日本中世における出家の要因を分析した論文。
本論文は、同著者の「出家入道と中世社会」に続くものである。この論文では中世において〈出家入道〉と呼ばれる存在が、社会のあらゆる階層に大量に存在していたことを示した。しかし彼らがなぜ出家したのかは、10の要因が概略的に述べられるのみであった。そこで本論文は、彼らが出家した理由を史料を博捜してまとめ、分類整理している。一見してわかるように本論文は非常なる労作である。
なお、前掲論文では「家督を保持したままの出家得度者」を〈出家入道〉と定義していたが、本論文では「寺院に所属しないまま世俗活動を行っている僧形の人々」を「在俗出家」と規定し、また明示はされていないが、そのような出家そのものも「在俗出家」と呼んでいる。さらに「在俗出家のうち、出家した後も家長・家妻として家督・家政権を維持して世俗活動を継続するもの」を〈出家入道〉と定義しなおしている。両論文で用語の使い方に微妙な差があることに注意しなくてはならない。やはりここでも家督がポイントになるのだが、本論文を読んでも家督の有無にどういう重要性があるのかはよくわからなかった(例えば家督を継承していない嫡子が在俗出家する場合は〈出家入道〉ではないが、そういう区別が議論のどこに効いてくるのか)。
また、本論文で分類整理される出家の理由では、在俗出家の場合と、在俗出家後に世俗活動を停止する〈遁世〉の場合の2種類を区別していない。これは実際上区別が難しいためである。ただし顕密僧になるための出家は除かれている。
本論文は、史料上から理由が明確な、あるいは推測が可能な在俗出家・遁世の出家の事例が40ページ以上にわたって掲載されており俯瞰は困難だが、自分なりに以下にまとめてみた(番号は著者によるもの)。またそれぞれについて主な事例(人名と出家の年)を適宜抜き書きした。
1.自発型出家
①病死を覚悟した出家(藤原道長1019←権力者の在俗出家の嚆矢となった重要事例)
出家による治病効果を期待したもの(後三条上皇1073)
②厄
厄による死を覚悟した出家(洞院公賢1359)
厄払いを目的とした出家(後三条天皇1073)
③発心(狛則康1156、源雅定1154、藤原兼房1199、殷富門院1192)
④高齢(藤原宗忠1138)
⑤充足(後白河院1169、後深草院1290)
⑥他者の死
(a)主人(源顕基1036←天皇の死に殉じた出家の早い事例。殷富門院の女房多数1192、北条時頼の御家人多数1263)※鎌倉時代に膨大な事例がある。
(b)夫(後三条院・後白河院・後嵯峨院・亀山院・伏見院の女御、坊門信清女1219)
※夫からの相続を確定させる意味もあった。
(c)妻(九条兼実1201、後宇多院1307←純粋な思慕から!)※事例少数
(d)子(白河院1096←郁芳門院の死:重要な事例)※事例少数
(e)養君(乳母・乳父の出家)(北畠親房(1330))※詫びの意あり事例多数
(f)父母(聡子内親王1073)※不婚内親王に多い
(g)きょうだい(良子(後三条天皇の姉)1073)
⑦同心の出家←誰かと同時に行う出家。
(a)主従(花山天皇・藤原義懐・藤原惟成986、亀山院・北畠師親1289)
※栄誉の意味があり事例多数だが、近臣にしか認められなくなる
(b)夫婦(藤原忠信夫妻993)※夫婦で同心出家すると治病効果が高いとされた
(c)親子(仁明天皇と皇子850)※中世では確認できず
(d)きょうだい(藤原定家の娘姉妹1233)
⑧政治的敗北
(a)左遷回避(藤原伊周996)※左遷先の大宰権帥が朝廷官職だったため
(b)引責・謹慎・助命(安倍則任1062、源為義1156、高師直1351)
※事例多数。次第に単なる出家では許されなくなり、黒衣・喪無衣といった遁世僧の装いを要件とするようになった。
(c)嫌疑を晴らすため(斉世親王901←在俗出家ではない、宇都宮頼綱1205)
⑨失意・諦念(惟康親王1289、四条隆顕1276、新陽明門院1290)※宮中の女性に多い。
⑩恥辱(下河辺行秀1193、藤原季輔1130、吉田経藤1261)
⑪不満・抗議
(a)官位官職への不満(藤原通憲(信西)1143、新田政義1244)
(b)政治的抗議
(b1)権勢者による権力闘争の一手段(後深草院1274(未遂)、足利義嗣1416)
(b2)政治的下位者による抗議(北条貞時後家ほか1326、飯尾元連ほか40名1485)
※ストライキのような集団出家が行われていた。事例多数。
(c)親または子への抗議(藤原公賢1226←愛妾との離縁を迫る父への抗議、紀良子1374)
(d)夫への抗議(小川禅啓妻1425←新妻に嫉妬、北政所吉子1348)
※夫の了解ない出家は離縁された。むしろ離縁のための出家もあったかも?
⑫主従関係の解消としての出家(荻野景継1212、西園寺公経1217)
⑬政争や戦乱に巻き込まれるのを回避するための出家(和田朝盛1213、金沢貞顕1326、葉室長隆ほか1336、宣政門院1339)
※近親者の死などを名目として、主君から距離を置くため出家した。
⑭政治的野心のないことを表明するための出家(伏見宮貞成1425、足利義視1489)
※自ら身を引くことで自分の子息を要職に就かせる意図もある。
⑮入道成(村や町で入道として扱われるための出家)
2.強制型出家
①政治的軍事的な敗北者に対する強制的出家(源頼家1203、足利直冬1349、後鳥羽院1221)※出家を条件に助命するなど。
②(敵対関係にない)上位者からの出家の提案によるもの(千種忠顕ほか1336)
③同心出家の強制(四辻季顕・斯波義将・大内義弘ほか多数1395←足利義満との同心。義満は同心出家したものを優遇した)
④後家に対する強制的出家(菊亭公行女1425)
※夫が死去したら後家は出家するものという社会通念の押し付け。
3.複合型出家
①一般複合型(九条頼経1245←年来の素懐+彗星+病気)※ほとんどの出家は複合型②口実型(大庭景義1193、新田政義1244、名越光時1246)
※本当の理由は処罰・抗議などであったとしても、角が立つのを避けるために出家を口実にした。
4.死後出家
(藻璧門院1233、後光厳院1374、後円融院1393)※院政期には必要とはみなされておらず、鎌倉時代までは例外的。室町時代になると相当な広がりがある。
以上である。ここまででも本論文が恐ろしく濃密であることがわかると思うが、これに続いていくつかの考察を加えている。
まず、在俗出家は戒律を気にしたか。これは、禁欲を貫くか、最初の頃だけ禁欲するか、ほとんど禁欲を意識しない、という3タイプがあり、人それぞれであった。また性的禁欲はせずとも魚を食べないといった禁欲もある(白河院)。ちなみに後白河院は全く禁欲を意識しなかったタイプで、著者は「とても出家者の振る舞いとは思えない」と述べている。持戒持律は少数派であったが、それは「中世では本当の意味での自発的な出家が少なく、社会的要因によって出家を余儀なくされることが非常に多い」ためだという。
次に殉死について(出家と直接の関係はない)。中世では殉死の例は少ない。なぜ殉死が少ないのか。著者は、そこに輪廻転生の死生観(仏教的六道観)が影響していたと見る。生まれ変わっても主従になるとは限らない。だから殉死の意味が薄いのだという。ただし、ともに浄土に行くという観念を持っている人もいる。こういう場合は殉死が行われた(本願寺実如の死(1495)では切腹した門徒がいた)。
次に、なぜ〈出家入道〉が盛行したのかという要因を考察している。それをまとめると、第1に藤原道長を嚆矢として権勢者が出家し、人々がそれに倣ったこと、第2に中世人が仏道に強く憧れており、世事と仏事の二兎を追いたい心情があったこと、第3に道心にもとづかない出家が大量に存在し、特定の状況になった時に出家すべきだという同調圧力や権力者に媚びを売るための出家さえあったこと、第4に中世では諸職が相続されるようになった結果、父権が非常に強くなり、朝廷や幕府の官職を退いても世俗社会の実権を掌握していた家督保持者が現れたこと、第5に〈出家入道〉でも世俗活動を続けてもよいという社会通念が形成されたこと、第6に〈出家入道〉の在り方を本覚思想が正当化したこと、である。
「むすびにかえて」では、まず〈出家入道〉の服装について述べている。〈出家入道〉は必ずしも僧衣ではなかったようだ(黒衣と聖道の2通り)。そこで室町時代の幕府の規定では服装が「俗人」「僧侶」「〈出家入道〉」の3本立てになったらしい。その規定を見ると〈出家入道〉は法皇や貴族の顕密僧の身分標識を流用していた模様である。つまり〈出家入道〉になると身分が少し上がったようになるのである。だが皆が皆そういう装束をつけていたわけではなく、貴族出身の〈出家入道〉でもそれとわからない黒衣の者もいた。つまり〈出家入道〉は服装も境界的なのである。
次に専修念仏との関係について簡単に触れ、「ほぼ無関係」と結論し、「〈出家入道〉とは基本的に顕密仏教の浄土教にものづくもの」であったとしている。そして最後に「〈出家入道〉の衰退に関わる難問」として、〈出家入道〉が16世紀に急減する現象の理由について「今の私には答えが出せていない」と述べている。最後に「出家・遁世の要因については、一層精緻な検討が必要であろう」として擱筆されている。
さて、私自身の関心としては、なぜ人々はわざわざ在俗出家したのか、ということにある。前論文での私の理解は、「出家とは現代の人が要職を退くのと似たようなものだった」というものだったが、本論文を読むとそこまで単純なものではないと感じた。また、著者は中世人は仏道に強く憧れていたと強調するが、それは事実としても、時代が進むにつれて自発的なものより「やむをえず出家した」というケースが増えるように思われる。なんだか出家が「目的」ではなく「手段」になっている。
そういう意味で注目したのは斯波義将の場合である。彼は足利義満が出家した際に「断り切れなくて」出家した。そして斯波義将が出家したことで〈出家入道〉の管領が誕生している。なぜ注目したのかというと、彼が出家したくなかった理由がわからないのだ。なにしろ、出家したからといって彼の人生に不利益が生じるようなおそれはなかった。もしかしたら、彼は出家したら持戒しなくてはならないと考えていたのかもしれないが、であるにしても「世事」と「仏事」の二兎を追うことができるのを喜ばしく思わないのだろうか。さらに義満は、この時いろいろな人に強引に同心出家を押し付け、万里小路嗣房は「出家料」として従一位に叙せられている。出家した者への優遇措置まであったのだ。となれば出家に及び腰になる理由はない。「手段」としても悪くはないのだ。それでも斯波義将が出家したくなかった理由は何か。これは中世の在俗出家を考える上での糸口かもしれない。
斯波義将のように本心では出家したくなかった人はたくさんいて、強制型出家は当然として、自発型でも⑧政治的敗北、⑨失意・諦念、⑩恥辱、⑪不満・抗議、⑫主従関係の解消としての出家、⑬政争や戦乱に巻き込まれるのを回避するための出家、⑭政治的野心のないことを表明するための出家、などはそれにあたる。在俗出家が一般的になった結果、特定の状況になった場合には出家するべきだ、という通念さえ生じたのである。
つまり出家とは、「自ら望んでそうする人にとっては名誉なことだが、やむを得ずそうする人にとっては罰則的な意味があり、またある文脈でそれをすることは抗議やストライキの意味も持つ」といった行為であった。これは前述のとおり現代での「要職を退く」のと概ね共通している。
だが「要職を退く」ことは実際に仕事から手を引くことであるが、在俗出家の場合は、引き続き従前の仕事を続けていることも多い。この点で出家は「要職を退く」のとは決定的な違いがある。ただし、本書の事例を見てみると、「やむをえず出家した」場合は実際の社会生活の面でも引退・縮小を余儀なくされている場合が多いようである。
つまり在俗出家は自発的な場合と、やむを得ない場合で違う扱いがあったのかもしれない。であっても、やはり斯波義将が出家したくなかった理由は謎だ。彼の場合は社会的な面で不利益がないからだ。仏法が好きでなかった、なんてことはないと思うのだが。
また、やむを得ない出家の場合に社会生活の引退・縮小が必要なのだとすれば、なおさら出家の持つ意味がよくわからなくなる。つまりこの場合の出家の本質が社会生活の引退などであれば、むしろ出家自体が不要で、引退さえあればいいのではないか。わざわざ出家させなくても、免職・隠居などを求めれば済む。実際、江戸時代にはそうなっている。出家の持つ意味はなんなのか。
これは入道成(にゅうどうなり)でも似たようなことが指摘できる。町や農村において、指導者層の仲間入りするために出家するのが入道成である。なぜ出家すると指導者層として扱われるのか。本論文では出家成の際に町に祝儀を納める必要があったことを指摘し、「在俗出家を行うために共同体に米銭を納めているわけであるが、それは逆にいえば、出家することが、世俗社会における地位の上昇につながっていることを意味して」いるのだとする。これは、現代の社会で、それなりの社会的地位の人・企業が祭の協賛金を一定以上出す暗黙の了解があるのと似ている。とはいえ、入道成の本質が米銭の納入にあったとすると、わざわざ出家する必要はなく、ただ費用負担さえすればよいということにならないか。やはり出家の持つ意味はなんなのかという問題になってくる。
それから、在俗出家を考えるにあたって本論文が全く触れていない点がある。それは還俗(げんぞく)だ。還俗とは出家を辞めて俗人に戻ることである。社会生活の引退や米銭の納入と出家とが決定的に異なるのは、出家が一方通行であることだ。一度出家したら後戻りすることができない、と中世の人は考えていたようだ。だが、近世になると還俗はありふれたものになる。もし還俗ができるならば斯波義将も出家をためらうことはなかっただろう。中世人が出家に意味を付与していたのは一方通行だったからと考えられる。
とすれば、著者が不明とする「〈出家入道〉が16世紀に急減する現象の理由」も、このあたりにあるかもしれない。還俗することが普通になると、「やむをえず行う出家」などあまり意味がなくなるからだ。本論文は在俗出家の事例を幅広く探った、いわば「在俗出家の歴史」であるが、これと対をなす「還俗の歴史」を解き明かすことによって、在俗出家がより深く理解できるのではないだろうか。
※大阪大学大学院文学研究科紀要、2015
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