2024年12月8日日曜日

『平安京と中世仏教——王朝権力と都市民衆』上川 道夫 著

平安時代末期の歴史を仏教史を軸として述べる本。

平安時代末期、平安京は仏教都市化した。それは、この時代の仏教が次第に葬祭を担い、追善供養が貴族たちの必須の営みとなったことによる。空也が諸国修行中にたくさんの死体を集めて火葬し、念仏で追善を行ったのはその先蹤だという。延喜2年(902)の醍醐天皇は仏式で葬送されており、貴族社会では浄土思想の広まりとともに仏式の葬送が広がってきていた。

しかし、庶民はどうであったか。慶滋保胤は『日本往生極楽記』に庶民の往生伝を一つも載せていない。この時代、度重なる飢饉によって京都はしばしば餓死者の遺体で充満した。非常に厳しい暮らしを余儀なくされていた人々にとって、仏教は何の意味もなかった。これが本書を通底する視点の一つである。

元来、平安京には東寺と西寺しかなく、寺院の建立が規制されていた。内裏には真言院が設けられ、また大極殿では仏事が営まれたことを考えると、平安京では国家の仏事を大寺院に任すのではなく、直接内裏で実施するプランだったように思われる。それが摂関期には、貴族の邸宅内に仏堂が設けられるようになった(例えば藤原実資の邸宅)。

本書には982年~1143年に建立された「平安時代の邸内仏堂」が表にまとめられており、これが非常に興味深い。これは「浄土教信仰を実践する」ためであったとされ、それに付属して僧房までも持つ邸宅もあった。僧侶の在り方も律令制の時代とは変わったのである。

京内に寺院が設立されていく発端として重要なのは、「源融(みなもとの・とおる)の邸宅河原院が、10世紀末に孫の天台僧仁康によって寺とされたこと(p.39)」である。これは厳密には京外であったが、京内の六条院に接しており、これと一体のものとして捉えられていた可能性がある。

京内寺院としては、因幡堂、六角堂(初見は『御堂関白記』長和6年(1017))、壬生地蔵堂(伝承では寛弘2年(1005)開基)の3つが建立された。これらは例外的な存在であることは間違いないが、小規模とはいえ京内に寺院が建立されたことは、それまでと違った傾向として注目される。

一方、京外には11世紀の始めから寺院が乱立した。革堂(こうどう)、法興院、世尊寺、河崎観音寺、京極寺、祇陀林寺、六波羅蜜寺、法成寺などが摂関期に建立された寺院である。なおこれらの多くが京の東側にあることは何か意味があるのかもしれない。

このように、摂関期の平安京の仏教はそれまでとは明らかに異なった傾向を持っていた。それを著者は「摂関期仏教」と呼ぶ。では、どうして新しい仏教が成長してきたのか。従来、それは浄土教信仰の発展によると言われてきた。しかしその背景として著者は東アジアの仏教の動向に注目する。

北宋は仏教を媒介として周辺国を従える意図を持っていたが、日本政府は奝然が持ち帰った北宋皇帝からの国書に返信せず、事実上北宋の従属要求を拒否した。そのために、日本仏教は中国仏教から距離を置き、むしろインド仏教との直結を模索したのだという(p.56)。

なお、北宋の覇権は盤石ではなく、遼に押され気味であった。そして1004年に結ばれた澶淵の盟では実質的に遼に屈するのである。なお、日本僧が憧れたのが中国大陸の北側にある五臺山であるが、摂関期になると関心が南方にある天台山の方にシフトしてくる。これはこうした東アジア情勢に対応したものだったかもしれない。

続く院政期では、受領(ずりょう)による仏教信仰が盛んになった。受領は下級貴族であるが、任地(荘園)に赴任するにあたって、仏教をバックにつけていた。それは職務心得というべき『国務条々』(『朝野群載』所収)の最後の条に「験者(げんざ)ならびに智僧侶一両人を随身すべき事」とあるのでも知れる(p.73)。この「験者」は何を意味しているのか不明だが、任地へ僧侶を一名伴わなくてはならないというのは、支配階級の人々が仏教に何を期待したのか示しているような気がする。

寛仁3年(1019)、女真族が日本に来寇した(刀伊の入寇)。日本はこれをなんとか防衛したものの、朝廷は神事・仏事による沈静化を図った。同年、藤原道長(入寇の直前に胸部の発作に不安を抱いて出家していた)は突然として阿弥陀堂を発願し、強引に造営を始めた。翌年にはこれが無量寿院(後の法成寺)として完成している。なお、これを受領たちに造営させた、というのが面白い。荘園支配の見返りに寺院を造営させたのである。

先ほど「日本仏教は中国仏教から距離を置き」と書いたが、決して人的交流がなくなったのではない。それどころか、入宋貿易のために商人の行き来は盛んだったから、それに付随する形で私的に入宋する僧侶は多く、成尋(じょうじん)、戒覚の二人は五臺山と天台山の両方を巡礼したし、明範(みょうばん)は商人僧として遼に密航している(処罰されたらしい)。明範の弟子の範俊は北宋や遼の密教を参照して新たな修法である「如法愛染王法」を白河院のために行っている。院政期仏教では、それまでの天台宗中心から、真言密教を重視する方向となった(特に醍醐寺・随心院・勧修寺などの小野流と仁和寺を中心とする広沢流)。

12世紀には、東アジアの国際情勢は一気に流動化し、遼が金に滅ぼされ、また北宋も金に滅ぼされた(1127年)。この宋金交代が白河院の最晩年にあたる。この中国王朝の滅亡にあたって、日本こそが仏教の中心たろうとする意欲をもって、仏都平安京の建設が進められたと著者は考える。

本書には大治元年(1126)~大治4年(1129)に造営・供養された仏塔・仏像などが年表でまとめられているが(p.93~99)、その仏事・造仏・造塔の多さはちょっと異常なほどである。それらの特徴として、第1に「仏像100体」「泥塔3万7100基」など、異様な数の多さで造仏・造塔がなされていること、第2に愛染明王像・孔雀明王像・不動明王像など真言密教の造仏(←画像なのか立体なのか不明)が中心であること、第3に女院出産の祈りとして非常な頻度でそれらが行われていること(特に大治4年)、第4にそれらの造仏にあたって「等身仏」として院や女院などとの強い結びつきが想定されること、が挙げられる。

大治4年の白河院の葬儀では、そうした院政期仏教の数を恃む思想が先鋭的に示されている。この葬儀について『中右記』には「絵像5470余体、生成仏5体、丈六107体、半丈六6体、等身3050体、三尺以下2930体、堂宇、塔21基、小塔44万6630余基、金泥一切経書写、このほか秘法修善は千万壇、その数を知らず(p.100)」と記されている。これはほとんど狂信的といえる。ここまでしなければならなかったのはなぜなのか、仏教そのものの変質も当然として、そこに期待されるものが変わっていると思われるのである。

院政期仏教の具体的な様相を見るため、本書では2つの切り口を用意している。(1)嘉保2年(1095)9月24日に堀河天皇の健康回復を祈って行われた仏事と、(2)永久元年(1113)の1年間における平安京の動きである。

(1)では、①大極殿での千僧読経、②内裏清涼殿の昼御座(ひのおまし)での『大般若経』供養、③清涼殿の二間(仏間)で新写した丈六の十一面観音像の供養、④渡殿(わたどの)での読経、⑤東対代廊で経典供養(1年かけて一切経の読経を行う仏事の開始)、⑥諸寺での読経と講説、⑧五畿七道諸国ので観音供養、⑨延暦寺での千僧御読経、⑩万僧供と丈六仏五体の造立などが行われた。天皇を中心として大規模な仏教イベントが一斉に行われたのである。

(2)では、白河院政の一年を仏教中心に見ている。これは量が膨大なので気になったところのみメモする。

1月:大極殿で御斎会(ごさいえ)、真言院で後七日御修法(ごしちにちのみしほ)が行われた。大極殿でも仏事が開催されるのに、わざわざ真言院がもうけられているのは何故なのか。なお御斎会は顕教、御修法は密教の修法によるもののようだ。

2月:院御所では孔雀経法が行われたり、仁和寺の行信法親王(白河上皇子息)に愛染王法を開始させたり、内裏で陰陽道の泰山府君祭を行ったりしている。いろいろな行法・修法が総動員された。孔雀経法は月蝕による災禍を払うため、愛染王法は病気平癒を祈ったものであるらしい。

3月:堀河天皇の遺骨を仁和寺山陵(後円教寺陵)に葬った。

閏3月:東寺長者の寛助が内裏で五壇法を行った。一方、白河法皇は仁王講、仁王経法を別に行わせている。これらはいずれも国王を外敵から守護する仏事だという。延暦寺大衆が大勢下山し、祇園社の神輿を院御所の北門に運んで結集した。

4月:興福寺大衆も上洛し、興福寺大衆・延暦寺大衆と武士が戦い撃退した。彼らは白河院のやり方に不満を抱いていた。

5-6月:京では様々な場所で盛大な仏事が行われた。白河院御所では、東寺長者寛助が大北斗法を修している。北斗七星に祈る新式の祈りであるらしい。

7月:白河院の指示で貴族らの分担によって『大般若経』600巻が書写された。この時代はこういう書写が非常に多い。天永4年が永久元年に改元された。改元の理由は、天変・怪異・疾病・兵革である。法成寺で恒例の盂蘭盆会が行われた。 

8月:寛助が内裏で五壇法、孔雀経法を別日に修し、さらに院御所でも孔雀経法を行った。その褒美として寛助は東寺の国家的位置づけを引き上げる申請を行い認められた。

10ー12月:引き続き数多くの仏事や神事が行われた。東寺の灌頂会が勅会とされ、また寛助は東寺定額僧を10人加えることを求めて認められた。東寺長者寛助の政治力によって、明らかに東寺の権威が引き上げられている。 

このように、嘉保2年は1年を通して、京都で膨大な仏事・神事が行われた。そんな中でも南都北嶺(特に興福寺・延暦寺)の大衆と朝廷とは対立していること、真言宗(特に東寺)との癒着が大きくなっていること、また新しい密教修法が活用されていることは注目される。

摂関期から院政期には、京都の町並みも目に見えて変化した。それを象徴するのが仏塔の乱立である。この頃、京都をとりまく寺院の塔を百以上巡る「百塔巡礼」が流行したことはその象徴である。

10世紀後半にすでに百寺巡礼があり、これは一日か二日で京都周辺の寺院を徒歩で巡るものであった。つまり徒歩で巡れる範囲にそれだけの寺があったことになる。これが12世紀後半に向けて、さらに塔が新築ラッシュを迎える。本書には白河治政(1083〜1128年)における造塔(小塔を含む)の事例が表でまとめられており、法勝寺八角九重塔は例外としても、造塔がブームになっていたことが明瞭である。

これらの中から、木造高層建築としての塔のみを見ると、法勝寺の他、尊勝寺の東西二塔、白河泉殿の三重塔、最勝寺の塔、円勝寺の三重塔(2基)と五重塔、上加茂社の東西二塔、鳥羽の三重塔と多宝塔二基、仁和寺観音院の塔がこの時代に建設されている。

泥塔などの小塔の製作については、いちいち数えるのが煩わしいほどで、合計すれば何百万基と製作されている。

これらについて著者は、「泥塔を大量生産した目的は、白河上皇の「御息災安穏・増長宝寿」といった願いにあるという(p.151)」とし、また「造塔事業に力を注いだ白河院には、(中略)二つの意図があった。一つは自身の延命祈願である。もう一つは、I部第四章で述べたような、国際情勢を勘案した平安京の改造である(p.153)」と述べ、「塔の増築は、釈迦の遺跡を日本に据えるという意思の端的なあらわれであろう(同)」とする。確かに、銭弘俶八万四千塔の伝来など、大陸の造塔が刺激になっていることは間違いない(北宋や遼には法勝寺八角九重塔と同形の多層塔がいくつもあった)。

しかしそれにしても、造塔の異常なほどの多さはそれだけでは説明できないように思う。八角九重塔が一つでは十分でないのか。それだけの塔を造る意味はなんなのか。不思議に思った。

続いて新しい仏教を象徴するかのような秘密仏事「転法輪法」について、『覚禅鈔』に基づいて紹介している。この修法の元となる経典は中国から平安時代初期にもたらされたものであるが、この修法自体は12世紀に6回行われたことが記録に残っている。これはどうやら政敵の調伏法として行われたらしい。特に鹿ヶ谷事件のすぐ後に、後白河上皇が醍醐寺僧に命じて法住寺内裏にてこの修法を行わせているが、その実施責任者は後白河院の子、仁和寺宮守覚法親王であるというのも面白い。

この修法では、本尊を大輪明王(曼荼羅)として、転法輪筒という筒に依頼主の画像を入れ、その画像が調伏対象の「姓名」を踏みつけているようになっている。平たく言えば呪いの方法である。このような修法が最高権力者によって行われるというのは、時代の一断面として極めて興味深い。

最後に、このような新時代の仏教が民衆にどう受け取られていたのかという簡潔な考察がなされている。それを簡約すれば、豪壮な寺院の建立などは民衆にとってあまり意味はなかったが、御霊会や田楽運動を中心として、権力者の仏教とは違った形で民衆も主体的に仏教を求めていったのがこの時代である、ということである。そしてそうした民衆仏教の拠点は、地域共同体が支える里山の寺院となっていったという。

本書は全体として、摂関期から院政期の仏教を窺わせる数多くの具体的な事例が提示されており、いろいろと考えさせる。上のメモでは言及しなかったが平安京周辺の寺院の立地図なども見るだけで面白い。

ただし、院政期仏教の焦点となる院政と仏教の関わりについては、全体的にはよく分からなかった。また浄土信仰の展開において、院政期がどう位置づけられるのかについてもあまり言及されていない。どちらかというと、本書では院政と真言密教の深い繋がりを強調している。

摂関期・院政期の仏教がそれまでとは違ったものになっていったことを、様々な事例から述べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

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