本書の舞台となっているのは、鹿児島にある「鬼無鬼島(きぶきじま)」という架空の島である。ところが、鹿児島の人が読んでみれば、これは甑島をモデルにしていることがすぐわかる。いやそれどころか甑島そのものだ。また、「上ノ池(かみのいけ)」というもう一つの小説の舞台は、これは薩摩半島の西南端の「野間池(のまいけ)」であることもすぐわかる(野間池は池ではなくて港の名前)。
小説の冒頭では、上ノ池が神話の土地であることが説明され、野間岳をモデルとした「上ノ嶽(かみのたけ)」にはニニギノミコトとともに媽祖神が祀られていることも語られる。この辺りは、もはやモデルというより現実そのままを説明している感じだ。つまり、この小説はフィクションなのだが、地名をわざとらしく別のものにしているだけで、まるっきり現実の土地が舞台になっているのである。このほかにも現実の地名や、ちょっとアレンジされた地名が登場する事例は枚挙にいとまがない。
この物語は、「鬼無鬼島」には「クロ宗」という、隠れキリシタンが土俗化した信仰が残っている、という設定で、それに反発しつつもそこに飲み込まれそうになっている主人公の青年と、「クロ宗」の指導者「サカヤ」という立場の男との対立を軸に語られる(サカヤ=sacredであるらしく酒屋とは無関係)。この「クロ宗」というのも創作ではなく、甑島にはそういう信仰が確かに残っていたのである。
しかも、この小説では集落の様子や「クロ宗」の儀式、人々の「クロ宗」への想いなどがあまりにもリアルに描写されていた。そのために、この小説に描かれた「クロ宗」を現実のものだと錯覚する人が続出したほどだ。とりわけ、「クロ宗」では信徒集団の危機に際し、死に瀕した人の生肝を抜いて信徒が食べるという秘儀があった、という設定は強い印象を与え、甑島への風評被害までもたらしたという。
そのためなのかもしれないが、カルト的な(?)人気を誇るこの作品は昭和32年(1957)に出版されて後、一度も復刊・文庫化されていない。なお私は本書を単行本ではなく『新潮日本文学47 堀田善衛集』で読んだ(そのほか、『堀田善衛全集 3』にも収録されている)。
この小説はちょっと悪魔的な部分がある「クロ宗」への興味から手に取られることが多い(ようだ)が、作者堀田善衛が描きたかったものは、もちろんそういうことではない。
本書は、「クロ宗」を描いているようでいて、それに国家神道を重ねて語るものだと私は思う。「サカヤ」の男も、村では密かに「山ノ天皇」と呼ばれている。「クロ宗」は、国家神道のミニ版であり、村の生活すべてを規定する見えない呪力なのだ。
では、「クロ宗」の教徒である村の住人は、「サカヤ」の指導によって狂信的な行動に駆り立てられているのか。戦中の日本のように。
これが実はそうではなく、「サカヤ」の男も、「クロ宗」なるものがすっかり土俗化した迷信に陥っていることは認識しながらも、「クロ宗」を求める村の人々の無言の圧力によって「サカヤ」を演じさせられているように感じている。もちろん「サカヤ」であることは安楽な暮らしを保証するが、その心中にはどこか空疎なものがある。
一方、それに反発する主人公の青年も、「クロ宗」なんてまやかしだと思いながらも、その根底に不気味なものを感じている。それは仏教であれ神道であれ、信仰というものの淵源をたどっていけばたどり着かずにはおれない、人間社会そのものの不気味さだ。
つまり本書は、天皇制とそれを支える神話が空疎であることを批判しつつ、しかしそれを存立させている基盤は、人々の土俗的な信仰や迷信、集落の掟・しきたりといった、決して明文化されることはない暗黒の力であることを述べているのである。
そして、この物語が終戦直後を舞台にしていることと、主人公とその恋人が長崎で原子爆弾の被害を間近に見たという経験を持っていることは、さらにこの設定に陰影を与える。国家神道が原子爆弾とマッカーサーで吹き飛び、国民を支える思想はどこにもなくなってしまった、というアノミー状態(無秩序で無統制な混乱)と、それをむしろ心地よく思う若者を登場させることで、それにもかかわらず原子爆弾・マッカーサーでも吹き飛ばせなかった土俗的なしがらみを一層強調するのである。
このように、この小説は暗喩をめぐらすことで、はっきりとは書いていないながら天皇制に対して根源的な批判を加えているように見える。しかし本書のテーマは天皇制そのものではなく、それを支え、それどころかそれを改変しさえする民衆の土俗的信仰・ムラ社会なのである。それは、遠藤周作の『沈黙』(1966)において宣教師フェレイラが言う有名な台詞を思い起こさせる。「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」というあれだ。まさにこの「クロ宗」は、キリスト教という苗がムラ社会で腐りながら生育した奇形の宗教なのだ。
このように、本書は土俗的信仰意識という暗黒の力を克明に描いたものではあるが、そういうテーマは横に置いても、小説としてめっぽう面白い。ハラハラするような展開はスピード感があり、ほとんど一気に読んでしまった。また、会話文に出てくるキツい鹿児島弁が「クロ宗」をとりまく人々の土俗的な雰囲気を強調するのに一役買っている。
小説として面白く、その含意は非常に深い。ぜひ文庫化していただきたい一冊だ。
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