2024年12月5日木曜日

『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著

院政の展開を述べる本。

本書は、後三条天皇から後嵯峨院政までを中心として、院政の展開を描くものである。ただし、院政という制度がテーマではあるが、平安期末から武家政権の成立、そして両統迭立の時代までの通史を朝廷(と幕府)の人間関係を軸に語っており、制度論ではない。

私が本書を手に取ったのは、日本史の中で院政期が手薄に感じていたことと、なぜ院政期には巨大な寺院が次々と建立されたのかという疑問があったからである。そして、なぜこの時代の為政者(上皇だけでなく将軍も)は出家したのかということも前々から不思議に思っていた。それは単に極楽往生を望んでいただけだったのか、それとも制度的に出家する意味があったのかどうか。ちなみに初の法皇(出家した上皇)となったのは宇多天皇である(昌泰2年(899年))。また、上皇(太上天皇)を「院」と呼ぶことは当たり前のようであるが、よく考えてみると「院号」というものは捉えどころがない。女性も院(女院)を名乗ったし、非常に高位の人の称号のようでいて、近世には修験者なども院号で呼ぶようになるのである。どうして上皇は「院」となったのだろうか。

結論を言えば、本書はこうした疑問にはほとんど答えてくれなかった。上述のように、本書の中心は「人間関係」であるからだ。巻末の人物索引には400名もの人名が掲げられている。大量の人物が登場し、主要な登場人物に限ってみても複雑な血縁関係で結ばれ、名前も似ている人が多いので、正直なところあまり頭に入らなかった部分がある。というわけで、本書の中心である「人間関係」は今回メモから外し、院政という政治形態についてまとめてみたい。

院政の前提となるのは摂関政治である。摂関政治とは、天皇の外戚(天皇の妻の実家)が摂政や関白を務め、ミウチで行う政治である。

摂関政治においては天皇の意志よりも外戚の意志が優先され、次期天皇の人事権も外戚に左右された。この背景には、藤原道長が多くの女子をもうけて4代にわたる天皇の中宮・女御を輩出したことがある。しかしその息子頼道は娘が一人しかなく、彼女は後冷泉天皇の皇后になったものの跡継ぎを生むことはなかった。その結果、摂関政治がゆきづまり、治暦4年(1068)、宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇として即位したのが後三条天皇である。

後三条天皇は新たな権力基盤を創出しようと意欲的な治政を進めたが、39歳の若さで譲位する。それは、「藤原氏出身の茂子(もし)を母にもつ皇太子貞仁(白河天皇)即位のあとに、藤原氏でない源基子が生んだ実仁を東宮とし、白河のあとに即位させる(p.30)」ためだったのではないかと著者はいう。院政の核には、皇位継承問題があるというのが著者の考えである。ただし後三条天皇は譲位からほどなくして亡くなってしまったため院政と呼ぶべきものは行われなかった。

白河天皇としては、異母弟の実仁に位を譲るよりは、自分の子に譲位したい。実仁は後に疱瘡で亡くなったが、まだその弟の輔仁がいた。そこで白河天皇は、わずか8歳の善仁を皇太子として、同日に譲位してしまうのである。この白河天皇の譲位、堀河天皇の即位をもって、白河院政の開始とされる。

摂関政治が自然消滅したのは、外戚が道長の嫡流に限定されて入内(じゅだい)できる家柄の女子が少なくなり、結果として外戚家の人間も減ったからである。摂関政治は、入内できる女子さえいればいいのではなく、摂関となりうる人間はもちろん、それを支えるミウチの公卿がいる。外戚家がチームとなって天皇を支えるのが摂関政治だとすると、入内できる女子の家柄が特定されてしまうとチームが組めなくなってしまい、摂関政治ができなくなるのである。

さらに、堀河天皇が若くして死去した後、堀河天皇の摂政を務めていた藤原忠実を、白河上皇は新帝鳥羽天皇の摂政に横滑りさせた。忠実は鳥羽天皇にとって外戚ではない。外戚ではない忠実が摂政になったことで摂関を世襲する家柄=摂関家が外戚とは独立に成立していくのである。忠実の家系としては、適齢の女子をみつけて入内させるより、摂関家として摂関の地位を独占することが優先されるから、むしろ外戚家の地位が高まらない方が有り難い。上皇・天皇の側としても、外戚家に全ての実権を握られるより、摂関家の権威を立てておいて比較的自由にできるほうがやりやすかったに違いない。こうして、摂関家と天皇家の利害が対立しつつもある面で一致したことによって院政が出現するのである。

院政は、上皇が執政することと思われがちであるが、実際には上皇が行政庁(太政官)を運営するのではない。やはり国政は太政官によって担われていた。これに対する上皇の関与は「非公式」であった。例えば朝廷の人事は「任人折紙」という非公式のメモによって事実上院がにぎっていた。

院には「院庁(いんのちょう)」という機関があり、かつてはこれが太政官に代わって政権を担ったと考えられていた。しかし院庁はあくまでも家政機関で、直接国政に関わる機能は持っていなかった。ではどうして非公式に太政官に介入したかというと、院司(院庁の職員)を主従的な関係によって把握することで従前の政治機構を掌握し、また院宣という私文書の発給が活用された。

院権力の確立に与ったと考えられているのが、寺社強訴である。院政期は寺社強訴が飛躍的に増加した時期であった。寺社強訴とは、寺社の権威をもって寺社の大衆(だいしゅ)が大勢で押しかけてくるデモのような団体行動である。寺社は大荘園領主であり、国家と利益相反していたと同時に、寺社や受領などと院の結びつきが事態を複雑化していた。要するにその原因の一端は院にもあった。そこで、寺社強訴に対する裁定が院御所で審議されるようになるのである。これをきっかけに、国政に関わる問題でも院御所での公卿会議が開催されるようになった。

また、院は独自の武力も持つようになる。所謂「北面の武士」である。その代表が平氏で、彼らは武力による奉仕だけでなく、荘園の寄進、造寺・造塔などによって院にとりいった存在であった。

また、院政の成立は荘園制と深い関係がある。 荘園の集積に早く取り組んだのは藤原忠実であった。そして荘園からの物品を集積する街として宇治が整備される。宇治は平等院を中心とした碁盤の目上の町並みとなり、藤原氏の「権門都市」となっていった。

一方の王家の方は、法勝寺の造営(1075)、有名な八角九重塔(1083)が白河天皇によって行われるなど白河(京の東に隣接する地域)に天皇家の御願寺群が造営されていった。こうした御願寺群の運営は、荘園を当てにするのではなく、国家的な給付としての封戸に基づくべきだというのが白河天皇の方針であったが、国司からの封戸納入の悪化によって荘園に頼らざるを得なくなり、院近臣をはじめとする院の周囲の人々の力で広大な領域型荘園が設定されていった。

ともかく、大荘園領主として藤原氏と王家が並び立つとその利益は相反する。藤原氏による荘園の集積を好ましく思わなかった白河上皇が藤原忠実を掣肘したのが、保安元年(1120)の忠実罷免事件である。

続く鳥羽院期に特に多くの荘園を設定して数々の御願寺を造営したのが藤原家成(摂関家ではなく末茂流)である。彼は「御願寺の造営を請け負って、その荘園が新たに必要となると、自分のもつ知行国での立荘を繰り返した(p.84)」。どうも、彼は立荘の名目として御願寺を使っていたような形跡がある。

ところで、院政の本質とは関係ないが、白河法皇(娘をなくして出家していた)が生前「わが崩後、荼毘礼を行ふべからず。早く鳥羽の塔中石間に納め置くべきなり」(『長秋記』)と命じていたのは興味深い。この塔とは鳥羽殿の三重塔である(意に反して火葬はされたが納骨は行われた)。鳥羽殿とは白河上皇が遊興の場として造営した京外の離宮であったが、鳥羽院政期には寺院と御所の両方が整備されて京外へ出た初めての「後院」(譲位後の御所)となり、また白河・鳥羽・近衛の3人の墓所ともなった。

後白河天皇の擁立にあたっては、本書に興味深い考察があるが「人間関係」の話なので割愛する。「保元の乱」で崇徳上皇と後白河天皇が対立し、また摂関家も分裂して主流側が壊滅した。勝者は後白河天皇だったが、権力基盤は脆弱で「家長不在の王権(p.114)」となった。こうした状態で政界の中心となったのが、旧鳥羽院の近臣たちである。なかでも最も活躍したのが信西(藤原氏傍流の出身で、身分の壁を打ち破るために出家していた)である。

後白河天皇は二条天皇に譲位したが、これは院政にはならない。後白河天皇は鳥羽法皇の王家領荘園をまったく継承できておらず、その大半を継承していたのが美福門院(鳥羽法皇の皇后)であったため、美福門院の下で信西が王家を取り仕切っていたのである。こうなると「反信西連合」が形成されざるを得ない。そうして起こったのが「平治の乱」である。

平治の乱では信西は脱出したものの自殺、後白河上皇は事実上の幽閉状態となり、そこで彼が頼ったのが平清盛であり、その結果として清盛は後に実権を得た。

そして後白河上皇は二条天皇と決別し、旧信西邸跡を中心として十町余の敷地を囲い込み、そこにあった墓地をわざわざ立ち退かせてつくったのが法住寺殿である。これは最初から自分の墓を造るつもりであっただろうという。

一方、二条天皇は永万元年(1165)に生まれてわずか7ヶ月(数え年2歳)の順仁(のぶひと:六条天皇)に譲位するが、二条上皇はその年の内に亡くなってしまった。後白河はこの状況で平清盛の妻の妹滋子に生ませた憲仁を8歳で即位させた。高倉天皇である。8歳の天皇と5歳の上皇。院政における天皇の意味するものを象徴的に表す光景だ。こうして二条の皇統が断絶して後白河の皇統が確立した。嘉応元年(1169)、後白河は出家し法皇となった。ちなみに前年の仁安3年(1168)には、その前年に太政大臣を退いた平清盛も出家している。

やがて後白河法皇と清盛は対立し、法皇は清盛への挑発を繰り返した。その結果、清盛は軍事力で法皇近臣を排除し、法皇を鳥羽殿に幽閉した。こうして後白河院政は停止される。軍事的に政権を樹立した清盛は、高倉院政を傀儡化することによって国政を担った(なお天皇は清盛と後白河の双方にとって孫である安徳天皇)。そして諸権門から逃れて清盛が全てを取り仕切る体制として福原遷都を断行した。

ここで面白いエピソードがある。「高倉上皇の夢の中に生母建春門院があらわれて、墓所のある京を離れたことに激怒したという噂(p.157)」があったそうだ(『玉葉』)。福原で高倉上皇が衰弱したため、 「万一のことがあるならば、後白河をその代わりとして院政を復活させるしかないと清盛は考え(p.159)」たというのも興味深い。なぜそうまでして院政にこだわったのか、そこがよくわからない。安徳天皇+摂政では十分でないという意識が間違いなくあったことになる。

ともかく、高倉天皇は僅か21年の生涯を終え、清盛の傀儡とはいえ後白河院政が復活した。そして清盛が亡くなると、その子宗盛は父とは違い優柔不断で、結局後白河に政権を全面的に返上する。こうして後白河院政が名実共に復活した。

ここまでが本書の約半分で、ここからは頼朝の挙兵、鎌倉幕府の成立といった話題になる。ただし、鎌倉幕府の動きは割愛し、院政に限って簡略にメモする。

後白河は頼朝と対立したが、後白河院政は頼朝が巧妙に牽制することによって存続した。そして法皇の没後、後鳥羽天皇が建久9年(1198)に僅か4歳の土御門天皇に譲位して、ここに後鳥羽院政が開始されるのである。この後鳥羽院政が、院政のピークである。国政の実権は幕府に握られながらも、後鳥羽上皇は遊興にふけった。「この時期の後鳥羽ほど、「自由」な上皇はいないのである(p.200)」。後鳥羽上皇の文化事業は非常に重要で、『新古今和歌集』の勅撰、管弦(琵琶)などは文化を通じて貴族を組織していくという新たなタイプの王権が創出した。

承久の乱では、後鳥羽上皇は冷静な判断力を失って討幕に先走った。これは朝廷対鎌倉幕府ではなく、あくまで上皇の挙兵であり、院方は圧倒的な劣勢だった。だが上皇としては延暦寺の僧徒が味方するものと踏んだらしい。ところが延暦寺も味方せず、追討宣旨の効果もなく後鳥羽は敗退した。

乱後、異例なことに多くの公卿が処刑され、後鳥羽と順徳の両上皇は隠岐と佐賀に流された(土御門天皇は自ら希望して土佐に流された)。ここで面白いのは、後鳥羽上皇が配流に先だって出家していることである。 なぜ配流の準備として出家したのか。

さらに面白いのは、戦後体制では、後鳥羽の同母兄ですでに出家していた守貞親王が後高倉法皇として院政を行っていることである。即位した経験のない後高倉法皇を担ぎ出して院政を執らせたのはなぜなのか。著者は「そのような院を置かねばならないほど、院政という政治形態が定着していたことを示す(p.227)」というが、それはそうとしても、実務上必要だったとしか考えられない。それがどのような実務であったのか、本書からは詳らかでない。

承久の乱で変わったのは、寺社の強訴に対する主体が院から幕府に移ったことである。これが院政の大きな曲がり角だったという。さらに皇位選定権においても、承久の乱後に即位した四条天皇の場合は幕府は介入できなかったが、四条天皇がわずか12歳で亡くなると、幕府の執権北条泰時は強硬に土御門天皇の皇子邦仁を押し、これが後嵯峨天皇として即位した。その後の皇位選定権は北条氏ににぎられることになる。院政を構成する重要な要素が、寺社の強訴への対処と皇位選定権であったが、このどちらもが形無しになったのである(実際、この時期は院政が行われていない)。

さらに、寛元4年(1246)、後嵯峨天皇は在位4年で4歳の皇子に譲位し院政を開始したが、摂関の人事権までも幕府に奪われる。こうして幕府の傀儡になってしまうかに見えた院政だったが、朝幕協調の路線になってきて風向きが変わる。それは所領関係の裁判において幕府と朝廷が連携して裁定することが重要だったからである。そこで幕府と朝廷の連絡を担当する関東申次が重要になり、受理窓口である伝奏制度や院の元で合議を行う院評定制も整えられた。こうした中で、幕府は後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を将軍として迎えるのである。このようにして、従前の非公式的かつ専制的な院政に代わって、制度化された院政が出現するのである。

文永9年(1272)に亀山天皇による親政が開始されると、「院評定制がそのまま内裏鬼間(おにのま)での議定制に継承され、議定の内容も議定衆の構成も、それまでの院評定と変わることがなかった(p.248)」。ということは、太政官を院庁が換骨奪胎し、院庁に行政機構が全て吸収されてしまったということになる。親政と院政は内容的に変わらないものになったのである。執政者が天皇であるか上皇であるかだけの違いになったということだ。

ここから本書は両統迭立について述べ、後醍醐の挙兵の経過を辿っている。さらに南北朝時代を経て、江戸時代になっても院政が行われていることを述べている。院政の最後は光格院政である。ただし、実質的な院政の最後は、足利義満が政務を指揮する体制ができた時だとしている。それから後の院政は、国政の実質を担っていないのである。

増補版で補われた「終章 院政とは何だったのか」では、院政の展開を改めて振り返って擱筆されている(本書全体の要約になっている)。

本書は全体として、院政がわかったような分からないような本である。それは、冒頭に書いたように制度論ではないからだと思う。院政を視点の中心に据えながらも歴史の展開を「人間関係」を軸に語っているので、その部分を理解するのに精一杯になってしまう。そして、院政の成立と深く関わっているのが荘園制であるが、本書では荘園制がごく簡単にしか解説されていないのも院政がわかりづらく感じる原因の一つだろう。

ただ、本書を読みながら、院政期というのが日本の歴史にとって画期的な意義を有していることが強く伝わってきた。院政期には、すでに中世社会の特質が先鋭的な形で表出しているのである。荘園制の拡大と所領紛争、武士の擡頭、寺社の変質などである。私は今まで院政期を古代から中世への中継ぎ的なものだと考えていたのだが、古代から中世へ脱皮するためのさなぎのような期間、大きな社会変動が起こった期間だと考えを改めた。

最後に、気になっていた院号について、こういう話があったのでメモしておく。 三条天皇の皇子敦明は、東宮を辞退して「小一条院」という院号が与えられている。本書ではこれは「上皇に準ずる待遇である(p.22)」としているが、院号にそういう意味があるのだろうか。院号の意味は別途追求してみたい。

制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/03/blog-post.html
荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。

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