平安後期の仏教史。
辻善之助『日本仏教史』(全10巻)は、日本仏教史の金字塔であり、戦前にまとめられたものでありながら、現在までこれを超えるものは出ていない。もちろん古い学説に基づいている部分は多く(特に顕密体制論以前であることは大きい)、読書には少し注意を要する。
また、本書は東京帝国大学の講義録を元にまとめられたものであるためか、編年的ではなく、トピック毎に章分けがされており、例えば平安時代後期の章にも奈良時代の話題が出てくる。
またその記述は羅列的かつ資料集的な部分があり、私は普段本書を事典のように使っている。だが最近、私は院政期の仏教に興味を持ち、関連する部分を通読することにした。該当部分は「第6章 平安時代後期」ではあるが、先述の通り本書では章分けは時代と完全には対応していないため、「第5章 平安時代中期」の「第4節 国民生活と仏教の融合」から(p.489以降)を読書メモの対象とする。これは本書のうちほぼ半分の分量である。
なお、本書は旧仮名遣い・旧字体が用いられており、また和暦とともに皇紀が併記されている(←とてもわかりにくい)が、本メモでの引用は新仮名遣い・新字体に改め、必要に応じ西暦を付記した。
第5章 平安時代中期
「第4節 国民生活と仏教の融合」では、平安時代には仏教が国民生活に根を下ろし、平安京では様々な仏事が貴族の生活に組み込まれたことを述べている。平安時代は遊戯が盛んだった時代だとし、仏事も一種の遊戯・遊興として貴族に受け取られていたと指摘している。
なお本節は平安時代中期についてではなく、平安時代全体について述べている(前述のとおり、本書は編年的ではない)。よって、いつから多くの仏事が修されるようになったのかは明確ではない。ここで著者は近畿地方で行われていた仏事を一年を通してまとめている。その中に後三条天皇が創建した円宗寺や堀川天皇の尊勝寺の仏事も掲載されており、院政期の内容も含まれている。
「第5節 僧侶の社会事業」では、飛鳥時代から平安末期に至るまでの僧侶の社会事業を述べている(何度もいうが、本書の記載は編年的ではないのである)。
ここでの社会事業は、(1)救済事業(弱者の保護など)、(2)温室(浴室)、すなわち風呂、(3)動物愛護、(4)交通土木事業の4つに大別される。
特に院政期の事項として注意されるのは、白河法皇の殺生禁断である。白河法皇は諸国から献上される魚貝を停止させ、また諸国において漁網を焼かせた。その数8823帖。狩猟の道を断つこと4万5300余所に及んだという。
「第6節 浄土教の発達」では、奈良時代から平安時代末期までの浄土教の展開について源信を中心に述べている。
著者は浄土教を仏教の日本化の「最も著しい例(p.549)」という。「即ち浄土教の発達は、仏教の日本的特色を帯びるようになった最も著明な現象である(同)」とする。
浄土教の普及において画期的な意味をもったのが源信の『往生要集』である。源信はこれを宋の商人周文徳に「異域に此の志あるを知らしめんと欲す」と託した。「仏教渡来後凡450年、その間に於て、我邦より仏書を彼に伝えた事は、聖徳太子の三教疏の外、往生要集あるのみである(p.554)」。さらに源信は因明論についての論述も宋に送って批評を乞うている。さらに長保5年(1003)には、天台の教義に関する27の疑問を僧寂照に託して宋の智礼法師に送った。これの返答が「唐決集」として残っているものであるが、これに源信は満足できなかった。当時の源信の学問は宋をしのいでいたということになる。「本邦仏学の隆盛、遥かに宋を凌いだ状況を見るに足るのである(p.561)」。
このように述べてから、本節では奈良時代からの浄土教の発達についてまとめている。最も浄土教が高揚したのはやはり平安時代で、源氏物語、栄花物語、紫式部日記などにも浄土教の影響が見られる。藤原道長は浄土教を忠実に実践し、一日に十何万遍もの念仏をした。なお庶民に対して浄土教を喧伝したのは空也(本書では「こうや」と読む)である。
次に、絢爛な浄土教美術を紹介し、中でも「浄土芸術に於て源信に匹敵すべきものとして、時代は稍降るが、為成がある(p.583)」という。宇治の平等院鳳凰堂の壁や扉に書いた浄土九品の図などの作者、詫磨(宅間)為成である。さらには彫刻でも定朝という天才が出た。
さらに、『往生拾因』を著した永観(ようかん)、融通念仏を称した良忍などに触れ、武士の浄土信仰や極楽願生歌(いろは47字+1字を歌の始めと終わりに置いて作った48の信仰の和歌)、後白河法皇撰の『梁塵秘抄』に見える浄土教的内容などを紹介している。
「第7節 時代の信仰」では、彌勒浄土と観音浄土の信仰を例によって飛鳥時代から遡って述べている。
まず、彌勒浄土については金峯山が彌勒出世の地であるという伝説などを紹介している。後朱雀天皇は兜率願生をなし、堀河天皇は彌勒上生を願った。そんな堀河天皇の遺髪が(天皇の希望ではなかったらしいが)高野山に納められたのは興味深い。
次に観音信仰については、平安時代には三十三観音が成立しており、また今昔物語第16巻は全40篇が観音に関する説話になっている。こちらもかなり人気があったようだ。後白河法皇の蓮華王院(三十三間堂)の千手千眼観音像一千体というのも、観音信仰がいかに盛んであったかの証左である。また観音の浄土へいくための補陀落渡海(熊野沖から出航)が考案されるなど、熊野信仰は極めて盛んになった。特に上皇等の熊野行幸は、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇・待賢門院等に見え、院政期の一大流行であった。とりわけ後鳥羽上皇は熊野行幸を30回以上行っており、今熊野社も建立した。
「第8節 信仰の形式化」では、信仰が型にはまったり数にこだわったりするような、形式を優先するものに変容していったことを述べる。
摂関期から院政期には、仏教だけでなく政治も文化も型にはまったような形式化が進んだ。「当時の信仰は、一方に於ては、弥陀の安養浄土に生まれんことを夢見つつ、尚此の世の安穏栄華を祈る(p.620)」もので、「当時の寺院は恰も今日に於ける劇場に類する(同)」。清少納言が枕草子で「説経師は顔よき」(説経師はイケメンがいい)と言っているのはその象徴だ。
また、平安時代には仏教が世俗化した。今に残る平安時代の寺院は多くが寝殿造であり、「寺が仏法修行の場所でなくて、持仏堂の如く、住宅の一つとなったことを示す(p.622)」。「即ち寺の建立は恰も別荘を設けるようなものである(同)」。
ここで藤原氏(北家中心)が建立した寺院が述べられているが、基経―極楽寺、忠平―法性寺、師輔―法華三昧堂、兼家―法興院、道長―浄妙寺・法成寺、頼通―平等院……など、ほぼ一世代に一寺院以上を建立しているのは、改めて見てみると異常だ。それは真摯な信仰の表れではなく、「藤原氏は、代々寺を建てたが、その多くは、住宅となり別荘となった(p.630)」ためだ。事実、道長は法性寺内の阿弥陀堂で療養しそこで亡くなっている。「かようにして、此時代の信仰は、表面には殊勝気に見ゆるものもあるが、其の裏面に入って見れば、甚だ浅薄なる形式的のもので(同)」あった。
それは、阿弥陀像に五色の糸を結ぶといった入滅の作法、焼身の流行(そのはじめは熊野那智山住僧応照だという(『本朝法華験記』))、頚くくり往生、入水往生といったものにも窺える。こうしたものは、命をかけているので形式的というには憚られるが、その実は名聞のために行われたと考えられるものも多い。
さらに、院政期には「数が多ければ信仰が深い(p.644)」と考える風が生じた。その極端な例が小塔供養である。保安3年(1122)、白河法皇が法勝寺に五寸塔30万基を供養したのを嚆矢として小塔供養が盛んに行われ、追って八万四千基の小塔を供養するのが流行した。鎌倉時代の建久8年(1197)にも戦没者供養の八万四千基の塔が供養されている。また僧侶の得度も多ければ功徳を積めるという考え方になり、鳥羽天皇の譲位前の保安3年(1122)に「一万人度者」が行われたことが石清水文書に見える。さらに寺への参詣、念仏、写経(一切経や大般若経の書写)、卒塔婆(建仁2年(1202)、宜秋門院が百万本の卒塔婆を供養した)、造像(摺仏)など、あらゆるものが数の多きを恃むようになった。
仁平元年(1151)、藤原定信は自筆で一切経を写し春日社に奉納しているがが、これには23年もかかったという。また安貞2年(1228)には筑前宗像の良祐が42年かけて一切経の書写を行っている。ただ、これらは形式といえばそれまでだが、かなりの努力を必要とし、数を恃む思想とはやや違った内実も感じる。
ちなみに写経にあたってはその料紙にも非常に凝り出し、お経が芸術作品になっていった。変わったものや手が込んだものに経を書く風潮はエスカレートし、しまいには蛤に経を書くものもあらわれた(蛤経)。「かくの如く、意匠を凝らし新奇の趣向を考えた結果、初めは信仰に趣味を含めていたものの、漸く堕落の傾向をたどり、遂に玩弄的となり、道楽になり、骨董的になった(p.680)」。読経が一種の芸能となっていたのもその傾向の一つとして位置付けられよう。
「第9節 俗信仰」では、陰陽道によって迷信的な信仰が広まったことを述べる。
平安時代には陰陽道が発達し、貴族たちは迷信・占いなどに捉われるようになった。承和の頃からは「もののけ」が跋扈するようになり、承和10年(843)にはもののけを攘うための仏事が大極殿と真言院で行われた(=もののけ対応は陰陽道だけでなく仏教も動員された)。村上天皇の時代に現れた藤原元方大納言の霊が『栄花物語』に描かれているが、それによれば、村上天皇の女御であった元方の娘生は皇子を生んだが、その皇子が立太子できなかったことを恨んで死後宮中に現れたという。「かの元方の大納言の霊いみじくおどろおどろしく、いみじきけはひにて、あへてあらせたてまつるべきけしきなし(p.698)」だった。
この「霊」が具体的に何だったかはよくわからないが、ともかく当時の人は「霊」を実体として感じていた。こういうもののけを退治する「高名にして効験著しき僧侶」を「げんざ」または「げんじや(験者)」と呼ぶのだという(=修験者とは別)。そういう「げんざ」がどうしてもののけを退治するのかというと、まずもののけを誰かに憑依させ、その後祈禱などをした。このようなもののけは、「一条天皇前後、道長全盛時代を中心とし、冷泉天皇・円融天皇から三条天皇・後一条天皇・後冷泉天皇の頃までに及ぶ(p.705)」。もののけは藤原氏の権力が低下するとともに消えた。権力闘争にともなって現れたのがもののけだったのである。
「第10節 修験」は、修験道の発達について述べる。ただし辻善之助の時代にはまだ修験道について本格的に研究されていなかったために、記述は概略的である。奈良時代の役行者伝説から始まり、源氏物語や枕草子に現れた修験道的な記述を振り返り、勅撰和歌集に載せられた和歌を列挙している。
第6章 平安時代後期
「第1節 造寺興盛」では、院政期における造寺の流行と貴族社会と仏教の近接について述べる。
後三条天皇は仁和寺の近傍に円宗寺(えんそうじ)を建立した(初めの名称は円明寺)。さらに延久5年(1073)、自らの皇子である仁和寺性信親王から戒を受けて法諱「金剛行」となった。この性信親王は「密教の大徳にましまし、屡々宮中に法を説き、孔雀経法を修すること21度に及んだという。世に弘法大師の再来といわれた(p.719)」らしい。
白河天皇が建立したのは法勝寺である。これは非常に豪華な寺で、十一間四面の阿弥陀堂、丈六阿弥陀像9体などてんこ盛りである。これは道長の法成寺さえ凌ぐもので「王家の氏寺」と呼ばれた(『愚管抄』)。特に永保元年(1081)に起工した八角九重塔はつとに有名である。なおこの寺院の造営は、成功(じょうごう)によって行われた。成功とは、経済的な奉仕の代わりに官位を与えるものである。この時代の寺院は成功によるものが多い。
法勝寺に続いて、白河の地に続々と寺院ができ六勝寺となった。すなわち堀川天皇の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、崇徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺、待賢門院の円勝寺である。その他建立された寺院堂宇の数はおびただしく、ここに掲げることは割愛する。なおその中に、永久年間(1113~18)に建立された内山永久寺が挙げられていないことが気になった。永久寺は戦前あまり注目されていなかったのだろうか。
つづいて鳥羽上皇も造寺造塔に熱心だったが、そこで大治4年(1129)に「祇園塔」なるものを供養しているのが目を引いた。祇園塔とは何だろうか。鳥羽上皇は鳥羽の地に成菩提院を造営しているが、ここに「白河院の遺骨を仁和寺香隆寺よりこの院に移し(p.737)」たというのは興味深い。またここは美福門院の御在所となった。このほか、法金剛院、得長寿院、宝荘厳院、勝光明院、安楽寿院(←五層の宝塔があった)などが造営されているが、これら4文字の名称には何か意味があるのだろうか。「〇〇寺」ではなく「〇〇〇院」になったのは、これらの寺院がそれまでの寺院とは異なるものであるという意識を感じさせる。
鳥羽法皇は鳥羽に離宮(鳥羽殿)を造営し、保元元年(1156)に崩御すると「此に葬り奉り、上に塔を建て、弥陀像を安ず(p.741)」。この近傍に平等王院・成菩提院・勝光明院・証金剛院・金剛心院等がある。
「第2節 高野山と覚鑁」では、平安時代中期に荒廃した高野山が皇室とのつながりで復興した次第を述べる。
鳥羽上皇の頃、堂塔の修営が行われたが、鳥羽上皇は高野山に行幸しており、また高野山に覚法法親王が住した。覚法法親王は白河天皇の第4皇子である。彼は法勝・尊勝両寺の検校・最勝寺長吏・仁和寺検校・円勝寺長吏・歓喜光院長吏を歴任し「高野御室」と称された。彼が行った堂塔供養のリストが掲載されているが、このリストはこの時代を象徴するものである。白河(三重塔・五重塔・三重塔)・法金剛院三重塔・鳥羽三重塔・高陽院七重塔など塔だけでもすごい数である。
このような状況で覚鑁が登場する。彼は鳥羽法皇と美福門院の帰依を受けた。ここでは覚鑁の伝記的事実が縷々述べられるが割愛する。
後に高野山では納骨が盛んになるが、ここで高野山西谷にあった菩提心院の事例は注目される。これは保元3年(1158)、八条院の御願として、美福門院が建立したものである。これに先立ち八条院は出家しており、保元元年に崩御した鳥羽法皇の菩提のために建立したのである。ここの本尊は大日如来像であるが、ここに八条院剃染の御髪を本尊胎中に納め、また、別に建立した阿弥陀堂に安置した阿弥陀如来像にも八条院の鬢髪を胎内に納めた。これはこの時代を象徴するものである。なお高野山は女人禁制であるため、美福門院自身は菩提心院に参詣できていない(!)のだが、美福門院自身も崩御後、その御骨は遺命により菩提心院に納骨された。「高野山に骨又は髪を納むる風習は、この頃より始まったもののようである(p.764)」。
「第3節 僧兵の原由」では、平安時代後期に至って僧兵が盛んになった様を述べる。
その理由は、まず寺院社会が世俗化したことが挙げられる。特に出身の家柄によって寺院社会での昇進が決定されるようになり、平安時代の半ば以降には極めて若年の者が僧綱に任じられるようになった。平安末に至っては僧綱の濫出が甚だしく、僧正が一度に五人任じられることもあった。「斯様にして、僧侶は一種の准貴族(p.773)」となった。そして寺院内に派閥が形成されて派閥の利益を優先するようになり、遂には武力に訴えることになって僧兵が出現した。…と本書は述べているが、僧侶の貴族化と僧兵の出現は直接には結びつかないように思った。やや論理の飛躍がある。
また僧兵の出現の一因に、得度の制度の紊乱もある。平安時代では、奈良時代に比べてかなり安易に得度が行われた。早くも延喜14年(714)に三善清行は「諸寺の年分及び臨時の得度者、一年内或は二三百人に及ぶ也。就中、半分以上は皆是れ邪濫の輩也(p.784)」と述べている。
なお僧兵は延暦寺の良源慈恵が始めたという説があるが、これは根拠が薄いという。良源の時に比叡山に勢いがあったので、良源を悪し様にいうものがあったらしい。だが「良源は悪僧の禁遏に努めこそしたれ、之を勧むる等のことは有るべき筈はない(p.783)」。
では僧兵たちは何を求め争ったか。それは(1)僧位僧官の叙任(座主や長吏などの不服。大衆にとって望ましくない人物が任命されたなど)、(2)荘園の問題、(3)寺院同士の権力闘争、の3つに大別できる。
僧兵たちの嗷訴ではしばしば神輿や神木が登場する。永保2年(1082)、熊野山の大衆が神輿を奉じて入洛して嗷訴したが、これが神輿入洛の始めである。これに倣って、春日神社の「神木」が興福寺僧徒によって入洛するようになった。春日神社は藤原氏の氏神であるから、こうなると藤原氏は皆謹慎して朝廷に出仕せず政治が停止する。そうして興福寺は無理な要求を通した。それでも要求が通らない時は、「放氏」した。放氏とは、興福寺の大衆が春日明神に告げて勘当する、つまり藤原氏から除名するというものだ。これは藤原氏にとって恐ろしいことだった。春日明神の神木の入洛は平安末までに8回あったという。(それにしても神木とは具体的に何を持ってきたのだろう。生えている神木を伐ったわけはないし…。)
一方、叡山の僧侶たちは日吉の神輿を舁ぎ出した。まずは嘉保2年(1095)、叡山の僧侶たちが日吉の神輿を山上中堂に遷した(神輿動座)。これは興福寺の神木に倣ったものらしい。また祇園の神輿は長治2年(1105)に入洛し、これが神輿入洛の始めである。次いで同年、日吉の神輿も入洛している(日吉の神輿は9回入洛した)。様々な勢力が要求を通すために行動がエスカレートしていった結果、神輿を入洛させるという形態になったようである。もちろん神輿を奉じない嗷訴はおびただしく、「其の主なもののみ数えて見れば、円融天皇天元4年(981)に始まり後奈良天皇天文18年(1549)に至るまで凡そ600年間に、無慮240項に及んで居る(p.795)」。
ここで本書にはその嗷訴年表が約30頁にわたって(!)掲載されている。
「第4節 悪僧神人の活動」では、寺院や僧侶が起こした様々な騒乱について述べる。
まずは延暦寺と三井寺(園城寺)の争いである。天台宗では、慈覚大師円仁の門流(延暦寺、山門)と智証大姉円珍の門流(三井寺、寺門)に分かれて争うようになった。延暦寺は三井寺を4回も焼き討ちした。
1回目は、永保元年(1081)。これはそれまで三井寺の僧侶が天台座主に任じられたり、三井戒壇建立運動などでたまった不満があったところ、小さなトラブルが発展して叡山の僧兵が三井寺を襲ったものである。この時焼けたのは、堂院79か所、経蔵15所、塔婆2基、鍾楼6宇、神社4か所、僧房621、舎宅1493であったという。この時は7分の1燃え残ったが、追って叡山の僧徒は再び三井寺を焼き討ちしてことごとく残りを焼いた。
2回目は、保安元年(1120)。この時も延暦寺が三井寺側に鳥居を建てたという些細な問題から騒動に発展し、山徒は三井寺を全焼させた。
3回目は、保延6年(1140)。この時は三井の寺主慶仁の子が山門の下僧を殺害したことがきっかけで延暦寺が三井寺を攻め、堂塔僧房一宇を残さず全焼させた。
4回目は、長寛元年(1163)。三井寺から戒壇設立を求める訴訟があり、これが延暦寺を刺激した。朝廷では延暦寺の言い分を認めて、寺門の僧侶も山門で受戒するよう定めたが、これが実現するはずがない。こんな時に興福寺から横槍が入り、そもそも比叡山は興福寺の末寺であるから、三井の僧徒が延暦寺で受戒するのを停止し、延暦寺を興福寺の末寺と認めるよう朝廷に要請した。この状況に延暦寺は三井寺を襲って焼き討ちしたのである。
なお比叡山では仲間内での争いも多く、東西の両塔がしばしば合戦している。また座主と大衆の争いも多い。座主の人事は大衆の不満のタネであり、朝廷もそれを無視できなかった。
多武峰と叡山の争いも激しい(多武峰は叡山の末寺になっていた)。興福寺と多武峰の争いもあり、興福寺は多武峰を焼き払っている。寺院同士は対立していないところがないほどである。
先述のとおり興福寺と延暦寺も激しく争った。特に天永4年(1113)の争いは 延暦寺で出家した仏師法印円勢が清水寺の別当に補されたことを興福寺が不服としたことから争いが始まり(清水寺は興福寺の末寺だった)、延暦寺側が清水寺を破壊、さらに日吉の神輿で院御所に迫った。興福寺もこれに負けず、朝廷に入洛をちらつかせて不法を訴えた。板挟みになった朝廷は各社に奉幣して鎮圧を祈った。この時に石清水に納められた鳥羽天皇の宣命案に「獅子の身中の虫の自ら獅子を食うが如し」とあるのは有名である。さらに、東寺の寛助に命じて大徳威法を修し衆徒の鎮静を祈ったが、そのようなことに効果があるはずもない。この争いはついに両寺僧徒の直接の戦いとなり、結局それを鎮圧したのは武士である。
当然ながら白河上皇はこうした騒乱を好ましく思わず、強硬に取り締まりを行おうとしたが、「取締に方針が立たず、主義が一貫せず、朝には山徒の言に聴き、夕には南都の大衆の訴を容れる(p.871)」という調子だったから、有効な対策とはならなかった。このような僧兵の動乱に備えるために武士が抬頭したのも当然であろう。
嘉応元年(1169)、後白河上皇は薙髪し、園城寺で受戒した。これは先述の三井寺4度目の焼き討ちの後である。これは当然に興福寺を刺激し、大衆が蜂起して神輿を奉じて宮城に入り、神輿を建礼門の壇上に置き去りにした。これへの朝廷の対応はまったく方針の立たないもので、山徒の要求に従ったかと思えばそれを取り消すなど、混乱を助長している。
その他、悪僧神人の起こす騒乱は枚挙にいとまがなく、ここにいちいち記すのは煩わしいほどだ。そんな中から延暦寺の学徒と堂衆の対立の事例を述べる。これは治承2年(1178)から翌年にかけて起こった騒動である。「事の起りは、釈迦堂の堂衆に来乗房義慶という者があり、その所領が越中にあったが、其所へ学徒の叡俊という者が下向して、その所領を横領した(p.912)」ことである。ここで注目されるのは、堂衆が個人で所領を持っている人がいたこと、そして学徒(学侶)がその所領を横領していることである。ともかくこれをきっかけに学徒と堂衆が集団的に対立し合戦に至った。これは、前僧正明雲を天台座主に返り咲かせることで収まった。これは、平清盛が明雲と結託して、明雲を用いて山徒を抑えたためであろうという。
頼朝の挙兵後、山門寺門ともにこれに呼応するものがあると、平清房は三井寺を攻めてほとんど皆焼き払った。さらに重衡は南都を攻めて東大寺・興福寺を焼いた。「清盛にとっては、かくの如きは一向平気であったに相違ない(p.918)」。清盛は迷信的でなく、合理的思想の持主だったのである。ここで本書は擱筆されている。
最後に、これまでメモしたことを改めて振り返り、院政期を中心とした平安時代中期以降の仏教についてまとめておきたい。
まず、この時代には浄土教が非常に発展した。そしてその信仰は華美なもの、数量が莫大なもの、芸能的なものに傾き、遊興的な要素が強くなった。造寺造塔は非常に盛んになったが、それは寺院というより邸宅の要素が強い。またそれらは菩提寺の性格を強く持ち、納骨が寺院と強く結びついた。
平安時代前期までの朝廷は天台宗(延暦寺)との関連が深く、天台座主の叙任権も朝廷が引き続き持っていた。しかし次第に延暦寺の大衆が力をつけ(おそらくは独自の荘園などの経済基盤を持っていたためだろう)、朝廷が押し付ける座主を快く思わないようになった。一方、上層僧侶である学侶は大衆とは対立していたが、それでも朝廷に従順だったとはいいがたく、比叡山は混乱を極めた。その矛先が向かったのが三井寺(園城寺)であり、些細なトラブルから4度も焼き討ちをされたのは気の毒という他ない(なにしろほぼ20年ごとに焼かれている!)。
朝廷が、ままならない比叡山(天台宗)に代わって頼りにしたのが真言宗である。東寺や高野山を頼ったのははもちろん、天皇・上皇・女院たちはこぞって真言宗の御願寺を建立した。また高野山は、納骨を勧めることによって天台宗とは全く違う方向性で発展することになった。そして真言宗と朝廷とのつながりに一役買ったのが覚法法親王という白河天皇の皇子だったのはこの時代を象徴している。貴顕の人々は組織的に出家するようになり、出家の持つ意味は全く変わった。なお出家そのものではないが、定朝が仏師として初めて法橋という僧位をもらったのも、仏教の変質を示唆している。
このように、院政期は仏教史において大きなターニングポイントであった。辻善之助は、仏教が形式化して僧侶が堕落した、というように口を極めて批判しており、それは否めないにしても、大きな変革の時代の仏教として評価できる部分も大きいように思った。ただ、辻は批判的ではあっても、この部分の記述は非常に詳細であり、奈良以前の古代仏教が意外とあっさりした書きぶりなのとは対照的である。重要な時代であるという認識であったことは間違いない。
未だに価値を失わない、院政期仏教論の嚆矢。
※通常、本ブログでは書影を掲載しているが、本書は戦中に出版されたためなのか、函にも本にも表紙にあたる部分に一文字も書いていないため書影を掲載しなかった。
【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。
『平安京と中世仏教——王朝権力と都市民衆』上川 道夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post_8.html
平安時代末期の歴史を仏教史を軸として述べる本。摂関期・院政期の仏教がそれまでとは違ったものになっていったことを、様々な事例から述べる良書。
『覚鑁—内観の聖者・即身成仏の実現(構築された仏教思想)』白石 凌海 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_12.html
覚鑁(かくばん)についての唯一かつハンディな貴重な評伝。
『王法と仏法—中世史の構図』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_10.html
仏教をキーにして中世社会を考察する論文集。「「院政期」の表象」を所収。
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。
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