本書は、昭和16年に東京帝国大学で行った全7回の教養特殊講義の講義録である(終わりの2章は事情があって講義を中止したらしく手控えの浄書)。
その最初に、私はちょっと度肝を抜かれた。著者は青年たちを前に説教するのである。
曰く、「青年時代は、地元の祭のやり方を継承していく大事な時期である。しかしそんな時期に君たちは勉強ばかりして、地域から離れてしまった。そんなだから地域の祭が廃れるのだ。それどころか君たちは、地元の人々をまるで別民族を見るように蒙昧だとみなし、無意味なことを続けているとさえ思っている。しかしそれこそが無学であり無智なのだ」というようなことを諄々と述べるのだ。なんと講義の第1回は丸々この説教である。東京帝国大学の学生たち(いうまでもなく超エリートだ)も、これにはびっくりしたと思う。
この初回の説教には、著者の問題意識が明確に表れている。著者は、このままでは祭は衰微し、元来どうであったかがわからなくなってしまうと強く危惧している。そして目の前にいる学生(と、その背後にいた官僚)は、まさにその原因となっている存在だったのだ。祭は、「大学の繁栄と学者の増加とによって、あるいは断絶してしまうかと恐れている日本の伝統(p.237)」なのである。
日本には数多くの祭がある。それらに共通した要素もあるが、まちまちの要素もある。ではそれらの根源とは何だろうか。著者は最後まで「祭の根源とはこれだ」とは言わない。ただ民俗学の知見を使って、より古い姿、より根源的なものに迫っていく。
最初は、祭と祭礼についてである。祭と祭礼は同じものではない。祭礼というと、いろいろな趣向が凝らされ、催し物が付け加わる。そしてしばしば神輿の渡御を伴う。つまり祭礼とは遊興的なものだ。元来の祭にはこういうものはなく、厳粛なものであったと考えられる。ではなぜ祭が遊興化したか。それは信仰をともにせず祭りを見物するだけの人々が登場したことによるのではないか。
次に、「祭には必ず木を立てるということ、これが日本の神道の古今を一貫する特徴の一つである(p.264)」と述べ、祭場の標示について考察する。ここでいう木は、自然の木や枝もあれば、木を削ってつくった大小の棒もあるが、生木の方が古い民俗だと考えられる。古い時代にはかなり高い木・柱を祭に立てたらしい。柱と祭と言えば、諏訪の御柱(おんばしら)であるが、著者は、これは御柱のために祭をするのではなく、「私はむしろ反対に、六年一度の大きな祭をするために、必ずこの高い樹を立てることになったものと考えている(p.271)」とする。
この木は、祭の庭を標示して、その周り(またはそれで囲まれた領域)を清浄に保つという機能を果たしていたのかもしれない。ともかく、祭を行うということは、その場の清浄が保障されることが必要だった。
また、祭への参加(特にその主宰)には物忌・精進を必要とした。これはなかなか大変なことで、精進屋という仮小屋で一定期間生活しなければならないような場合もあった。また、祭の日には集まって食事を共にする場合が多い。これを懇親会のように考えている者も多いが、これは単なる楽しみの寄り合いではなかった。むしろ「「籠る」ということが祭りの本体だったのである。すなわち本来は酒食をもって神を御もてなし申す間、一同が御前に侍坐することがマツリであった(p.300)」。
しかも籠る=物忌というのは、結構期間が長かった。この物忌みの期間は、元来、食物の規制は弱かったらしいが、音を出してはいけないという禁忌があったり、針仕事をしてはいけなかったり、地域によっていろいろで、なかなかやかましかった。物忌とは通常生活(特に生産生活)から離れるということに本質があり、毎日働かなければならない者にとっては負担が大きかった。
これと似ているが別系統と思われるのが祓(ハラエ)で、こちらの淵源はミソギにありそうである。ミソギとは水によって身を清めることだ。この、水をもって身を清めた上でないと神前に進めないという習俗は、今でも手水鉢となって残存している。いうまでもなく、これは祭の清浄性と関わっている。なお面白いのは、物忌では髪を洗ってはならないなど、清浄性とは真逆の規制があることである。
祭では馬と弓の競技のような様々な催しが行われ、灯明や篝火を焚いて普段は食べられぬような食事が供されることが多い。これらは貴人を歓待するやり方と同じであることは注意される。また、祭には舞と踊りが付属することも多いが、舞については貴人歓待というより、元来は神のよりましとなって神託を受けるためにトランス状態になったもののようだ。それは女性や幼童の役目であった。
このように一応祭を構成する要素を検討してから、著者は「改めて再び祭の中心はどこにあるか、何が最も主要な事務であったかを、できるだけ単純に考えてみなければならぬ(p.356)」と述べ、後半に続く。
ではマツリに必ず備わっている要件はなにか。それは第1にミテグラを立てること、第2に必ず飲食を伴うことの2つである。第1の点は御幣・玉串・笏や扇子などいろいろとあって一定せず、必ずしも共通とはいえないが、第2の点は著しい全国の共通点である。では神にどうやって飲食を進めたかというと、鳥についばませたり、狐に持っていかせたりする地域、また小児を神の代わりにした地域もある。神に飲食を進めるというのは、ただお供えするだけではなかった。
またその料理も、特別の鍋釜や膳椀があり、いつもは食べないものを用意した。また平生は忌むようなやり方で食物を供する場合もある(膳の木目を縦にするなど)。
直会(なおらい)というのは、祭の後に関係者で食事をすることであるが、これは今では神にお供えした食物の「おさがり」であると思っている人が多い。しかしそうではなく、そもそも祭の本質とは、神と人が特別な食事を相饗(あいあえ)することにあったのではないか。
今ではこの観念が衰退して、魚とか野菜を生のまま神へ奉げることが多くなったが、元来は特別に調理したものを奉げていたのは疑いない。そして神様用、人間用(直会用)とが別になってしまい、神との相饗という要素が減退してしまった。それは、祭に新たな要素(遊興的な要素)が付け加わっていった結果、その中心が供饌(ぐせん)以外のものに移行してしまったためであろう。
次に、祭を取り仕切る者を見てみると、大まかに分けてハフリと神主がある(ただし区別されていない地域もある)。おそらくはハフリ(祝)は職業ではなく地位を示すものであった。これが大夫(タユウ)になると、神職が職業化する一歩前の段階になる。家の特権として神役を世襲し、これが進んで専業の神職へなっていったと思われる。そしてこうした神職には、古来から神勤を世襲してきた家柄である場合と、後になって外部から移住してきた者による場合の2通りがあったようだ。特に移住してきた神職が神社の由緒を説くようになると、神社縁起は潤色された。それは元来の由緒縁起を攪乱することであったが、そうでもなければわざわざ神社縁起など残っていなかったかもしれない。
そして近世には、専業神主が現れるようになる。その要因は2つあった。第1に神道家が神事のやり方を煩瑣に規定して素人では果たしがたくし、また秘伝や口伝などを用い専業以外を締め出すようなことをしたこと、第2に祭に必要な物忌・斎忌を厳密に守ることは普通の人には困難で、専門の人に任す方がよいという趨勢があったことである。特に第2の点については、忌を完全に守らないと祭の効果が現れないばかりか、かえって悪い結果を招くとまで観念されていた。こうした風潮の中、代願・代参・代垢離のような、一人を代理者と決めてその一人に忌を厳重に守らせ、代行させる風習も盛んになった。こうなると専業神職にゆだねることになったのは自然の成り行きであろう。
それから、神社を参拝・参詣するとはどういうことか。当たり前のようだが、著者はこれを検討の俎上に載せる。こういったところに著者の慧眼が光っている。そしてこれを考えるため、著者は「お賽銭箱がいつから、いかなる必要に基づいて始まったか」を考察する。そして、これは「オヒネリ」から来ているのではないかと推測する。オヒネリ(またはオセンマイ)とは、洗米を紙に包んだもので、著者の経験ではこれを賽銭箱の上に撒いたのだという。つまり元々、紙に包んだ洗米を神社に奉納する慣習があり、これがいつのまにかお金に変わったと考えられる。そしてこれは、神社への参詣の道を開くものであった。
元来、神社は氏子が祭の時に集うもので、旅のものが気軽に参詣するものではなかったと思われる。「祭と参詣は、最初から二つ別々のものであった(p.402)」のだろう。しかし旅に出ることは神への信心を高めることとなり、旅先の神社に参詣することはまた重要な経験であった。
そもそも、神社に行って何を拝むか。そこで拝む神というのは、具体的に何を指しているものか。ここでいう神というのは、歴史ある大社のそれではなく、地域の社、すなわち鎮守とか氏神とかウブスナと呼ばれている神社のそれである。著者はいろいろと考察した末、「神が祖霊の力の融合であったということは、私はほぼ疑っておらぬ(p.425)」としながらも結論は避ける(これは後に『先祖の話』で結論づけた)。
そして最後に、明治政府の決定では、神道は宗教ではなく、また神社も宗教ではないとされたことに触れ、それには「普通の定義によればこれは信仰であり、また系統があるから一つの宗教であるともいえる(p.427)」とし、政府が神道や神社の興隆に力を入れている一方で、それがかつての伝統をないがしろにするものではないかとやんわりと危惧を表明している。
さて、本書には神社論として大きな特徴がある。それは、神話と天皇について全く何も触れていないということである。当然、著者が見落としていたのではなく、意図的にこれを避けたのだ。昭和16年といえば皇紀2600年にあたり、国家神道が最も高揚していた時期である。当時の神社や神道に関する本を読んでみれば、「かけまくも畏き天皇陛下」に言及しないものはなく、敬神が「国民の精神」であったと強調し、また日本の神話が歴史的事実であったことは前提となっている。そんな中で、本書に神話と天皇が全く登場しないことは、著者の強い意志を感じる。
それは、神話と天皇については、当時の状況からして学問的に批判検証することができないため、あえて不問にしようという態度なのに違いない。よって祭神についてもほとんど議論はない。そういった議論になりそうになるとあえて迂回するのだ。こうした迂回を行うことそのものが、今から見ると政府に対する不満の表明のようにも見える。
しかし著者は、政府の宗教政策をやんわりと批判はするが、決して真正面から否定はしない(といっても、そのやんわりとした批判すらも、柳田國男にして可能となったものなのだろう)。そして神話や天皇に関することでなくても、意図的に曖昧に書いているらしき箇所がある。特にそれを感じたのは、「神社に神は常在したか」という問題が、提起されながらも考究されなかった箇所である。
本書全体の議論を踏まえて要約すれば、日本の祭の根源的な姿というものは、「一年の特定の日に、山などにいる神を清浄な場所にしつらえた依りましに下ろす(依りましはモノの場合と人の場合がある)。そしてこの日のために一定期間物忌を行って身を清めた参加者が集い、神と共に特別な飲食を分配して食べる。時には、神が一定のコースで移動し、人々はそれと共に行列をなす。そして祭が終わると神は帰っていく」というようにまとめられる。
であれば、明らかに神社に神は常住していない。祭の行われていない時の神社は、敬うべきものではあっても、拝むものではない。にもかかわらず、政府が毎朝神拝をさせていることに「合点がゆかぬ」と著者はいう。神は、毎日拝むようなものでも、そうたびたび参拝するようなものではなかった。明治政府は、祭の根源ではなく、新しく付け加わった要素の方を中心として新しい神道を構築したのである。そしてその中心が、神話と天皇であった。
そうではあるが、神話と天皇は祭や神社に歴史的にも深くかかわっている。よって、本書の考察に神話と天皇が入っていないことは、その論考を少しいびつな構造にした。これは著者も十分認識していたと思う。そのために本書は不完全なものになったが、一方で、現代でも通用する神道論になったのもこのおかげだ。
なお、本書を読みながら気になったことがある。これは本書にはあまり書いていないことだが、本来、神が下りてくるのは夜だったのではないかということだ。つまり日本の祭は基本的に夜に行われていたのではないだろうか。同じことをやるのでも、昼やるのと夜やるのではかなり違う。この点は改めて考えてみたい。
また、書いていないといえば、本書にはご神体についての議論もない。これも政治的なことから避けたのであろう。だが全国の神社のご神体が何であるか、これは著者に民俗学的見地からまとめてほしかった。太平洋戦争の頃、柳田の学問は完成期を迎え、最も充実していた。もし、この時期が少しずれていたとしたら、神話や天皇についても考察に含めた「日本の祭」が分析されていたかもしれないと思う。それが書かれなかったのは実に惜しかった。
不自由な状況の中で日本の祭を考究した異形の講義録。
【関連書籍の読書メモ】
『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
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