2016年11月1日火曜日

『南洲残影』江藤 淳 著

西郷隆盛は、なぜ西南戦争を戦わなければならなかったのかを考察する本。

西郷隆盛に関する本は、最初から西郷賛美を決めてかかっていることが多い。あるいは、西郷といえども、そんなたいしたものではなかったのだ、と言う逆の態度か。つまり、彼について語る時、人はなかなか客観的になれない。何があったか、歴史がどうだったか、という語り手に徹することができないのだ。どうしても、西郷をどう評価するか、という自分の内面が出てしまう。

それくらい、西郷隆盛という人物は、死してなお、我々に歩み寄ってくる存在である。

江藤淳は、その西郷南洲を適度な距離感で語りはじめる。南洲(西郷の雅号)の詩、彼を語った勝海舟の詩、薩摩琵琶の歌……、そうした文学の行間から、西郷の存在を浮かび上がらせる。勝ち目のない戦いに担がれ、望まない戦争に赴いた西郷。明治天皇に衷情を抱きながら、国賊にならざるをえなかった西郷を。

筆は西南戦争の有様へと進む。なぜ西南戦争が起こったのか、という直接の説明はほとんどない。私学校党も、暗殺問題も語られない。本書は、こうした薩摩と明治政府を巡る諸問題については既知の読者を対象としているのだろう。しかしそれ以上に江藤淳にとって、これらは語るに足るものではなかったのだと思う。それよりも、戦いが進む中で交わされた書簡、檄(指示)、そういったものを丁寧に紹介し、ほのかに見え隠れする戦いの本質を探っていく。この戦は、何かに反抗するための戦ではない。ただ、滅びるための戦なのだと——。

西郷はなぜ立たねばならなかったのか、その直接的な説明も本書にはない。ただ、本書を読み進めるうちに西郷の影が我々の前に立ち現れてくる。寡黙な彼のことである。自分から、私はこのために戦ったと説明はしない。雨あられと降り注ぐ銃弾の中で、平生と変わらぬ穏やかな顔をして、ゆっくりと死へと進んでいく。その後ろ姿がなにがしかを語るのだ。

こうして、西郷と適度な距離をもって語りはじめたはずの本書は、最後には西郷の姿へと飲み込まれる。「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」と江藤淳は言う。しかしそうだろうか? 西郷南洲は、「思想」だったのだろうか?

私は違うと思う。私は、西郷南洲は、日本人にとっての最後の「神話」になったのだと思う。そこにどんな思想を読み取るのかは、読み手の技倆による。最初から西郷賛美と決めてかかっては、浅はかな「敬天愛人」しか見えてこないかもしれない。いや、私もまだ、読みが浅いに違いない。

歴史家ではない江藤淳が、どれほどの読みができるのか、と人は思うだろう。しかし、文学的の行間から西郷を見る、という切り口一つとっても、かなりの深みある見方をしていると感じる。もちろんこれは西郷隆盛論の決定版ではない。江藤淳の、個人的な思いもかなり仮託されている。かといって西郷隆盛への挽歌でもない。これは、西郷隆盛を語るための、地平を確立するための本とでもいえるだろう。

【関連書籍】
『西郷隆盛紀行』橋川 文三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post_7.html
西郷隆盛を巡る思索と対話の記録。
西郷の評価を考える上でヒントに溢れた小著。


2016年10月26日水曜日

『稲の大東亜共栄圏―帝国日本の「緑の革命」』藤原 辰史 著

戦前日本の植民地における稲の育種を紹介し、新品種の無理な導入が現地の生活を変えていく”帝国主義的な”ものであることを主張する本。

戦前日本は、食糧増産に躍起になっていた。主食である米の生産が追いついてなかったからである。そのため、植民地(台湾、朝鮮)からの移入米が重要になってきた。だが、台湾や朝鮮も米文化圏ではあるが、現地米は日本の食文化に合わず、日本の気候とは異なるため日本の稲を栽培するのも難しい。そこで、植民地において日本人の舌に合う米を生産するため、稲の育種(品種改良)が盛んに行われた。

台湾においては〈蓬莱米〉、朝鮮においては〈陸羽132号〉といったものが、そうして生みだされた品種である。

新品種の導入は、農民への普及という点ではやりやすい技術革新である。農業機械や施設の導入は資本が必要だし、新しい農法に変えるのには抵抗もある。しかし品種を変えるだけなら旧来の施設設備や道具をそのまま使えるからだ。新品種の導入は、一見「ただ育てるものが少し変わるだけ」に見える。

だが現代においてモンサントのやり方が批判されているように、実は新品種の導入は、生活そのものをそっくり作り変えさせられてしまうほどの威力がある。

例えば、台湾における米は南方種(インディカ米)であったが、日本はそこにジャポニカ米の〈蓬莱米〉を普及させようとした。しかし桿(普通の植物の茎に当たる部分)が長いインディカ米ならば、桿を水牛の餌にしたり生活雑器を作る材料に出来るが、ジャポニカ米の短桿種の場合そういうことができなくなる。

そしてもっと大きいのは、日本が食糧増産のために開発した新品種は、多くの肥料を必要としたということである。肥料をやればやるだけ穫れる——それが日本の品種改良の目標だった。土地が限られていた日本では、多肥・多収穫の品種が求められていたからだ。だが、多肥・多収穫の品種は、肥料が少なければ収量も少なくなるという弱点がある。肥料をさほどやらなくてもそれなりに穫れる在来種と違って、新品種を作っていくとなると肥料を購入しなくてはならなくなる。

日本は既に1934年の時点で、世界第3位の硫安(窒素肥料)製造国家であった。その硫安の販売先としても、植民地の農業生産は注目されていたのである。

こうして、植民地の自給自足的経済が、資本主義的経済に飲み込まれていくのである。それ自体は、日本が望んでやったことではないのかもしれない。本当は、ただ食糧増産をしたかっただけで。しかしこうした、食料生産を通じた社会のあり方の意図せざる改変は、食料生産の生態系を変えてしまうためにかえって強力である。著者はそれを、アメリカの歴史学者アルフレッド・W・クロスビーの提唱する「生態学的帝国主義(エコロジカル・インペリアリズム)」概念を援用しつつ紐解いていく。

稲の品種改良という非常に地味な素材を扱いながら、植民地主義のリアルを考えさせられる好著。

2016年10月2日日曜日

『食糧の帝国―食物が決定づけた文明の勃興と崩壊』エヴァン・D・G・フレイザー、アンドリュー・リマス共著、藤井美佐子 訳

過去の文明の例を引き合いに、食料システムの脆弱性に警鐘を鳴らす本。

本書は、16世紀の終わりにイタリアから世界周遊の貿易旅行に出かけたフランチェスコ・カルレッティの足跡を辿りながら、その土地土地での様々な時代の文明の勃興と崩壊に触れ、その背景にあった食料システムの問題を紹介するものである。さらにその都度、現代の食料システムが抱える問題についても考察し、このままでは大規模な飢餓が発生するといった危機的状況になることを警告している。

しかし、その筆はあまりうまくない。

まず、 過去の文明が抱えていた食料システムの不全についての説明が十分とはいえない(なお、食料システムのことを本書では「食糧帝国」と呼んでいる)。

文明の勃興期においては、食料システムはうまく機能していた。多くの人口を支えるための農産物生産、保存、流通、取引の仕組みはどんな文明でも存在し、それがうまくいったからこそ文明はより発展することができた。だが、土壌の生産力の限界を超えて生産し土地が疲弊したり、流通経路が使えなくなったり、要するにサプライ・チェーンの鎖のどこかが壊れることで、このシステムは崩壊し、そしてその文明もまた滅んでいった。

しかしそれは、本書の副題に掲げられているように「食物が決定づけた文明の勃興と崩壊」とまではいえない。むしろ、文明が衰退の途にあったからこそ、食料システムが崩壊していったと考えることもできる。文明が衰退すれば、食料生産だけでなく、警察機構、法、取引、租税など様々な面で社会の仕組みがほころんでいく。というより、それが文明の衰退そのものである。それは食料システムの不全が文明の衰退を招いた、というような単純な因果関係で説明できるものではない。

そして、過去の文明の食料システムの説明も、さほど詳しいものではなく、ほんの概略的なことが述べられるに過ぎず、どこに問題があったのか納得できる形で示されていない。どこに真の問題があったのか、ということの探求がなおざりであるから、そうした過去の失敗が現代の食料システムの問題を考察する上での材料になっておらず、「最初はうまくいっていた食料システムもいつかは崩壊する」という程度のことしか教訓を引き出していない。

また、現代の食料システムの本質的な問題は、持続的な形で農産物を生産しようとすると、90億人を養うことはおそらく不可能である、ということだと思うが、本書ではこの問題に対して、CSA(地産地消運動)とか、スローフード、有機農業やフェアトレードといった「焼け石に水」的な解決策しか提示していない(著者自身がそう述べている)。こうしたものでは、多くの人口を養っていくことはできないというのに。

一方で、なかなか面白い小ネタはたくさん盛り込まれている。特に面白かったのは、中世の修道院が製粉権を地域独占していて、これを担保するためにならずものを雇って農民の挽き臼を破壊させたことがある、という話。食料というものは、人が生きていく上では絶対に必要なものだから、ここに既得権を築ければ強い力を得ることができるのである。

とはいえ、そうしたエピソードが、単にエピソードとして語られていて、その背景にどういう力学が働いていたのかという考察が本書ではすっぽりと抜け落ちている。例えば歴史的に、農地利用については税のあり方が大きく影響しているのだが、 本書ではほとんど税については触れられていない。

さらに、本書は「ヒストリカル・スタディーズ」というシリーズの一冊となっているが、参考文献・出典が全く表示されていない。歴史を語る上で、出典を明示しないのは最低限のルールを守っていない本だと言わざるをえない(ただし、日本語訳の際に割愛された可能性はある)。

というような問題があるため、現在の食料システムに問題があるという主張自体は間違っていないが、その問題提起の仕方、考察の仕方、提示された解決策の質、どれをとっても床屋談義の域を出ていない。また、カルレッティの足跡を辿るという趣向も、話があっちへ行きこっちへ行きするという意味で散漫であり、成功しているとはいえない。

歴史へ真摯に向き合っていないために、現在の問題を考える際にも表面的な、おざなりな本。

2016年9月29日木曜日

『ほらふき男爵の冒険』ビュルガー編、新井 皓士 訳

ほらふき男爵ことミュンハヒハウゼン男爵の語る奇想天外な冒険譚。

ミュンヒハウゼン男爵は実在の人物で、実際にロシアで従軍、活躍し、中年になってからは狩猟と思い出話三昧の生活を楽しんだ。そういう自慢話の名手であったミュンヒハウゼンに、いつしか名も無き人々が伝承的なほら吹き話を仮託するようになり、次第に荒唐無稽、奇想天外、奇妙奇天烈な冒険譚がいくつか形成されてきた。

そういう意味では、「「ほらふき男爵」の話は個人的創作というより、猟人や兵士、船員や釣り人などが、一杯機嫌でやる自慢話・大話に属する、いわば民間伝承の民俗的遺産」なのだ(本書「解説」より)。

例えばこんなのがある。馬車で狼から逃げていたところ、狼に追いつかれて馬のお尻に狼が食いついた。ビックリした馬はなおさら早く逃げようと走るが、狼はドンドン馬の体を食い破って馬の体の中にすっぽり入ってしまう。ところがあまりにすっぽり馬の体の中に入ったので、そのまま馬具がつき、ミュンヒハウゼン男爵は遠慮無く狼に鞭を振るう。そうして無事「狼の馬車」で目的地に着いたんだとか。

まあ、こういう下らない話のオンパレードである。忙しい現代の生活には、全く必要の無い馬鹿馬鹿しい話である。

ところが、この馬鹿馬鹿しい話が成立した背景はなかなかに興味深いことを、本書を読んで知った。

ミュンヒハウゼン男爵の冒険譚が最初にまとめられたのは伝承地のドイツではなくイギリスで、1785年、ルードルフ・エーリヒ・ラスペという人物による。ラスペはドイツの笑い話集『おもしろ文庫』から民間伝承的に収録されていたミュンヒハウゼン男爵の話をピックアップして、もとは脈絡のない断片的小話の集まりであったものを一人称の語りとして連続性をもたせ、「ほら吹き男爵」を創造したのであった。

こうして最初は英語で書かれた「ほら吹き男爵」は、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーによって1786年にドイツ語に翻訳され、ドイツに「逆輸入」される。しかもこの翻訳は、ラスペの作品を下敷きにしつつも翻案の域を超えてリライトされたもので、文学的価値が高いものとして再創造された作品である。

ところがもっと面白いことがある。実は、ビュルガーがこの馬鹿馬鹿しい『ほらふき男爵』をリライトしていたのは、彼が最愛の妻アウグステを亡くし「狂いたける獅子」となって悲嘆のどん底になっていた時期なのだ。

ビュルガーは才能はあったが人生の歯車は狂っていたタイプ。彼が最初に結婚したのはアウグステの姉ドレッテだった。だが次第にその妹アウグステと愛し合うようになり、すったもんだあった末にドレッテ=名義上の妻、アウグステ=心の妻、という形に落ちつくが、結婚生活約10年でドレッテが病死、翌年ようやくビュルガーはアウグステと正式に結婚したものの、なんとアウグステもその僅か半年後には死んでしまう。世間から不道徳と誹られつつ実らせた恋の、あまりに哀切とした幕切れであった。そしてそのさらに半年後に、ビュルガーは『ほら吹き男爵』に着手するのである。

しかも才能はありながら、学者としての仕事には恵まれなかったビュルガーは、貧乏の中でこの仕事を成し遂げる。にもかかわらず、彼はこの仕事で一切の稿料をもらっていないらしい。それどころか、これは編訳者なしの匿名出版で、大評判になって版を重ねることになるこの『ほらふき男爵』がビュルガーの手によるものとは、世間には全く知られることがなかった。こういう次第であるから当然のことながら、ビュルガーは生前評価されることもなく、窮乏のうちに息を引き取ることになる。この『ほらふき男爵』は文学的野心や欲得とは無関係になされた仕事だったのである。

ビュルガーが、どんな気持ちで「ほらふき男爵」を書き上げたのか、その心境を伝えるものは何も残っていない。しかし私はどうしても想像してしまう。最愛の人を失って、気も狂わんばかりの寂寞に押しつぶされそうになりながら、この馬鹿馬鹿しい話を一心不乱に書き上げた彼の姿を。この荒唐無稽なほらふき話は、彼にとってどんな意味があったのだろう。心の救済だったのだろうか。辛い現実を忘れるための逃避先だったのだろうか。それとも、亡き妻アウグステへの捧げ物だったのだろうか。でもこの作品からは、そういう陰影はほとんど感じることができない。あっけらかんとしたミュンヒハウゼン男爵が、とことん馬鹿馬鹿しい話を続けるだけで。

でもきっと、ビュルガーの人生にとって、この壮大なほら話は必要なものだったのだろうと確信できる。現実があまりにも辛い場合には、それと直接対決するのではなくて、それをコケにして、笑い飛ばして、逃げ出すにこしたことはない。空想と虚構の世界へと。

新井 皓士の自由闊達な翻訳とギュスターヴ・ドレの挿絵も素晴らしい、不朽の名作。

2016年9月20日火曜日

『プロカウンセラーの共感の技術』杉原 保史 著

プロのカウンセラーである著者が、相談を受ける立場として身につけたい共感の技術を解説した本。

共感とは、人の気持ちと同じ気持ちになることだとか、あるいは人の気持ちをぴたりと言い当てることだ、と誤解されているという。そうではなく、共感とは個人と個人の境界線が曖昧になり、互いに影響し合う「プロセス」のことだと著者は定義する。私なりの言葉で言えば、共感とは、頭の中に存在している状態(例えばAさんのいうことはよくわかるなあ、というような気持ち)のことではなく、個人が相互作用する「場」のことなのだろうと理解した。

そのような共感の場をつくりだすためにはどうしたらよいか。著者はその第一歩は「自分が感じたことを素直に認識し、それを放っておく(離れる)こと」だという。もちろん、相手のいうことを真摯に聞くということも大事である。でもそれ以前に、相手の話を聞いている「自分」が感じたこと、それに注意を向けることが重要で、そこに性急な価値判断をせずに、とりあえず「そう感じた」という事実だけを認識していく。

人の相談話を聞いていると、なにかうまいことを言ってやろうとか思うものであるし、つい自分の意見を言ってしまいたくなる。というか、相談を求められているわけだから、自分の意見を言わないといけない、くらいに思うのが普通だ。が、著者によれば、少なくとも共感の場をつくりだすということにおいては、そういう「自分の視点」からまず離れる必要がある。自分を中心に考えるのではなく、相手の仕草、そぶり、声の調子、そして話の内容、そういったものをしっかりと感じ、同時にそこから自分が感じているものを認識できるようになれば、自然と相手の立場でものを考えられるようになり、いつのまにか共感のプロセスに入ってけるのだという。

本書には、自分の感じたことを認識することがどうして共感に繋がるのかという理論的な説明はない。しかしプロのカウンセラーとしての実践に基づいているため、実際は非常に説得的である。

他の部分でも、「そういう考え方があったのかー!」というような目からウロコみたいな内容はないが、著者の豊富な実践に裏打ちされているものであるだけに、説得力と深みのある議論が展開されている。

正直なことをいうと、私は人の話を「共感的に」聞くのが下手であり、どうも知に傾いたような聞き方をすることが多い。あまり批判的ではない方だと思うが、分析的というか「この人はこういう考え方をする人なんだな」みたいに聞いてしまうことが多く、どうしてもそこに個人と個人の境界線を截然と引くような態度があると思う。本書を読むと、そいう態度自体は悪くないどころか、むしろ共感できないことを認識するのは共感の第一歩だ、ということで安心したのだが、そこで留まっていては結局相談者の力になるのは難しい。より深く人の心を理解し、また相談者自らの変化を催すためには、どうしても共感するというところまで認識を深めないといけない。

本書の内容の約半分は、そういう「認識の深め方」の指南とでもいうべきもので(本書においてこういう言葉が使われているわけではない)、これはカウンセリングのやり方そのものの解説ではないが、日常生活における相談事への対処には十分に活用できるようなハウツーになっている。認識を深めていくためには、自分が注意深い観察者になるだけでは不十分で、結局は相手が心を開いて話してくれなくてはならないわけだから、その基礎に共感の技術が必要になってくるのである。

人は、共感してくれる話し手がいるときは、自分でも思ってもみなかったような言葉が出てくるものである。というのは、心の奥底の自分にとって大事な部分は、実はとても曖昧かつ複雑であり、容易には言語化できないようなもので、「話を聴いている人の反応によってもかなりの部分が形成されてくる類のもの」だからだ。それが「表層に掘り起こされたときにとった具体的な形は、話し手と聴き手の共同作品と言ってもいいほどのもの」だと著者は言う。つまり、心の奥底に閉じ込めていた気持ちは一人では取り出せないのである。共感して聴いてくれる誰かがいなくては、それはずっと謎のままなのだ。

このように、共感する技術というのは、「うんうん、その話分かるよー」とただ相づちを打つ技術ではなく、相手の心の深い部分に触れるために必要な技術なのである。

2016年9月9日金曜日

『梁塵秘抄』後白河法皇 編纂、川村 湊 訳

『梁塵秘抄』に基づいて書かれた詩集。

本書は、一応『梁塵秘抄』の現代語訳ということで販売されているが、実態としては翻案であり、ほぼ創作に近いものが多い。例えばこんな調子である。

【訳】
甘い言葉も やさしい嘘も
あなたの口から 聞きたいの
ほんとの愛など うそっぱち
いまの 夢だけ あればいい

【原歌】
狂言綺語のあやまちは 仏を讃(ほ)むるを種として 麁(あら)き言葉も如何なるも 第一義とかにぞ帰るなる

どうしてこんな超訳がなされているかというと、もともと『梁塵秘抄』というものは庶民の間での流行歌を収録したもので、「今様(いまよう)=当世風」の言葉の世界が展開されているものであるから、まじめくさった古典の翻訳ではなく、あえて今様の現代語訳にしようという意図があるのである。

私は、その意図には大変共感する。庶民の俗謡を表現するのに、韜晦な訳文を使うのはよくないと思う。しかし本書ではこの意図は十分成功しているとはいえない。というのは、著者の現代語訳は、今様というよりも昭和歌謡調、演歌調であり、どちらかというとレトロな、古くさい表現が多いのである。そして、原歌と比べてどうも「ありがち感」が増している。

つまり、『梁塵秘抄』の詩想を、ありがちな演歌型にはめて表現したような現代語訳が多い。『梁塵秘抄』への入り口として、こういう遊びが入った作品に親しむのもいいと思うが、肝心の現代語訳があまりよくないというのが根本的な問題である。

私が思うに、『梁塵秘抄』を現代詩に翻案するとすれば、演歌というよりヒップホップのようなものになぞらえる方がよい。試みに先ほどの歌を私が訳してみればこんな風だ。

【風狂訳】
うまいセリフ とびきりのライム でも
それ中身空っぽ! なんて言うなよ?
見かけだけクール てわけじゃないんだぜ
ほんとうはフール マジでクソまじめさ
神も 仏も 畏れる男
不器用なリリック でもわかってくれるだろ?
この歌の価値!

ちなみに原歌を少し解説すると、「無闇に飾り立てた言葉や小説・和歌の類は、仏教の立場からは過ちとされるが、その本意には仏への讃仰(今の言葉で言ったら「人間讃歌」かもしれない)があるわけで、それが乱暴な言葉や無理な言葉であっても、結局はその本意こそ重要で軽んずべきではない」というような意味であると思う。

この歌は、この俗謡集を編纂した後白河法皇のまさに衷心が仮託されたものである気がする。後白河法皇は、天皇・上皇の地位にありながら、当時の庶民の歌に惹かれてその練習に明け暮れた。ハイ・カルチャーが支配する宮中の中で、サブ・カルチャーを愛好していた変わり者だった。社会の主流派から軽んじられた俗な流行歌に狂い、最高の地位にありながら、名も無き歌人(うたびと)から歌を習った。後白河法皇の周りには、一種のサブカル・サークルができあがったが、彼ほどの熱意で庶民の歌を歌う人間は他になく、孤独もあったようである。

その後白河法皇が、何十年来聞き、習い、歌った歌を、せめて後の世に残しておこうと編纂したのがこの『梁塵秘抄』なのである。後白河法皇がいなかったら、決して残らなかったであろう、社会のはみ出しものたちの謡。陳腐な昭和歌謡の枠にはめてしまうのは、惜しいと思うのである。

2016年9月8日木曜日

『宗教を生みだす本能―進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド著、依田 卓巳 訳

宗教を進化の産物と見る視点から、宗教の来し方行く末について考える本。

著者は進化学の研究者でもないし、宗教学の専門家でもない。本書はジャーナリストである著者が、これまでの研究成果をまとめ、それに対する自らの考えを述べた本である(つまり著者自身の研究ではない)。

私は、宗教の進化心理学的考察については、本書でも参照されている主要な一般向け書籍を割合読んできた。例えば、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』、ダニエル・C・デネット『解明された宗教』、スティーブン・ドーキンス『神は妄想である』、Marc Hauser "Moral Minds"、スティーブン・ピンカーの諸著作といったものだ。こうした書籍に既に目を通していれば、本書のようなジャーナリストがまとめた本を手に取る必要はないかもしれない。だが、素人には素人の慧眼というものもあるので、自らの理解を確認する意味も兼ねて本書を読んでみた。

本書は、概ね4つの内容から構成される。

第1に、宗教は進化の産物であることを論じる(第1〜3章)。すなわち、宗教行動は人間が恣意的に作った文化ではなく、生得的にプログラムされている行動であるということだ。宗教を持った集団はより生き残りやすかったため、宗教を持つ遺伝子はどんどん広まっていった。宗教には集団を結束させる力があり、宗教を持たない集団との戦闘においては、信心深い集団の方が有利だったのである。なぜなら宗教には、自己の利益を顧みないで組織的な行動を優越させる力があるからだ。

この部分は、既存研究のまとめがほとんどであるが、少し要約が過ぎて議論に丁寧さを欠くのが気になる。歯切れよく言おうとするあまり、未だ研究が煮詰まっていないことについても素人の独断を発揮している部分がある。例えば、宗教が進化の産物だとするのは今や通説だとしても、宗教を構成する行動全てが適応的(子孫を多く残せる)かどうかはまだ明らかではない。パスカル・ボイヤーは人間が神を認知するのは、人間の生得的な認知機構の誤作動や副作用であると考えるが、そうした考えを一蹴して、宗教行動の全てが進化的に獲得された、生き残りに有利なものだったと決めつけるのは粗い議論である。

この部分だけでなく全体として、素人の蛮勇というか、先行研究を大雑把にまとめて臆断するような粗い論調が目立つ。宗教の進化・変容というものは、まだ分かっていないことがとても多いので慎重に扱うべきものと私は思う。この部分だけで本1冊分くらい使いたいところである。

第2に、宗教に先立つものとして、音楽やトランスを伴う儀礼が進化したのではないかと論じる(第4、5章)。ここは少し面白いところで、私自身は音楽の発生を宗教と関連させて考えたことがなかった。確かに、音楽は宗教と密接な関係を持ち、その進化の黎明において宗教と共に発達したことはありそうなことである。トランスについては、ヒト以外の霊長類には集団で動きを同期させる(同じリズムに乗る)能力はないとして、なぜヒトでは集団でのリズム運動が発達したか、という考察から原始宗教におけるトランスの重要な役割を推測している。これらは概ね納得できる議論ではあるが、ここに提出された事例が少なすぎるので、悪く言えば床屋談義の域を出ていないようにも思われる。音楽については、リズムだけでなくメロディーや和声のことも考えると宗教との関連で全てを理解することはできないのは当然なので、もう少し広い視野で起源を研究すべきだろうと思った。先行研究を確認したいところである。

第3に、狩猟採集社会から定住社会へ、そして都市文明への社会進歩に応じて、どのように宗教が変容していったかを論じる(第6、7章)。ここは一種のケーススタディ(事例紹介)であり、 あまり理論的なことは述べられていない。しかも提出された事例も少ないので、著者の考える宗教の変容を語るために、恣意的に事例が選ばれているように感じる。特に、定住社会以降の宗教の変容については、ユダヤ、キリスト、イスラムという3大一神教を取り上げているが、このかなり特殊な宗教を事例の代表として持ってきたのはよくなかったと思う。

第7章は、ユダヤ教史、キリスト教史、イスラム教史の要約となっているが、その取り上げ方もあまり誠実なものではない。例えばキリスト教史については、随所にポール・ジョンソンの『キリスト教の2000年』が参照されているが、これはローマ史を繙くのに塩野七生の『ローマ人の物語』を参照するようなもので、学術的な態度としては疑問である。イスラム教史に至っては、ムハンマドは実在していなかった、という仮説をかなり重んじて述べており、無闇にセンセーショナルなことを言おうとしているだけではないかと感じた。

また、宗教が進化的な産物とするならば、最初の人類が既にそれを持っていたはずなので、全ての宗教はその祖宗教からの系統を描けるのだ、という仮説を述べている(つまり全ての宗教は遡るとある一つの宗教へとたどり着くという)が、これはちょっと先走り過ぎの議論である。遙かに研究が先行している言語ですら、全ての言語の祖語があったのかどうかということは未だ明らかでない。こういう議論は軽率であると思う。

第4に、宗教の発展を辿りつつ、社会機構にまつわる様々なことを論じる(第8〜12章)。道徳、取引(経済)、出生率の調整、天然資源の管理、戦闘、国家(アメリカの宗教事情)、そして宗教の未来について。この部分の議論はあまり深みのあるものではなく、それぞれ簡単に宗教との関わりが述べられているに過ぎない。我々は既に脱宗教化した世俗国家に生きているので、こうした社会機構の様々な面に宗教が深く関わっていたことを忘れがちであるが、現在でも宗教は大きな影響力を持っているんですよ、という主張である。ここについては、著者は随分気焔を上げて書いているが、別段新味のある内容でもないと思う。

全体として、専門家ではないから議論が浅くなりやすいのは仕方ないとしても、その浅い議論から断定的に述べる粗忽さが目に付いた。エピソードをいくつか紹介して、そこからすぐに結論に飛びつくようなところがあり、論理的に堅牢でない書物である。ジャーナリストはジャーナリストらしく、自らの見解はあまり述べないで、現在の研究の最前線を素直にまとめるだけでももっと充実した本が書けたのではないかと思う。そもそも、著者はジャーナリストでありながら、本書を書くために誰一人として取材していないようである。要するに、これは刊行資料を読んだだけでわかったつもりになり、自分の考えを付け足した本で、そのために著者の独善が修正されずそのまま書かれている。

また、文化の進化ということを考える際に重要なはずの「ミーム」の概念が全く提出されていないことは重大な問題だと思う。宗教がある程度適応的だったにしても、それが広まるには宗教を生みだす遺伝子が存在している必要はない。宗教がミーム(つまりそれを伝えていく文化的遺伝情報)によって伝わっていけば十分なのだ。ダニエル・C・デネットなどは、宗教は我々に寄生するミームを持つ、譬えればウイルスみたいな存在である、というようなことを述べていて、このアイデアは本書においても紹介する必要があったと思う。

いろいろ問題点を述べてきたが、一つだけ擁護するとすれば本書の内容はそれほど的外れではない。議論は粗忽で、同じことの繰り返しが多く、筆の運びは論理的繋がりが曖昧だが、書かれていることそのものは妥当なことが多い。進化生物学や宗教学者たちにもしっかり取材して書けば、かなり面白い本になったような気がする。

宗教の進化を探るという面白いテーマとそれなりの内容を持ちながら、書き方がマズい惜しい本。