2022年4月10日日曜日

『神仏分離を問い直す』神仏分離150年シンポジウム実行委員会 編

山口大学で行われた「神仏分離150年シンポジウム」のまとめ。

本書は、基調講演と3つの発表、短い特別寄稿、討議、そして総括で構成されるものである。

基調講演「明治初期の宗教政策と国家神道の形成 神仏分離を中心に(島薗 進)」では、安丸良夫『神々の明治維新』を援用しつつ、神仏分離政策が概観される。秋葉山では僧侶と修験と禰宜が争い、小国重友という国学者が来て僧侶を追い出した、という話が興味深かった。

発題1「中世における神仏習合の世界観(真木 隆行)」では、まず仏教の世界観と神道の世界観・時間観を比較し、神仏習合が王権をどう支えたのかが述べられる。特に袈裟を着て描かれる後醍醐天皇の肖像画(清浄光寺蔵)が「大日如来と天皇との一体化が観念(p.69)」されているという指摘にハッとさせられた。

発題2「近世史研究からみた神仏分離(上野大輔)」では、安丸良夫を中心とする先行研究を整理し、改めて神仏分離を見直してみるべきであると呼びかけている。最近の研究の動向を踏まえ、仏教排斥というかつてのやや一面的な捉え方を修正し、どうして神仏分離や廃仏毀釈が起こったのかをより細かい解像度で見ることを提案した本書中の白眉である。

発題3「現代の宗教者から捉えなおす神仏分離と宗教的寛容(木村延崇(曹洞宗の僧侶))」では、長州藩の維新前の廃仏毀釈が事例紹介され、薩摩における徹底的な廃仏毀釈と比較される。また節句が新暦になって実態と乖離したことや日本人の自然観などが語られ宗教的寛容と繋げられている。

特別寄稿「狂言と神仏習合(稲田秀雄)」では、山伏狂言「梟」を中心に、狂言の中で山伏が何に祈るかを述べ、神仏習合の事例としている。

討議では、長州藩における状況をケーススタディとしながら、神仏分離政策を改めて振り返り、また会場からの質問に答えている。長州藩は西本願寺と関係が深かったことから、結果的には神仏分離政策を貫徹せず、むしろそれを抑制する方向で働いた。なお長州藩では、幕末には僧侶からなる隊が20以上あり、多くの寺院が軍事基地となっていた。寺院と軍事の結びつきはあまり指摘されていないが、より詳しく知りたくなった。

総括「神仏分離をどう考えるか(池田勇太)」では、「明治維新以前が神仏習合で、維新によって神仏分離した、というほど単純な話ではない(p.178)」とし、シンポジウムの内容を受けて、神仏分離を反仏教政策としてだけ見るのではなく、武家支配の解体や世俗化(脱宗教化:フランス革命時の反キリスト教政策との類似を挙げている)の影響など、より広い視野で捉えようと試みている。

全体として、本書はかなりコンパクトで2〜3時間あれば読めてしまうものであるが、安丸良夫や圭室文雄などの古典的な神仏分離研究を下敷きにしつつも、それを現代の知見で乗り越えようとする意欲的なものに感じた。私はこの分野はちょっと詳しいが、最近の論文の動向などと方向性が一緒であり、このように平易にまとめたことはまさに神仏分離150年を記念するに相応しいと思った。

ただし、あくまでもシンポジウムの内容をまとめたもので論文集ではないので、やや物足りない部分もある。

最新の研究に基づいた神仏分離の捉え方を平易にまとめた本。

 【関連書籍の読書メモ】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

 

2022年4月9日土曜日

『増補 高野聖』五来 重 著

高野聖に光を当てる本。

「聖」とは、寺院から半独立した下級宗教者で、遊行回国しながら勧進や商売を行って生きていた。本書では聖の特徴として、隠遁・苦行・遊行・呪術・世俗・集団・勧進・唱導という8つが挙げられている。高野聖とは、高野山に拠点を持っていた聖のことである。

ただし本書には、高野聖とは何か、という定義が明確には述べられていない。その特徴をまとめれば次のとおりである。

(1)多くは「別所」と呼ばれる修行のための別院に拠点を持った。往生院谷や蓮華谷、清浄心院谷といった谷ごとに集団を作っていた。(2)高野聖は民衆を相手に活動した。諸国を回って高野山への納骨を勧め、お骨を高野山に収める代わりにその費用をもらって生活していた。(3)密教一筋というよりは念仏聖であり、特に室町以降は時宗聖であった。

私にとって意外だったのは(3)で、高野山といえば真言密教というイメージがあったが、中世の高野山は念仏の山だったのである。そして高野聖たちが念仏しつつ納骨を勧めたからこそ、高野山が日本総菩提所となった。まさに霊場としての高野山をつくったのは高野聖たちだった。

しかし、高野聖たちは僧侶としての身分は低かったために普通の寺院からは蔑まれ、また高尚な教学の世界からも遠かった。よって高野聖は歴史に埋もれ忘れられてしまった。本書は、高野山を作った高野聖たちを再評価するものである。

とはいえ、高野聖が泉鏡花の『高野聖』に描かれたような道心堅固な者ばかりだったかというとそうでもない。半僧半俗の高野聖たちは時に悪行も働き、妻帯していたり、またそもそも教学の学識がないものも多かった。

しかしそういうありがたくない聖では民衆から評価されない。寺院を離れて生きた聖は、寺院から供給(くきゅう)を受けられず、勧進や商売を営まなくては生活ができないため、人々からの支持は重要だった。そのため苦行(例えば十穀断ち)や呪術(病気を治したり招福攘災の祈願)を行った。そして民衆には難しい教学は理解できなかったためか、いきおい念仏に傾いていった。特に、一人ひとりの念仏が合わさり相乗効果によって何倍もの功徳になるという「融通念仏」の考えが出てくると、高野聖はこれを積極的に活用したとみられる。

では民衆の方は高野聖の念仏に何を期待したか。もちろん往生も願ったのだろうが、それは滅罪と鎮魂の呪術であったのではないか、というのが著者の考えだ。

それでは高野聖はどうして興ったか。その起源は承仕(じょうし)や夏衆(げしゅう)と呼ばれる階級にある。高野山の寺院で教学や修行を行う僧侶たちも、当然生活をしていかなくてはならないが、その生活面・物質面を担ったのが承仕・夏衆であった。この中から行人(雑役に従事した下級の僧、山岳信仰と苦行と呪術を担った)と聖が分化していくのである。

最初の高野聖が誰なのか、はっきりとはわからない。ただ高野聖の成立にあたり重要なことは、高野山に念仏信仰が入っていったということである。高野山は山中他界の霊場であったことから浄土とみなされ、「高野浄土」の思想が形成されていった。高野山本来の密教からは念仏は異端であり、それを担ったのが高野聖であった。つまり高野山が念仏化することによって生まれたのが高野聖であるといえる。

祈親上人定誉は、もともとは興福寺の僧で高野聖ではないがその原型を作った。正暦の大火(994年)後、無住となってしまった高野山再建のために諸国を勧進し、また配下の勧進聖を都鄙に遊行させて30年かけて諸堂を造営した。しかし彼の高野山での地位は下級の客僧のままであった。

小田原聖教懐は、初期高野聖集団を形作った。彼は延久の末年(1073年)頃、小田原(今の当尾(京都府木津川市))の興福寺の念仏別所から高野山に上った。その時すでに70歳だったので往生のために高野山に入ったのかもしれないが、93歳まで生きた。その20年以上の念仏の活動の中で「別所聖人」と呼ばれる聖集団ができていき、白河上皇の御幸の際にはその代表者30人が「三十口(さんじゅっく)聖人」に補任(ぶにん)された。彼らには高い権威と料米が与えられた。

覚鑁は、真言宗的な念仏思想を確立した。覚鑁は、強大な勢力に成長していた高野聖集団の一員となるため阿波上人と言われた浄心房青蓮のところに身を寄せ、教理研究の場としての伝法院、念仏堂としての密厳院を建てた。この落慶法要には鳥羽上皇が臨席し、七所の荘園を寄進したが、これがかえって金剛峯寺を刺激して、覚鑁と金剛峯寺には武力抗争が勃発、結局覚鑁は高野山を追われた(錐鑽(きりもみ)の乱)。

覚鑁退去後も伝法院と密厳院は残ったので、この二院を中止として高野山の念仏信仰はより盛んになっていった。そして高野聖たちは金剛峯寺に対して権力と結託して対抗し、呪術によって病気を治したり、文芸や学芸の知識を高めていった。勧進を行う上で、そうしたものが有効だったからである。

平安末期の高野聖は「小田原教懐系の別所聖と伝法院・密厳院系の理論家たちに二分でき(p.123)」、「学侶をはるかにしのぐ勢力になっていた(同)」。戦乱の時代であり、戦いに敗れた武士や主人を失った従者が高野聖に合流していった。鎌倉武士で高野聖になった(と見られる)ものには、熊谷直実、葛山五郎景倫、佐々木高綱、足利義兼(鑁阿)などがいる。

また西行もその一人であった。彼は勧進僧となって遊行し、特に貴種との繋がりを利用して大口募財を行った。彼が取り組んだ勧進には、元興時極楽坊、蓮華乗院などがあり、重源の東大寺再興勧進にも参加した。

俊乗房重源明遍僧都が高野山に入山してから、高野山は専修念仏一色となるとともに納骨が全国に広まり、高野聖の全盛期を迎えた。本書ではこの頃を中期高野聖と呼んでいる。

重源は請負師的な起業家精神で東大寺再興勧進を遂行した。本書には室生山舎利盗難事件という、後白河法皇とグルになった自作自演的な盗難や、頼朝のさらなる支援を引き出すため敢えて逐電した事件などが記述されるが、そうした事件を見るにつけ、目的のためには手段を選ばない老獪な人物であったことが窺える。しかし彼はガメツく利益を求めはしたが自分自身は無一物で勧進で得た全ては莫大な量の作善に散じた。

なお勧進においては、寺院から出てきたという証明書となる「勧進帳」を持ち、大師像の入った笈(おい)を宗教的シンボルとして負う必要があった。寺院から離れ庶民に交わるからこそ、そういうものが必要だったのである。また金品ではなく木材など現物による寄附の場合は、東大寺の札さえあれば村人の無料の奉仕で村から村へ国から国へと運ばれて奈良に着いたという。

明遍は、しばしば「高野聖の祖」と言われる。中期高野聖には蓮花谷聖萱堂聖千手院聖があったが、このうち蓮花谷別所を創始したのが明遍である。重源も蓮花谷聖の一人であった。明遍は名門の生まれであったが東大寺で得度し、家柄からは当然座主・別当にのぼるべき身なのにも関わらず高野山に入り、専修念仏の生活をした。法然に帰依したといい、法然の滅後その遺骨を生涯頸にかけていた。明遍は家柄の高貴さから高野聖の偶像になり、明遍系の念仏が高野山にこだまするようになった。また蓮花谷聖たちは高野山への納骨を一般化した。

萱堂聖の祖が法燈国師、心地覚心である。彼は臨済宗法燈派の開祖でもある。彼自身は高野聖ではなかあったが、晩年に帰依した弟子に自分と同じ「覚心」の諱を与え高野山に上り萱原で念仏せよと命じた。以来、萱堂聖の頭目は代々心地覚心の分身として「覚心上人」を名乗った。なお一遍は法燈覚心の印可(悟ったことの証明)を得たという伝説がある(『法燈行状』)。法燈覚心の信仰は禅・密・念仏の混合であり、その真言(密)と念仏を受けたのが萱堂聖であった。また普化宗の祖梵論字(ぼろんじ)を宋から連れてきたのも法燈覚心だという(『虚鐸伝記』)。

法燈覚心の死後、萱堂聖は時宗化して遊行廻国・勧進唱導・念仏賦算をするようになった。萱堂聖は唱導の文学と芸能に特色があり、高声念仏と鉦叩念仏の他に踊り念仏も行った。鎌倉になるとこれに狂言も加わった。 

千手院聖は3つの集団の中で最も遅く成立し、後期高野聖を代表するものである。千手院の開創は不明だが、ともかくここを中心に鎌倉時代末から南北朝期に時宗聖が集まってきた。そして千手院聖が次第に高野聖の他の集団を吸収して、室町時代には全て時宗聖となった。こうして高野聖はかつての苦行と隠遁を捨て、「遊行と勧進と世俗生活に没頭(p.245)」。時宗聖たちは踊り念仏を行い、また幅広い芸能(和歌・連歌・能楽・田楽・狂言・茶道・作庭等)の担い手になった。同時に、「時宗寺院は風呂や料理や旅宿を経営して遊興の場と化するような卑俗化がおこり(p.246)」高野山の評判を貶めたが、彼らが高野山の宿坊制度を完備していく役割も果たしたようだ。

大永元年(1521)、高野山が全山焼亡(じょうもう)すると、その再建のために阿本・阿純の勧進聖が勅許を得て43年にわたる勧進活動を始めた。彼ら自身は穀断木喰の苦行僧であったが、有象無象の聖が再興勧進に参画したことで高野聖の評判はよくなかった。さらにただでさえ時宗は高野山の伝統からは異端だったので排斥された。

そして高野聖の質が低下し、また生活が困難になったことで、さらに高野聖は世俗化していった。結果として商聖(あきないひじり)化、定着化、悪僧化が起こった。高野聖は勧進に際して、経帷子(引導袈裟)を配って(実質的には販売して)いた。引導袈裟とは、これを着て死ねば往生できるという、お経が印刷された紙製の袈裟である。また弘法大師の旧御衣の切れ端も売っていたようだ。こうしたことからか、高野聖は結果的に呉服屋になっていった。

定着化については、洛中洛外図などの絵図に描かれた高野聖の笈が次第に形式化していくことによって判断できる。悪僧化については、例えば盗み出した仏像を寺院に売りつけるなどスキャンダルが多くなり、室町末には高野山へ上らない高野聖も出てきた。こうしたことは中世人の遊行僧に対するホスピタリティがだんだん冷たくなってきた結果でもあった。聖が「宿を借ろう」と呼びかければすぐに誰かが泊めてくれる、という状況ではなくなってきたのである。むしろ「宿借り聖」とバカにされた。

このようにして高野聖は徐々に弱体化していったが、廃絶の決定的な契機となったのが信長の高野聖成敗事件であった。信長は畿内近国徘徊の高野聖1383人を捉えて処刑したのである。これは高野山行人が足軽たちを殺したことがきっかけだったが、「高野聖が関所通行御免を悪用して隠密をはたらいたためともいわれている(p.268)」。

さらに高野山では、行人、学侶、聖(時宗聖)による三つ巴の勢力争いがあった。豊臣政権下では学侶の勢力が強くなったが、徳川政権では時宗聖が勢いを盛り返し、聖たちは大徳寺以下三十六道場を学侶方・行人方と同じ屋形造りにし、破風に狐格子を打った(大徳寺は高野聖の本寺で諸国聖方触頭をつとめていた)。慶長11年(1606)、これに怒った行人方は大徳寺を襲撃。この争いは幕府に持ち込まれ、家康は「全高野聖は時宗を改めて真言に帰入し、四度加行(けぎょう)、最略灌頂を受けるよう命令(p.22)」した。こうして高野聖は僅かな例外を除いてその歴史を閉じたのである。

なお、高野山に帰ることができなくなった高野聖たちは、「願人坊主」などとして最下級宗教者として生きたようだ。

本書を読みながら疑問だったのが、高野聖はなぜ時宗化したのか、ということだ。聖は「自活」する必要があったから、当時流行のムーブメントである時宗を取り入れただけにすぎないのかもしれないが、高野山という器は時宗とどう接続したのか。高野山と時宗のいいとこ取りをしたのが高野聖だったのだろうか。それとも真言密教には時宗と接続する必然性があったのだろうか。

もう一つの疑問は、高野聖に終止符を打った家康の裁断である。なぜ徳川の菩提寺である大徳寺を襲撃した行人方ではなく、逆に襲撃された聖方を処罰したのか。しかも江戸幕府は遊行に便宜を図るなど時宗を保護していたのに、高野聖を時宗から除いて真言に帰入させたのはなぜか。本書には詳らかでないが、高野聖は徳川が保護の対象としていた時宗とは少し異質な部分があったためなのかもしれない。

本書は浩瀚なものであるが、それでも高野聖の複雑な世界を概観するに留まっているため、細かい所ではいろいろと疑問も湧いた。また元が学術論文ではないために、出典が最小限で注もないのはやや物足りない。しかしそういう点もあるにせよ、忘れられた高野聖の世界を甦らせた功績は大きい。

高野聖を語る上で必読の名著。

 

2022年3月28日月曜日

『日本陰陽道史話』村上 修一 著

日本史における陰陽道の話題をわかりやすく語る本。

陰陽道とは、中国由来の天体と人間の運命を関連づける考えや「易」、五行説や宿曜道(インドから伝わった天体と運命に関する仏教理論)が習合して生まれた暦製作と呪術の体系である。

ただし、本書では陰陽道は中国で生まれたとしているが、本書の記載を注意深く読んでも陰陽道そのものが中国で生まれたとはいえないように思った。中国由来の材料を日本風にアレンジして律令国家に位置づけたのが陰陽道ということのようだ。

陰陽道は日本において政治理念に取り入れられ、天武天皇は「陰陽寮」という官制と「占星台(天文観測所)」を設けた。さらに奈良朝初期の養老律令では陰陽寮が中務省に位置づけられ、頭(かみ)以下、陰陽師、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士(水時計の管理)など89名の陣容が整えられた。

なおこのモデルとなった唐の官制では暦と天文は太史局という部局が担っており、日本ではこれに比べ卜占に比重があったことが明瞭である。

事実、奈良期では陰陽道は祥瑞と災異を弁別することに明け暮れ、些細な祥瑞で年号が改められるなど陰陽寮は国家の迷信機関だった観がある。平安朝になると祥瑞改元がなくなり、社会の混乱を象徴してか災異を理由に年号が改まるようになった。その後も色々な事情から今から見れば不合理な改元が繰り返され、特に後白河天皇の改元癖は甚しかった。それらの改元は陰陽道思想によるものばかりではないが、元号に選ばれる文字については吉凶が重要になることから、儒教とともに陰陽道も重んじられたのである。

陰陽道は儒教や仏教と組み合わさり、日本人の宗教観の一角を形作った。平安中期以降、賀茂・安倍両氏が進出してからは泰山府君祭が流行、さらにそれをいっそう物々しくした天曹地府祭など大量の祭りが考案され実行された。

また浄土思想に刺激されたユートピアへの憧れが神仙郷への関心を呼び、陰陽道的な神仙思想も惹起した。

律令国家の弛緩に従って、陰陽家たちは国家の事業に携わるよりも公家たちの私的な活動に対する奉仕へと傾いていった。吉凶の占いや病気の平癒祈願、そして物忌みや方違えの指導といったことを盛んにするようになった。ところが天皇や公家たちは些細な吉凶を気にして自ら様々な禁忌を生み出し、陰陽師はむしろそれに振り回されていた面もある。

公家では、優れた才智を持っているのがかえって災いし、各種の典籍から吉凶や予兆を読み取って独自に陰陽道的な解釈を行い、身を亡ぼすものさえ現れた。運命を卜占によって知ることができると考え、現実を見誤ってしまったためである。そういう人物の代表としては、周易を研究した藤原頼長とその師の藤原通憲がいる。頼長は保元の乱で崇徳上皇側で死に、通憲は平治の乱で自滅した。彼らは天変(天体の異常な動き)や中国の故事から導かれた吉凶を信じすぎた結果、現場を無視した判断をして破滅したのである。

こうした世相を反映し、『平家物語』には、仏教的な宿業の世界観とあわせて陰陽道的な世界観が横溢しており、予兆思想と運命の思想は『平家物語』の基軸ともなっている。

また、陰陽道の理論は修験道の教義や儀礼の形成に大きな影響を及ぼすことで、陰陽道は修験道形成の背景となった。そして修験者たちは、その活動を通じて陰陽道の日本化に寄与した。

一方、密教では「宿曜道」が陰陽道と似た星辰信仰やそれに基づく呪術を行っていた。特に天体や星への信仰を仏教にもたらした意義は大きく、二十八宿信仰と北辰(北極星)信仰、北斗七星信仰などは特徴的であり、それらの信仰に基づいた星曼陀羅も製作された。さらに宿曜道では、個人の運命を天体の動きから導く、今の星占い的な「禄命師」が生まれた。

また祇園社の牛頭天王は密教・宿曜道・陰陽道が影響しあってできた星宿神であり、宿曜道の中心的な神格となった。このような牛頭天王信仰と習合した宿曜道の流布に与ったのが14世紀に製作された『簠簋(ほき)内伝』という安倍晴明に仮託された宿曜書である。こうして宿曜道は陰陽道の影響を受けつつ、日本化していったといえる。

鎌倉時代になると、有職故実と前例踏襲に支配された公家の社会とはずいぶん様子が変わったが、吉凶や予兆、祈祷といったものは武士たちも意外と気にしていた。平安朝末期からの明日をも知れぬ社会の中で、験を担ぐことや戦の際に神威を借りることが有効だったためであろう。特に源実朝は公家的な将軍であったため、百怪祭、三万六千神祭など平安朝以上の陰陽道的祭りを行った。

実朝暗殺の以後も将軍家の陰陽道的ムードは変わらず、北条義時の娘が男子を産んだ際には百カ日の泰山府君祭が営まれた。このように長期間の泰山府君祭は平安朝でも例がなかった。さらに承久の乱前後では陰陽道が一層活用され、百日の天曽地府祭、属星祭、三万六千神祭を始め、各種の陰陽道的な祭りが平安朝以上の規模と頻度で乱発されたのである。こういうことから、鎌倉時代の陰陽師は御家人の武士と対等に扱われるほど勢力があった。

なお幕府ではこの頃、羅睺・計都の二星への信仰が高まっており、安貞2年(1228)、珍瑜が羅睺星供を行っているのをはじめとし、嘉禎元年(1235)、幕府は薬師像千体と羅睺星神像と計都神像などを造立している他、寛元3年(1245)明年の日蝕のため陰陽師広資らが羅睺星祭を催し、また建長3年(1251)には執権時頼が室御産御祈りに羅睺・計都像の造立供養を行っている。どうやらこの頃、羅睺・計都のみならず星辰に関する信仰(北斗七星の祭り、二十八宿神、十二神など)が流行したらしい。ただしこれら羅睺・計都両星の神像は今日には一切伝わっていない。

これら鎌倉時代の陰陽道的祭りを『吾妻鏡』から抜き出してみると48種にも上り、分類すれば(1)病気平癒等の身体に対しての祈願祭、(2)星宿信仰に関する天変地変の祈願祭、(3)建物の安全祈願祭、(4)祓いに関しての神祇の作法に近いもの、となる。このうち(1)(2)が特に多く、個人的な祈願に用いられることが多いことと、(2)の星宿の祭りは平安朝以上に盛んであったことが特徴である。これは宿曜道の浸透が背景にあるものとみられる。

室町時代になると、義満・義持・義教の頃までは幕府にも財政的な余裕があり陰陽師たちに公的な場での活躍の機会があったものの、応仁の乱以降になると幕府の衰えによって陰陽師たちは次第に困窮するようになった。

暦の製作を担ってきた賀茂(勘解由小路)氏は本流が断絶、土御門氏も秀吉に対して奉仕していたことが裏目になり追放され、事実上、平安朝以来の宮廷陰陽師は壊滅した。追って土御門久脩(ひさなが)は京都に戻って出仕することを徳川家康に許され、所領も与えられたものの、陰陽道書など拠るべき典籍が失われておりかつての陰陽道を復活させることは不可能であった。

それでも土御門久脩の子孫は代々陰陽頭に任じられ、天和3年(1683)には諸国陰陽道支配を土御門氏に仰せつける霊元天皇の綸旨が下り、これにより土御門氏は全国の陰陽師を統括し免許を与える権限を握った。江戸期の土御門氏は、歴代天皇ごとに一代一度の天曽地府祭を執行している。

ところで、「全国の陰陽師を統括」ということは、陰陽師が民衆的なものとして全国に存在していたことを示唆するが、民間的陰陽師の多くは「声聞師(しょうもじ)」として活動していた。これは元は下級法師が金鼓打ちを依頼したことから始まったらしいが、山伏の形態をして運勢占いや芸能を行う下層民である。

このように、公家文化の残滓ともいえる陰陽道は公家の凋落とともに次第に失われた。しかし、鎌倉時代に平安朝以上に陰陽道的祭りが挙行されたように、必ずしもそれは公家の専有物ではなく、日本文化にかなりの程度組み込まれた。むしろ現代でも、「日や姓名や建築・造作・婚姻などに関して吉凶・卜占・禁忌を意識する現代日本人の生活習慣の中(p.253)」に陰陽道思想は確かに生き残っているのである。

本書は、著者の陰陽道研究の総括である『日本陰陽道史総説』に基づいて行われた、朝日カルチャーセンターにおける講座の文字起こしを元に書き下ろしたものである。そのような性質から、出典が明らかにされない、話題が飛び飛びである(特に時代が行ったり来たりするところ)といった点は不便に感じたが、全体的には平易で読みやすくよくまとまっている。

ただし、江戸時代以降の陰陽師の歴史についてはほとんど記載がなく、古代・中世が話の中心なのはやむを得ないこととはいえ少し物足りなかった。

日本における陰陽道の存在感に改めて光を当てる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『密教占星術—宿曜道とインド占星術』矢野 道雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/11/blog-post.html
密教占星術「宿曜道」の理論を解明する本。宿曜道を理解する上での必読書。


2022年3月19日土曜日

『中世勧進の研究―その形成と展開』中ノ堂 一信 著

中世における勧進の在り方の変遷を述べる。

勧進とは、仏教においては元来は善行を勧め仏道に入らせることを意味していたが、それが古代末期あたりから物質的な喜捨を得る経済活動という意味合いに変化した。さらに勧進は寺院修造費用調達の行為として理解されるようになっていく。

寄付集め活動としての勧進を活用したのは「聖(ひじり)」たちであった。彼らは寺院が世俗の権威と癒着して精神性を失ってしまったことに失望し、寺院を離れて生きたフリーランス僧侶であった。しかし寺院を離れて生きるには自ら糊口をしのぐ方策を見つけなくてはならない。その一つが勧進という募金活動であったのである(もう一つが職業を持つことだった)。勧進を行う聖のことを「勧進聖」といい、11世紀後半あたりから出現した。勧進聖の大半は諸国を遊行遍歴していたと考えられる。

こうして寺院から離れて人々の喜捨に頼っていきていた聖が、逆に寺院から頼られるようになるのが歴史の面白いところである。古代では国家の後ろ盾を有していた大寺院が、次第に律令国家が瓦解したことで荒廃したため、寺院の修造や建築に勧進聖たちの力を借りるようになるのである。

当初は、勧進聖はそうしたプロジェクトの資金面を担当する請負業者のようなかかわり方であった。例えば讃岐国の曼陀羅寺の修造を請け負ったのは善芳という勧進聖である。彼は曼陀羅寺に属しているわけではない一介の僧侶であったが、国司から勧進の後援を受け、工人の確保や木材の調達までも行った。曼陀羅寺が善芳にプロジェクトを委託したのは、勧進聖がその諸国遊行の中で様々なネットワークと寺院造営のノウハウを持っていたからであろう。

12世紀後半には勧進聖たちは集団化し、大規模建築工事を全面的に請け負うようになった。四条橋と清水橋の架橋はそうした勧進集団のプロジェクトであり、四条橋は「勧進橋」と呼ばれて完成後の管理も勧進聖たちによって「経営」された。

勧進聖集団は、今でいうゼネコンのようなものだったといえるかもしれない。ゼネコンは日本各地の巨大プロジェクトを請け負うので、今でもその社員たちはプロジェクトの場所に大移動して仕事をする。また、巨大プロジェクトはジョイントベンチャー(複数の会社や組織が共同で事業を行うやり方)を組んで担当することもしばしばだが、勧進聖の場合も大プロジェクトを実行するために集団化していたようである。

そうした勧進聖のあり方の画期となったのが重源である。俊乗坊重源は、東大寺の再建という巨大プロジェクトを全面的に任された勧進聖であった。

治承4年(1180)、反平氏勢力を掃討するため平氏は南都焼打ちを行い、興福寺や東大寺は焼失した。これに対し後白河院は東大寺の復興を主導したが、これに東大寺側が参加した形跡はなく(!)、後白河院の一方的なイニシアティブによってなされていた。この復興事業に起用されたのが重源である。

重源は若いころに修験的な山林修行を行い、醍醐寺理趣三昧衆として大法師の地位に上った。重源は納骨結縁や死者への追善造塔などの活動を行い、また3度も入宋したとみられ、入宋を経た重源は熱心な念仏信者となった。また重源は院政と近い武士の家系に生まれたと考えられる。真言・天台・浄土思想を兼帯し、入宋の経験から大陸の技術にも知識があった関係から重源は東大寺造営勧進に任用されたのである。

重源は陳和卿(宋の鋳物師)をはじめとして造営に必要な人材をリクルートし、勧進集団を形成して事業を遂行した。この集団は当初は70人規模であったとみられる。これは「同朋」「弟子」と表現されていることから、重源の個人的なつながりによる組織、つまり重源の私的グループであったと考えられる。

しかし東大寺再興が終盤になったころ、重源は「東大寺大勧進職」に任命された。それまでの間、「重源は後白河院政にとっては指揮下の官営工房の一員にすぎなかったのであり、東大寺にとってはあくまで外部の人間でしかありえなかった(p.117)」。しかし工事が進行するにつれ、長期間に及ぶ工事に携わった多くの勧進僧や技術者の立場を確立することが重源にとっても課題となってきた。工事が終わったらお払い箱にされる、というのでは困るからだ。そこで一種の利権の確保のために「大勧進職」が必要となったようである。重源自身は、東大寺落慶にあたって「東大寺大和尚」の地位を得たが、配下の集団については不安定な立場に置かれていたのである。

また東大寺にとっても、「伽藍や法会の維持や僧供料の獲得に頭を悩ましていた(p.121)」状況にあって勧進集団は有用なものであり、重源が個人として保持していた勧進僧としての諸権限を東大寺側が継承するためにも、勧進集団を東大寺の機構に組み込むことが必要だったのである。こうしたことから「大勧進職」の設置に続き、重源が東大寺境内に置いていた「鐘楼岡別所」を取り込む形で東大寺に「勧進所」が設けられ、恒常的な営繕活動として勧進が位置づけられていくのである。

そして東大寺101代別当の定親が宝治元年(1247)年に第6代東大寺大勧進に就任したことは、勧進聖たちが東大寺の中に完全に吸収されたことを示唆するものだった。

鎌倉時代に入ると、勧進は飛躍的に増加した。それは、勧進という手法の確立(それには重源が「勧進帳」の形式をもたらしたことによる)と、俗人でも(!)勧進を行えるようになったことが影響していた(しかし本書には、俗人による勧進がどのように法規的・宗教的に許容されたのか詳らかでない)。

とはいえ、広く浄財を募る諸国遍歴型の勧進は労多くして益少ないものである。そこでより募金効果の高い手法として導入されたのが、摺仏・印仏を「勧進札」として配るというものだった(これも重源が用いた手法)。

しかし、高徳な僧侶が行うわけでもない勧進は、こうした手法を使ったにしても多額の浄財を集めることができないのは当然である。そこで一般の寺院では幕府や有力者の後援を得た勧進が行われるようになった。幕府が後援した勧進では、勧進がほとんど臨時税的に扱われ、多くの人から「一木半銭」として強制的に金銭を徴収したのである。本来は「どのように少ない金額でも功徳がある」という意味の「一木半銭」が、人別に一文を徴収するという意味にすり替えられていたのだ(本書では「ノルマ型勧進」と言っている)。

また朝廷の後援を受けた勧進では、関所料を勧進に宛てたものが注目される。この方策は人の移動によって確実に収入が手に入るため非常に重要な手段となった。これに関し、朝廷は関所料に対してどのような権限を有していたのか気になった。日本全国の関所を押さえていたのが朝廷ということなのだろうか? 鎌倉時代以降にもそのように強力な権限を朝廷が有していたとしたら意外だ。

鎌倉時代中期以降には、勧進は「興行型」になっていく。講や仏像や説教、出開帳などを使い、民衆にわかりやすく教えを説くことで大勢を集め、寄付を募る方法である。それまでの勧進は一人ひとりに訴えていたのに、興行型ではイベント的に人集めをするのが違う。人集めのためのコンテンツ作りが重要になり、縁起絵巻の製作も盛んになった。また舞楽などの芸能も活用された。

室町時代になると、「ノルマ型勧進」は人々にとって何ら功徳を感じるものではなくなり、新たな関所の設定などは臨時税と変わらないものであったので不評を買い、勧進の主役は「興行型勧進」になった。田楽・猿楽はそうした勧進の収入増加の切り札として登場したものである。さらに芸能者の側でも、勧進という名目で芸能を演じることで興行の大義名分を得ていたらしき事情もあった。こうして、聖の作善行為として行われていた勧進が、その本来の意味が換骨奪胎され、芸能の担い手たちの興行活動の名目と化していったのが勧進の中世における展開であった。

本書は書下ろしではなく論文集であるが、一冊の本として違和感がないほどまとまっており、中世における勧進の歴史が明快に説明されている。しかし読書しながらよくわからなかったのが、勧進と法律の関係である。勧進聖には一種の利権が設定されていたように感じられるが、それはどのようなもので、一般の僧侶とはどう違うものだったのだろうか。そのあたりが本書には書かれていない。

また、勧進聖といえば、「勧進柄杓」という大きな柄杓で米や銭を受け取っていたといわれている。どうして寄付を受け取るのに柄杓を使う必要があったのか疑問だったが、本書に何も書かれていなかったのは残念だった(表紙にもその絵があしらわれているのに……)。

勧進聖の具体的姿はあまり描かれないものの、勧進の中世における展開を解明した論文集。


2022年3月3日木曜日

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』鵜飼 秀徳 著

全国の廃仏毀釈運動について述べる。

廃仏毀釈とは、明治元年の「神仏分離令」をきっかけに各地で起こった運動で、具体的には寺院の破壊、僧侶の還俗、神葬祭の実施、仏教的行事の廃止などが行われた。

しかし廃仏毀釈は明治政府の政策ではなく、地方政府や一部の神職の独走によってもたらされた。よって、それが行われた程度には地域によってかなりの違いがある。廃仏毀釈が実施された地域でも、民衆的な暴動にまで発展したところもあれば、政策として行われたものの民衆にまでの広がりは持たなかったところもある。

そこで本書はいくつかの地域を選び、そこではなぜ廃仏毀釈が起こったのか、あるいはそれほど起こらなかったのかを述べている。

とりあげられているのは、(1)早くに廃仏毀釈が起こった「比叡山、水戸」、(2)維新政府の中心であった「薩摩、長州」(薩摩は徹底的な廃仏毀釈が行われたが、長州ではそれほど暴力的ではない寺院整理だった)、(3)大藩の圧力で廃仏した「宮崎」、(4)新政府に恭順の意を示すために廃仏した「松本、苗木」、(5)閉鎖された島での運動「隠岐、佐渡」、(6)伊勢神宮が中心の「伊勢」、(7)それほど大きな運動にはならなかった「東京」、(8)文化財の多くが失われた古都「奈良、京都」、という構成になっている。

本書は研究書ではなく、各地の郷土史家や資料館などに取材してまとめたものである。彼らからのコメント紹介はなかなか面白い。しかし「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」が副題となってはいるが、各地で廃仏毀釈運動が起こった理由については概略的で、あまり考究されているとはいえない。

とはいえ、それだけにかえって各地の廃仏毀釈の違いや特徴はわかりやすく書かれているように思う。またその共通点は、府藩県のリーダー層の考え方次第だということだ。前述のように新政府(少なくともその首脳)は廃仏毀釈を企図してはいなかったので、むしろ激しい廃仏毀釈を戒めているくらいなのである。それでも明治6年ごろまでは廃仏毀釈運動が地方政府によって遂行されているのは、府藩県のリーダーが率先していたからに他ならない。

だが、廃仏毀釈が地方政府のリーダーによる自然発生的な運動であると言い切ることはできない。ほとんど廃仏毀釈が行われなかった地域があるとはいえ、多くの地域で廃仏が行われた以上、地方政府の独走ではなく、やはり全国的な方向性があったことは間違いないのである。

それから本書で強調されていたのが、廃仏によって不要になった寺院跡やその建築を利用して学校を作っているケースが多かったということだ。地方政府では明治5年の学制の発布により学校を作る必要があったが、そのための予算はなかったので(本書には詳らかではないが、確か明治政府は地方政府には予算を与えずに学校を作れという指示だけしたのだったと思う)、廃寺や上知令により寺院から取り上げた土地はその恰好の資源となったのである。

全国の廃仏毀釈の動向を大雑把につかめる本。


【関連書籍の読書メモ】

『廃仏毀釈—寺院・仏像破壊の真実』畑中 章宏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html
各地の廃仏毀釈の事例を述べる本。廃仏毀釈の事例集として分かりやすい。

『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。地方の廃仏毀釈の実態を探るためには、このくらいの情報量が必要と思う。



2022年3月2日水曜日

『江戸の漂泊聖たち』西海 賢二 著

木食僧を中心とした、江戸時代の漂泊する宗教者――聖(ひじり)――について述べた本。

聖とは、「戒を持たずに俗世において法を説いていく民間僧を指す(p.2)」というが、この定義については後述の疑義がある。ともかく寺院に所属して檀家制度に安住する僧侶とは対照的に、不安定な流浪の生活の中で民衆の中に分け入っていった民間修行者が聖である。

しかし既存教団の枠がないために、中には堕落した僧侶や、僧侶の姿をした博徒や乞食――偽聖(にせひじり)――もいた。そのため彼らは「宿借聖(やどかりひじり)」、「夜道快(やどかり)」と嘲笑されていたのである。当然に聖の評判は悪く、特に近世の仏教史においてはその存在が軽んじられてきた。本書は、木食僧(米穀を断ち、木の実だけを食べて修行する僧侶)を中心とし、聖たちに改めて光を当てるものである。

【江戸前期の木食僧】

弾誓(たんぜい)上人:16世紀後半、諸国を遍歴し、17世紀初頭に箱根の岩窟で暮らしはじめ多くの帰依者を得、阿弥陀寺を建立。仏像を自ら刻んだが、それは円空や木喰らの先蹤であり近世聖の祖とされる。また箱根の湯を発見したのは弾誓上人とされるが、温泉を発見した遊行僧を「湯聖(ゆひじり)」という。弾誓上人への信仰は明治・昭和になっても念仏講の形で続いている。

風外慧薫:弾誓上人とほぼ同時期の曹洞宗の禅僧。小田原にある曽我山の洞窟で修業し、その後漂泊。托鉢に使えと髑髏を差し出したエピソードで有名。風外は近世の民間宗教者に多く見出せる加持祈祷を行わず、座禅三昧に生き、また多くの墨蹟が残っている他、石造物も刻んだ。

円空:天台宗の僧侶であったといわれるが宗派にこだわらず、修験道に関わる山岳修行者であったようだ。岐阜県羽島に生まれたといい、遊行しながら造像活動を行った。北海道から近畿までの広い範囲に「円空仏」が残っている。

以空上人:17世紀中頃に活躍した真言宗の木食僧。四国の霊場を巡った。

澄禅上人:自ら剃髪した「私度僧」。その後浄土宗の僧侶となったが弾誓上人を慕って曽我の穴居(澄禅窟)で十か月修業した。「風外慧薫・弾誓上人・澄禅上人(中略)木食観正・唯念行者などの民間宗教者が輩出される過程において、小田原藩領が何らかのエポックとなっていたことは注目される(p.68)」。澄禅上人は近江・相模・京都を中心に活動し、京都で死んだが、曽我周辺ではいまだに上人の遺徳が慕われている。

【江戸中後期の木食僧】

木食観海:主に水戸藩で活躍した勧進僧。五百羅漢を安置するための寺を水戸に建立(再興)するために勧進活動を行った。彼は木食僧としての厳しい修行をするのではなく、寺院造塔の造営を第一とする勧進僧であり政治にも近かったようで、広大な羅漢寺(真言宗)が再興されたのちは既成宗教者として生きた。

木食仏海:伊予(愛媛県松山市)に生まれた仏海は、若くして家を出、弘法大師に憧れて四国で修行した後高野山に入り、廻国修行の生活へと移っていった。坂東三十三か所、富士登山を行い関東を遍歴、その頃に五穀を断ち、さらに東北、北陸、四国八十八か所、西国、九州を巡礼。こうした巡礼にあたって地蔵尊を三千体刻み、また経典を書写した。

木喰行道:行道が本格的に遊行の生活に入ったのは50代からで、それまでは真言宗と縁の深い経歴だったようだが、遊行は「八宗一見」(宗派にこだわらない)の立場で行った。また行道は、遊行を始める10年ほど前に木食観海から「木食戒」を受け生涯それを守ったという。「木食戒」とは五穀を断つ厳しい戒律であるが、聖は戒を持たないことが定義だったのに「木食戒」はまた別なのかがよくわからない。遊行を始めたとき行道はすでに60歳に近かったのに、40年近くかけて蝦夷から九州まで日本をくまなく回り、その中で活発な造像活動を行った。「木喰仏」といえば行道が刻んだ仏像を指すほどである。

本書ではこの他、海上の小舟で無言苦行を19年もした木食相観、1億200万遍の念仏を唱えた木食遊禅、六十六部、修験(特に明治になってからも巡礼している林実利と独信)、陰陽師、願人坊主といった遍歴する人々が取り上げられている。

この中で全く知らなかったのが「願人坊主」である。これは元来は勧進僧であったものが、江戸市中を踊り歩き、阿保陀羅(あほだら)経、謎々、軽口、歌、浄瑠璃などを演じて施しを強要するなどしてその日暮らしをしていた存在で、「乞食坊主」「すたすた坊主」「ちょぼくれ坊主」などと言われていた。彼らは乞食的な芸能者であったわけだが、本寺としては鞍馬寺の大蔵院と円光院があり、願人組織もあったようで、触頭(ふれがしら)を頂点として17世紀中頃までには形成されていたらしい。彼らはその組織から鑑札や袈裟を与えられて活動していたのだった。また願人の職分として木賃宿の経営があったのが特徴的だ。

本書を読みながらいろいろと疑問がわいた。まず「木食戒」という戒は何なのか。普通の戒律とは違う原理で扱われていたように思う。そして、遊行を可能にした社会制度はなんだったのか。江戸時代までの人々は、百姓はもちろん武士でも土地に縛られて生きていた。土地の呪縛から離れる唯一の方策が下級宗教者となることだったといっても過言ではない。では下級宗教者は、どういった特権を手にすることで遊行が可能となったのか。願人坊主のところで触れられている「鑑札や袈裟」が与えられていたのだろうか。

本書は全体を通じて、研究ノート的であり、それぞれの人物紹介も粗密があってまとまっていない。著者が関心がある点を書き留めたという感じである。残念ながら本書を読んで「江戸の漂泊聖とは何だったのか」という全体像がよくわからなかった。ただし巻末の参考資料は大変参考になった。

仏教史ではあまり取り上げられない漂泊聖についての研究ノート。


2022年2月25日金曜日

『戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人』遠藤 正敬 著

戸籍と国籍からみる近現代の歴史。

「近代日本では戸籍法が、「国民」や「家族」をめぐるある種の道徳というべきものを生み出してきた(p.15)」。戸籍は単なる国民の登録ではなく、「日本人」を統制する装置であり、国民の「純血」を演出さえしてきた。本書は戸籍が「民族・血統・日本人」という虚構をどう形作ってきたか述べるものである。

「第1章 戸籍とはなにか」では日本の戸籍制度の総論が語られる。欧米にはない日本の戸籍の特異性は、第1に家族を編成の単位とすること、第2に本籍という観念的な場所に結び付けられていること、第3に「続柄」の記載があること、に集約できる。

欧米の身分登録制度は教会での登録を淵源に持ち、個人単位で記載事項も最小限のものとなっている。一方日本の戸籍では身分登録を越えた過剰な個人情報が記載されている。戦前の戸籍では、族称(士族・平民など)、犯罪歴や私生児・庶子の別なども記載され、婚姻や養子縁組に伴う身分変動と親族関係を時系列的に把握できたのである(徐々に改められていった)。これは戸籍がもともと治安維持の観点から編成されていたことの名残ではあるが、住民登録としては本来不要であるはずの時系列情報まで記載され、しかもそれが公開されていたことで戸籍を「純潔」に保たなくてはならないという意識が国民に生じた。「戸籍が汚れる」といった表現があったのはさほど昔のことではない。

また、戸籍は日本の家族観にも大きな影響を及ぼした。例えば夫婦同姓も日本古来の習慣ではなく、戸籍法成立時においては夫婦異姓(妻は元の苗字を維持する)であったのが、民法成立によって夫婦同姓が強制された。夫婦同姓は血統の因習に基づくものと考えられているが、むしろ戸籍制度によって生み出されたものであった。純粋に住民登録の面だけ考えれば、個人の姓の在り方を規定する必要はなかったのだ。

戸籍は単なる住民登録を越え、「日本人」の在り方を作ったとさえ言える。

「第2章 国籍という「国民」の資格」では、日本では国籍がどのような考えで規定されていたかを述べる。

国籍を定める原則には、その国で生まれたら自然に国籍を取得できるという「出生地主義」、父または母の国籍を受け継ぐという「血統主義」の大きく分けて二つがあり、各国の慣習や事情が違う以上、国際的に統一されていないのはもちろんである。

戦前の日本の国籍の原則は、父系血統主義で、外国籍者が取得(帰化)することは非常に困難で、また自らの意思では喪失もできない、ということが特徴であった。よって在米の(日本人の父を持つ)日系二世は日本の国籍を持ちつつ(離脱することができず)、出生地主義を採用する米国の国籍を持つ二重国籍となったため、戦争において日本に徴兵される可能性があり、米国では差別や収容の原因となったのだった。

そもそも誰を「日本人」とみなすか(日本国籍を与えるか)、という方針には戦争への動員が念頭に置かれていたことは言うを俟たない。帰化の要件は国家への貢献度をみる政治的な判断を要したため、国籍行政は外務省ではなく内務省の管轄となっていた。

もう一つの戦前の日本の国籍の特徴は、夫婦同一国籍であった。国際結婚の際、日本人男性+外国人女性ならば外国人女性が「日本人」となったが、これは「家」が個人より上位概念として規定されていたことの帰結であった。「家の一体性を維持するには家族は同一国籍の「日本人」であるべきという原則は、戦後に家制度が廃止されるまでかたくなに維持された(p.103)」

戦後は、国際的に国際法が父母両系主義へ改正される傾向となり、日本でも女子差別撤廃条約を締結したため、これに合わせて国籍法が父母両系主義へと改められた。これは「日本の国籍法をめぐる一大改正であった(p.106)」。

「第3章 近代日本と戸籍」では、近代の戸籍成立が概観される。

日本の戸籍は古代の「庚午年籍」から始まった。鎌倉時代には戸籍は編成されなくなるが、人的管理の必要性から「人別帳」が作られるようになり、幕藩体制では「宗門改」と「人別帳」が結合して「宗門人別改帳」が各地で作られた。これは支配階級である武士と「宗門改」を実施する僧尼は対象外であった。また江戸の人別改では、神職、修験、陰陽師、願人(門付けや大道芸人)、神事舞太夫といった宗教芸能者は町方では記載せず寺社における人別改の対象とするなど、調査範囲や扱いがまちまちで統一的なものではなかった。

明治維新になると脱籍者(住所不定になったもの)を厳しく取り締まるようになる。明治維新自体が、そういう浪人や藩の利害を超えたものによって成し遂げられたのだが、政府は治安維持の観点からそれらに「復籍」を勧告した。明治元年には「京都府戸籍仕法」が制定された。これは身分登録と家の系譜という後の戸籍の原型となった。また東京・京都・大阪では人口の流入が激しくなったことから明治3年9月には「脱籍無産の輩復籍規則」が制定され、村町の負担費用によって脱籍者を送り返すこととなった(だがあまり実行はされなかった)。

そして明治4年に戸籍法が制定され、翌5年に「壬申戸籍」が編成された。これは、族称を掲載するなど身分差別的側面を有してはいたが、僧侶などを特別扱いせず、個人を天皇の「臣民」として水平関係に凝集させるものだった。また戸籍は神道支配にも利用された。戸籍調査の際に氏神の「守札(まもりふだ)」をあわせて調査し、個人が属する神社を戸籍に記入したのである。戸籍1区に一つの郷社を置き、個人はその郷社に所属するものとされた。「守札」とはその郷社から戸長を通じて授与されるもので、「生まれてから死ぬまで一生これを所持し、戸籍と並ぶ「帝国臣民たる国籍所有の証明書」となりうるものであった(p.124)」。氏子調査規則は明治6年5月には早々と廃止されたが、区内氏神神社を記載する戸籍書式は明治18年(1885)まで続き、「神社組織を戸籍の行政単位に対応した形で再編(同)」する政策は長く尾を引いた。

しかしながら壬申戸籍は驚異的なスピードで編成されたものの、脱漏が多く制度には欠陥があった。特に戸籍に兵役逃れの抜け道があったことなどから、明治19年に諸規則を改正して新たな戸籍制度を設けた。これを「明治19年式戸籍」という。これは戸籍編成の原理を変えたのではなく、書式や事務管理を統一して厳密に作成できるようにしたものである。

さらに明治31年(1898)、「明治民法」の成立により戸籍は「家」中心の社会観を補強するものとなった(明治31年式戸籍)。というより戸籍そのものが「家」だった。「家」とは、「いわば明治国家において創作された概念(p.132)」であり、その具体的形態が戸籍だったのである。そして「戸主」の同意なくしては婚姻や養子縁組など新たな家族関係は形成することができないようになり、さらに戸主には祖先祭祀の権利などの特権が付与された。

もう一つの変更点は「本籍」が戸籍編成の基本となったことだ(それまでは家屋が基本)。そして外国人は戸籍の対象から排除された。血統主義、一家一籍、純血主義を戸籍が表現した。ただし明治31年式戸籍では身分登記簿が新設された。戸籍から徴兵や警察的機能の必要性が薄れたことを背景に、主務官庁が内務省から司法省に移管され、個人単位の管理が試みられたのである。しかし大正4年の改正で身分登記簿は廃止され、戸籍から個人主義的要素は一掃された。これ以後、戸籍法は戦後まで根本的な改正はない。

日本はその版図の拡大に伴い、戸籍の網も広げていった。樺太や琉球では、表向きには「臣民」として日本国籍が与えられたが、樺太では「旧土人」と載されるなど差別的扱いがあった。琉球の場合は家族制度や名前の方式が本土とは異なったため、日本式に名前を付けなおす琉球版「創氏改名」が行われた。

「第4章 植民地と「日本人」」では、植民地における戸籍政策が批判的に述べられる。

朝鮮、台湾、樺太は内地のみならずそれぞれの地域間でも法令が異なる異法地域だった。それらの地域で戸籍がどのように編成されたかは煩雑なので割愛する。しかし総じて、「外地」(日本の法が適用されない日本領土=植民地)の人を日本臣民として「保護」する一方で「抑圧」するという相反する目的が戸籍に付与され、同じ日本臣民でありながら内地人とは別に管理された。朝鮮では「創氏改名」が行われ、朝鮮人を日本人化したのに、実際には内地人と別に管理していた。

日本の植民地政策は「同化政策」であったと思われがちだが、実際には厳然とした外地人の差別があり、例えば内地人と外地人の結婚は、適用される法が異なるために有効に処理されない問題(共婚問題)もあった。日本は「多民族国家」になったが、それは制度上では統合されていない、見せかけだけの「多民族国家」であった。

そして外地と内地の戸籍法に通底するのは、「家」と「本籍」の原理であった。自由に移動できない「本籍」という観念的な場所に「家」があり、それを基準として戸籍が編成され、内地人と外地人の婚姻も「家」の原理で処理された。しかし外地では人々がダイナミックに移動し、また日本とは違った家族や社会の在り方があったので、「家」と「本籍」の原理は実態に即しておらずうまく機能しなかった。例えば在中国台湾人、在満州朝鮮人などは把捉自体が難しかった。

満州国に至っては、満州国が「建国」されたにも関わらず、満州国の「独立」をしつらえたい一方、満州における日本人の特権的地位をどのように規定するか結論が出ず、国籍法自体が成立を見なかった。満州国は体裁上独立国家であったにも関わらず、満州国国籍の明確な規定が存在しなかったのである。ただし国籍法・戸籍法に替わって身分登録法である民籍法が制定された。これは本籍のような観念的な場所を基準にするのではない居住登録制度であり、日本人が民籍に登録されても日本国籍は失わなかった。「日本人の処遇にかまけて肝心の「国民」も「国籍」も創出できなかった満州国に、日本の”傀儡国家”ではなく”独立国家”たる面目を見出すことは無理(p.224)」だった。

「第5章 戦後「日本人」の再編」では、戦後、旧植民地出身者の戸籍がどうなったかを述べる。

戦後、日本は外地=植民地を手放すことになったが、その際に驚くべき決定をする。これまで「日本臣民」として扱ってきた外地籍の人たちを、個人の意思とは関係なく「外国人」とするという決定だ。それまでは形の上では「同胞」として扱っていたのが嘘のようだった。特に在日朝鮮人や台湾人はすでに日本人化していたのに、それに選択の機会すら与えず強制的に外国人化したのは、とても近代国家の対応とは呼べない。在日朝鮮人が日本国籍であるにも関わらず外国人登録を受ける、という奇観を呈したのは、元をただせばこの対応に問題がある。

「戸籍を原初的な「民族」の表象とみなし、かつ壬申戸籍を源流として受け継ぐ内地戸籍こそが正統なる「日本人」の証しであるという思考は、「戸籍原理主義」と呼びうるものである(p.251)」。

一方、大陸に渡っていた「日本人」にも過酷な運命が待ち受けていた。終戦時、満州国には155万人の日本人が在住していたが、自国民救済の措置として引き上げ事業が行われたものの、1万4千人ほどは生死不明として一方的に戸籍を抹消されて事業が打ち切られたのである。また樺太にわたっていた朝鮮人については引き上げ事業すら行われず放置された。

沖縄については戦後米軍の統治下になり、従前の戸籍がほとんど戦災で焼失していたこともあって琉球籍が新たに編成された。だが誰を「琉球人」とみなすかは全くの米軍の随意であり、また琉球籍と日本の戸籍には互換性がなかった。しかし1953年に沖縄が軍人恩給の対象地に加えられると、激戦地だった沖縄では恩給を受給するために戸籍を作る必要が生じ、琉球政府ではマスメディアを活用しての「戸籍整備キャンペーン」が行われた。これには、「戸籍業務を通じてなしくずし的に沖縄と本土との一体化を図り、本土復帰への道筋を見出そうという日本政府の意図があった(p.274)」という。

このように、ひとたび「外国」となった沖縄でさえある程度柔軟に対応された戸籍業務が、外地においては非合理的なほど一律・暴力的に処理されたことは疑問を禁じ得ない。まさに戸籍は「融通無碍に政治権力によって駆使される「国民」選別の装置(p.274)」であった。

「第6章 戸籍と現実のねじれ」では、いまだに戸籍が抱えている問題が述べられる。

第1に、戸籍は外国人を排除している。戸籍が純粋な住民登録なら外国人の住民も対象にすべきなのに、戸籍は「日本人」を示す国籍の役割も兼ねているため、外国人は戸籍を持つことができない。「外国人登録制度」が廃止されて外国人も住民基本登録台帳で管理されるようになったことで制度的差別は若干軽減されたが、戸籍を持てないことによる生活者としての不利益は続いている。

第2に、婚外子への差別である。戸籍にはいまだに「嫡出」「非嫡出」の別が書かれている。そもそも、戸籍にこのようなことを書き入れる合理性は全くない。また、嫡出/非嫡出は、当の本人にとっては自分ではどうしようもないことであり、「法の下の平等」に反する憲法違反である(事実、相続における非嫡出子への差別は2013年に違憲判決が出た)。戸籍は、「本来は国家が干渉すべきではない親子関係について、それが「正統」なものか否かを法の名において当事者の意思を排して決定(p.280)」しているのが現実だ。

第3に重国籍者の取り扱いである。日本の法制度では重国籍者が存在しないように気を使ってきた。しかし世界的には重国籍は当たり前のものとなっている。重国籍だからといって国家に不都合はほとんど存在しないからだ。現在は、重国籍の発生防止よりもむしろ「無国籍」の発生防止の方がずっと国際的に重視されている。日本が重国籍を排除する背景には、「単一民族国家」という「血統」の理論がいまだに生きているからかもしれない。

第4に、日本の戸籍制度は非常に守旧的である。東アジアではかつて戸籍が広く用いられてきたが、韓国では民主的な要求によって家を基準にした戸籍法が廃止された。台湾ではまだ戸籍が残っているが、日本のそれとは違い生活の場所を基準としたもので、しかも本籍は廃止された。こうした東アジアでの戸籍の動向を鑑みると「日本の戸籍制度の守旧性が鮮明(p.295)」である。

「おわりに」では、戸籍の歴史と現在が総括される。

日本の戸籍とは、住民登録のような実用的なものではなく、観念的なものだ。それは「家」という枠組みで「日本人」の「純血」を示し、戦前においては他民族からの優越さえ戸籍によって仮構した。いまだに国家と個人を「本籍」という観念的な場所によって結び付けているのは、日本の戸籍の虚構性が失われていないことを意味する。戸籍の歴史と現在を考えてみれば、戸籍制度が抜本的な改革を迫られているのは自明であろう。

本書は、日本の近現代の戸籍にまつわる問題を包括的に取り上げた初の本だと思う(本書執筆の後、著者は『戸籍と無戸籍――日本人の輪郭』という本をまとめており、今はそちらの方がまとまっているかもしれない。未読)。それまでにも、家制度の問題などトピック的に取り上げた研究は多かったが、本書は戸籍制度が内包する問題を、歴史を概観して見通しよく整理したのが特色で、非常に価値の高いものである。

ところで、私自身の興味は第2章の戸籍成立の過程にあったが、壬申戸籍において、なぜ明治国家は西洋へのキャッチアップを目指したのに住民登録については独自の「戸籍」を選んだのだろうか、というところが気になった。当時の欧米の身分登録制度はどのようなもので、日本の為政者はどのように見たのだろうか。

戸籍を考えるための必読書。

【関連書籍の読書メモ】
『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著
書径周游: 『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著 (shomotsushuyu.blogspot.com)
天皇と戸籍の関わりについて述べる本。皇族の人生を戸籍の観点から繙き、皇族とは何か、戸籍とは何かを考えさせるエキサイティングな本。