏東
殷富門院―出家前、大内裏西
建礼門院―出家前、内裏南
春華門院―出家せず?、内裏南東
宜秋門院―出家前、内裏東
式乾門院―出家同日、内裏北
これを見ると、高陽院(かやいん)を例外として、出家前(つまり俗人)が女院号を受ける場合は「〇〇門院」であり、出家後に女院号を受ける場合に「〇〇(地名)院」であったのではという仮説が成り立つ。また、「〇〇門院」は最初は大内裏の門から付けられていたが、やがて内裏の門からも名付けられたことがわかる。ちなみになぜか北側の門はない(偶然かも?)。
そういえば、一条天皇以降、天皇号も条名や地名に基づくものがこの時代多い。一条、白河、鳥羽、堀河、六条、四条などだ。当然これらは院号にもなった。女院号と関連があるのかどうかは不明である。
なお、女院そのものは鎌倉時代以降も存在したが、それが最も活躍したのは摂関・院政期である。本書でも「女院は摂関政治と院政を結ぶツールとして考えていかなければならないと思う(p.151)」としている。では摂関・院政期はなぜ女院を必要としたのか? それはまずは幼帝を支えるということから出発したと考えられる。
そもそもこの時代は、家族原理と政治が密接に関係していた。そんな中で、政治的な価値はあるが一族の中で宙ぶらりんの女性が「准母」などとして担ぎ出されて権力を握り、あるいは用済みになると「女院」になって引退させられることもあった。「女院」と「院」が似ているのは、天皇や皇后とは違って一度に何人存在してもよかったことだ。その意味では定員外の存在だった。つまり権力にとって「女院」は都合がよかったということになる。この時代に女性が強大な権力を握ったことも事実であるが、「女院」という存在は女性の地位を高めるというよりは、むしろ逆の作用の方が大きかったかもしれない。
それは「女院」が乱発されたことでも明らかだ。最初「〇〇門院」と名付けた人たちは、大内裏の門(14ある)が足りなくなるとは思ってもいなかったに違いない。「女院」の歴史は、「女院」の権威が解体していく歴史なのかもしれない。
女院を通じて平安後期を別角度から見る興味深い本。
【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
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