2016年9月29日木曜日

『ほらふき男爵の冒険』ビュルガー編、新井 皓士 訳

ほらふき男爵ことミュンハヒハウゼン男爵の語る奇想天外な冒険譚。

ミュンヒハウゼン男爵は実在の人物で、実際にロシアで従軍、活躍し、中年になってからは狩猟と思い出話三昧の生活を楽しんだ。そういう自慢話の名手であったミュンヒハウゼンに、いつしか名も無き人々が伝承的なほら吹き話を仮託するようになり、次第に荒唐無稽、奇想天外、奇妙奇天烈な冒険譚がいくつか形成されてきた。

そういう意味では、「「ほらふき男爵」の話は個人的創作というより、猟人や兵士、船員や釣り人などが、一杯機嫌でやる自慢話・大話に属する、いわば民間伝承の民俗的遺産」なのだ(本書「解説」より)。

例えばこんなのがある。馬車で狼から逃げていたところ、狼に追いつかれて馬のお尻に狼が食いついた。ビックリした馬はなおさら早く逃げようと走るが、狼はドンドン馬の体を食い破って馬の体の中にすっぽり入ってしまう。ところがあまりにすっぽり馬の体の中に入ったので、そのまま馬具がつき、ミュンヒハウゼン男爵は遠慮無く狼に鞭を振るう。そうして無事「狼の馬車」で目的地に着いたんだとか。

まあ、こういう下らない話のオンパレードである。忙しい現代の生活には、全く必要の無い馬鹿馬鹿しい話である。

ところが、この馬鹿馬鹿しい話が成立した背景はなかなかに興味深いことを、本書を読んで知った。

ミュンヒハウゼン男爵の冒険譚が最初にまとめられたのは伝承地のドイツではなくイギリスで、1785年、ルードルフ・エーリヒ・ラスペという人物による。ラスペはドイツの笑い話集『おもしろ文庫』から民間伝承的に収録されていたミュンヒハウゼン男爵の話をピックアップして、もとは脈絡のない断片的小話の集まりであったものを一人称の語りとして連続性をもたせ、「ほら吹き男爵」を創造したのであった。

こうして最初は英語で書かれた「ほら吹き男爵」は、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーによって1786年にドイツ語に翻訳され、ドイツに「逆輸入」される。しかもこの翻訳は、ラスペの作品を下敷きにしつつも翻案の域を超えてリライトされたもので、文学的価値が高いものとして再創造された作品である。

ところがもっと面白いことがある。実は、ビュルガーがこの馬鹿馬鹿しい『ほらふき男爵』をリライトしていたのは、彼が最愛の妻アウグステを亡くし「狂いたける獅子」となって悲嘆のどん底になっていた時期なのだ。

ビュルガーは才能はあったが人生の歯車は狂っていたタイプ。彼が最初に結婚したのはアウグステの姉ドレッテだった。だが次第にその妹アウグステと愛し合うようになり、すったもんだあった末にドレッテ=名義上の妻、アウグステ=心の妻、という形に落ちつくが、結婚生活約10年でドレッテが病死、翌年ようやくビュルガーはアウグステと正式に結婚したものの、なんとアウグステもその僅か半年後には死んでしまう。世間から不道徳と誹られつつ実らせた恋の、あまりに哀切とした幕切れであった。そしてそのさらに半年後に、ビュルガーは『ほら吹き男爵』に着手するのである。

しかも才能はありながら、学者としての仕事には恵まれなかったビュルガーは、貧乏の中でこの仕事を成し遂げる。にもかかわらず、彼はこの仕事で一切の稿料をもらっていないらしい。それどころか、これは編訳者なしの匿名出版で、大評判になって版を重ねることになるこの『ほらふき男爵』がビュルガーの手によるものとは、世間には全く知られることがなかった。こういう次第であるから当然のことながら、ビュルガーは生前評価されることもなく、窮乏のうちに息を引き取ることになる。この『ほらふき男爵』は文学的野心や欲得とは無関係になされた仕事だったのである。

ビュルガーが、どんな気持ちで「ほらふき男爵」を書き上げたのか、その心境を伝えるものは何も残っていない。しかし私はどうしても想像してしまう。最愛の人を失って、気も狂わんばかりの寂寞に押しつぶされそうになりながら、この馬鹿馬鹿しい話を一心不乱に書き上げた彼の姿を。この荒唐無稽なほらふき話は、彼にとってどんな意味があったのだろう。心の救済だったのだろうか。辛い現実を忘れるための逃避先だったのだろうか。それとも、亡き妻アウグステへの捧げ物だったのだろうか。でもこの作品からは、そういう陰影はほとんど感じることができない。あっけらかんとしたミュンヒハウゼン男爵が、とことん馬鹿馬鹿しい話を続けるだけで。

でもきっと、ビュルガーの人生にとって、この壮大なほら話は必要なものだったのだろうと確信できる。現実があまりにも辛い場合には、それと直接対決するのではなくて、それをコケにして、笑い飛ばして、逃げ出すにこしたことはない。空想と虚構の世界へと。

新井 皓士の自由闊達な翻訳とギュスターヴ・ドレの挿絵も素晴らしい、不朽の名作。

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