〈出家入道〉に光を当てた論文。
中世には、大量の僧形の人がいた。そこには、専門の僧侶ではなく、俗人としての生活を続けながら僧形になっていた人〈出家入道〉が数多く含まれる。しかしこれまで、そうした人々は研究の対象となっていなかった。本論文は、その存在を初めて体系的に明らかにしたものである。
なお、本論文における〈出家入道〉は「家督を保持したままの出家得度者」と規定している。なぜ〈〉付きかというと、出家・入道ともに歴史的に使われた言葉だが、これは著者が「歴史用語」として定義して使っているからである。なお、本書では女性の〈出家入道〉は除外されている(別に改めて検討するとしている)。
本論文では、先行研究を簡単に整理した後、「出家」「入道」「遁世」の用語について検証している。近年、「遁世」は「二重出家」(顕密僧を辞めること、出家後に社会生活から撤退すること)の意だと定着してきたが、歴史的な用語としては必ずしもそうではなく、「出家」「入道」「遁世」は同じ意味で使われてきた。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて、出家しながらなお家督を保持しているものが表れた。そこで「出家」の後に「遁世」が来るという二段階の意味になっていったのである。
なお、〈出家入道〉の概念に「家督」が関わっていることは私には意外だった。一見、出家と家督には直接の関係はないと思われるからだ。例えば家督を継承しなかった男性が出家し、それでも世俗活動を継続していたとしても、本書の概念規定ではそれは〈出家入道〉ではない。当然、「家督」とは何か、という議論がこれに影響してくるが、本論文では特に何も言及がなかった。
さて、ではそもそもなぜ人々は出家したのか(ここでいう出家は顕密僧になるための出家ではなく、〈出家入道〉の出家=俗人のままの出家)。それは、第1に病気のため、第2に高齢のため、第3に恥辱や挫折のため(後輩に官位を越されるなど)、第4に政治的軍事的敗北による引責・謹慎や命乞いのため、第5に主人の死に殉じるため、第6に主君と家臣や夫婦の同心出家、第7に近親者の死を契機とする出家、第8に厄年のため、第9に発心出家(←これが本来の出家)、第10に現世への充足である。現世に満足し執着することは地獄に落ちる要因と考えられていたからである。
これを見ると、第8~10を除けば、現代の人が要職を辞するのと似ている。〈出家入道〉とは、「要職は退いたが、引き続き会社には務めている」というような状態ともいえる。そして「貴族が出家するには勅許が必要であったし、武家が出家する場合には将軍の御免を要した」。特に鎌倉幕府は勝手に出家することを「自由出家」として所領没収の咎に処した。なぜ俗人としての仕事を続ける前提であったのに、「自由出家」を禁じたのだろうか。なお妻の出家の場合は夫の了解を得なければ離縁となった。
次に、各階層での〈出家入道〉の事例を史料を博捜して述べている。それをまとめると次のとおりである。
(1)天皇・摂関には、基本的に〈出家入道〉で在任したものはいない。藤原道長が出家したように権勢者も出家したが、それは職を辞して行うものであった。法皇も〈出家入道〉だ。なお出家すると官位を辞するのが普通だが、出家後にも「准后」宣下は行われている。ただしこれは女性の例である(本書には書いていないが「女院」もそうだろう)。
(2)院御所議定や関東申次。これが第2に述べられていること自体が興味深い。院政下においてこれらは重要なポストであった。〈出家入道〉は広義の公卿議定に参加して院政を支えていた。
(3)知行国主。面白いことに国司の〈出家入道〉はいない。法皇の知行国があった以上、知行国主の〈出家入道〉がいたことは当然だろう。むしろなぜ国司にいなかったのだろうか。もしかしたら律令に基づく官職は出家の身では務められないという認識があったのかもしれない。
(4)本家・領家。彼らが残した文書には、「入道」とか「禅定」とか署名しているものがある。彼らは出家しても荘園の権限を手放していなかったのだ。それは「彼らが出家後も家督を保持することができたことを意味している」。
(5)家政機関の職員。これは院庁の職員などである。その文書にも「沙弥」と署名しているものが数多い。
(6)目代・在国司や在庁官人。国司には〈出家入道〉はいないのに、在国司などには〈出家入道〉がいるのは不思議だ。これらは律令に基づく官職ではなかったからかもしれない。
(7)荘園業務に携わる所職。預所・下司・公文・郡司・郷司・図師・田所・案主・弁済使・総追捕使に〈出家入道〉が就くことは珍しくない。この中で、郡司は律令に基づく官職だ。ただし郡司の人事権はこの時代には律令に基づいていないと思う。
以上を見てみると、本書には特に考察はないが、〈出家入道〉は律令制とは原則的には相いれないものであったように思う。逆に言えば、律令外(令外官)だったら〈出家入道〉でも務められたということになるが、それをいうなら摂関も令外官である。もしかしたら関係ないかもしれない。
次に、三善善信、佐々木信綱、安達時盛の場合についてケーススタディ的に武家社会における出家の在り方を考察している。この中で三善善信は幕府要人のなかで最初の〈出家入道〉だ。その時期は治承5年(1181)頃である。佐々木信綱は〈出家し入道〉となり、さらにちゃんと幕府の許可を得て「遁世」した。この場合は所領を問題なく相続させている。一方、安達時盛は〈出家入道〉になったのは同じだが、幕府の許可を得ずに「自由出家」で「遁世」した。彼の場合は所領を没収されて兄弟からも義絶された。しかしなぜ安達時盛は所領没収がわかっていたのに「自由出家」などしたのだろう。それとも許可を得る必要をわかっていなかったうっかりミスなのだろうか?
では幕府の要職はどうだろうか。鎌倉幕府・室町幕府を通じて〈出家入道〉の将軍はいない。また鎌倉幕府では執権・連署・六波羅探題・鎮西探題にも確認できない。彼らは職を辞してから出家した。しかし出家後にも幕政に大きな力を保持していたものは多い。典型的には足利義満だ。それでも一応職を辞しているのはなぜなのか。それは「〈出家入道〉が執権・連署をつとめることに憚りの意識が働いたからであろう」が、なぜ憚りの意識があったのかは定かではない。なお、上述の諸職以外には〈出家入道〉はいる。上述の諸職は、じつは北条氏一門が独占していた役職なのだが、〈出家入道〉を就かせないことによってその権威を高めていたと考えられる。
一方、室町幕府では管領には〈出家入道〉は珍しくない。これは義満が出家したことで憚りの意識が消えたことによるもののようだ。
次に、鎌倉・室町幕府の役職で、御家人が就くことのできるものは基本的に〈出家入道〉が認められていた。守護・地頭にも〈出家入道〉は多い。そして、〈出家入道〉であっても御家人役(軍役・大番役・関東御公事)は負担していた。
それでは、民衆の世界で〈出家入道〉はどうであったかというと、神人が基本的に俗人であるくらいで(それでも例外的に〈出家入道〉はいる)、百姓や商工業はもちろん、技術者、奴婢下人(!)、被差別人にまで〈出家入道〉がいる。非人集団の上層部が僧形だったのは興味深い。応永27年(1420)に朝鮮からの使節として訪日した宋希璟は日本の村に僧形の百姓が多いことに驚嘆している。
もちろん、彼らは僧形であってもちゃんと年貢・公事の納入は義務であった。そして幕府の許可を得るなどの手続きがなかったため、民衆は御家人などよりずっと気軽に出家することができた。であるから面白いことに、民衆の〈出家入道〉の方が貴顕のそれより早く社会に広まった。公家・武家で〈出家入道〉が広まるのは平安末から鎌倉時代になってからであるが、民衆の場合は900年代後半から〈出家入道〉が現れるのである。上層部の動きが民衆に広まったのではないのだ。「この事実は、法然・親鸞などの鎌倉新仏教によって初めて民衆布教がなされたという、いわゆる鎌倉新仏教論に対する痛烈な反証となる」のだ。
続いて、〈出家入道〉が中世文化にどのような影響を与えたかを考察している。まずは神仏習合の進展だ。神事には僧尼を遠ざけなくてはならないという禁忌が、最高権力者が〈出家入道〉であることによって徐々に緩んでいるのである。白河院の側近であり、本地垂迹説を主導した大江匡房がそういう禁忌を心配しなくてよいといっているのは象徴的だ。鎌倉時代には伊勢神宮での読経や経供養が増えており、法楽舎の造立で神宮法楽は恒常化した。
足利義満は神宮の禁忌を気にせず、神前にまで参拝した。「義満は世俗と出家のボーダーレス化を進めたが」、「神宮と仏法の境界をも曖昧にした」。
なお賀茂社では白河法皇の時代に神仏習合が劇的に進み、上賀茂神社では塔が、下社では東塔と西塔が造立されたし、上賀茂神社では「入道神主」までが登場した。
さらに本論文では、〈出家入道〉が本覚思想の基盤となったと述べている。ただし、私としては〈出家入道〉と本覚思想の関連はピンとこなかった。とはいえ、〈出家入道〉が仏教本来の世俗忌避の性格を薄めるのに一役買い、世俗的なものに変貌していく一因であったことは確かであり、これは本覚思想と軌を一にしている。
最後に、「〈出家入道〉が中世仏教を真の意味で支えていた」として、これまで看過されてきた〈出家入道〉を仏教史に組み込むことを提言して擱筆されている。
なお、本論文を読みながらちょっと疑問だったのは、なぜ人々はわざわざ〈出家入道〉になったのかということだ。何しろ出家しても社会生活が何も変わらない。義務から解放されるわけでも、特典を得られるわけでもない。出家する10の理由は、確かに彼らの念頭にはあったのだろう。それは現代の人が要職を退くのと似たようなものだったというのは先述の通りだ。
だが民衆の場合はどうなのか。彼らは要職に就いていたわけでもなく、公家や御家人と違って気軽に出家できたので、出家はありふれた行為であり、それほど功徳を実感できたとは思えない。出家に何の魅力を感じていたのか。
なお本論文では、出家することが村の指導者となる資格を得る一環ではなかったかと指摘している。「貞和2年(1346)近江国菅浦では惣村置文を定めているが、そこに署名した12名の乙名は全員が「正阿ミた仏」「正信房」「上阿弥陀仏」などの僧名」であった。全員が〈出家入道〉とは、やはり出家と村における地位には関係があるのかもしれない。しかし一方で、民衆が自由に出家できたとするなら、出家の価値が重かったとも思えない。どういうことなのだろうか。
※大阪大学大学院文学研究科紀要 2013
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