2016年9月2日金曜日

『ガラスの道』由水 常雄 著

ガラス工芸がどこで生まれ、どのように伝播し、どう発展したかを世界史的に述べる本。

本書は、ガラス工芸家でありガラスの研究者である由水 常雄が、十数年の研究の結果をまとめ、世界で初めての試みとして「ガラスの世界史」を概説したものである。ガラス探求のためプラハのカレル大学(大学院)に留学したり、中近東にフィールドワークをしている著者らしく、概説とはいえ調査は綿密を極め、通説のつぎはぎではなく、通説を批判的に検証しつつ糾合し、堅牢な歴史を紡いでいる。

ガラスという人類史上初めての人工素材が誕生したのは、メソポタミアにおいてだったらしい。紀元前2200年くらいのことで、遅れて紀元前15世紀あたりにエジプトでもガラス技術が花開いた。その後、ガラスは「文化伝播の露払い」として、文明交渉の歩みとともにユーラシア大陸に広がっていった。

特にその技術が大きく発展したのがローマ帝国において。それまでは「コア・ガラス」といって、ガラス器の製作は粘土などで作った土台に融かしたガラスを巻き付ける方法によって行われていたが、ローマ帝国の地中海沿岸において現代のガラス器製法と同じ「吹きガラス」技法が開発される。これが1世紀のことで、これによりガラス器の大量生産が可能になり、また技法も格段に進歩して、それまでの百年で作られる量のガラス器がわずか1年で作られた、というほどガラス文化が花開いた。これがユーラシア大陸を席巻したローマン・グラスである。2、3世紀には、「あらゆる種類のガラス器が作られ、超豪華なガラス器から、ごく普通の日常ガラス器、飲食器や容器のほかに、窓ガラス、モザイク、鏡、装飾品などが作られていた」。

ローマ帝国が滅亡しても、ガラス文化の中心は中近東でありつづけた。ローマン・グラスを受け継いで、完成されたデザインと大量生産という、現代的なガラス製造によってユーラシア大陸中にガラス器を輸出したのが、ササーン朝ペルシアである。これまでササーン・グラスはそのデザインの少なさなどから実態が不明であったが、ササーン・グラスの製造体制を近代的工場生産システムと推測したのは著者の創見である。

ササーン・グラスといえば、我が国の正倉院宝物にあるガラス器の一群が思い起こされるが、著者は水も漏らさぬ厳密な考証によって、これらが検証によらず古代から伝来したササーン・グラスとされてきただけで、実際には来歴が詳らかでない品がかなり混入していることを明らかにする。この正倉院宝物の調査は、追って『正倉院ガラスは何を語るか - 白瑠璃碗に古代世界が見える』と『正倉院の謎』でもさらに展開されている。

ササーン・グラスの後に発展したのがビザンチン・グラスである。ローマン・グラスの伝統を受け継ぎつつも、イスラーム文化にも影響されて育ったビザンチン・グラスは、従来その名のみ高い一方で実態は不明であった。それが近年考古資料の出土などによってだんだんと明らかになってきているとのことである。しかし、本書ではイスラーム世界でのガラス工芸については簡単に触れられているのみで、詳細は今後の研究が俟たれる。

そして近世に入ると、有名なベネチアン・グラスが勃興してくる。 シリアやビザンチン帝国からガラスの技術を学んだベネチアは、国家財政を支える重要な輸出品としてガラス器の製造を始め、東方のガラス産地が戦乱によって潰滅することで世界の一大ガラス供給地となり巨利を得る。しかしその裏には、その技術を流出させぬようガラス工人をムラノ島という島に一人残らず幽閉し、貴族のように厚遇しながらも奴隷のように働かせるという非人道的政策があった。14世紀から15世紀、こうして国家の力によりガラス技術は研ぎ澄まされていった。

一方で、ベネチアとは真逆のやり方でヨーロッパにガラス技術を伝播していったのが同じイタリアのアルターレという小都市。アルターレにはガラスの同業者組合があり、ヨーロッパ各地にこの組合員を派遣して技術を広めていったのである。ベネチアと比べれば知名度はないが、ヨーロッパのガラス工芸の発展に寄与した面からいえば、この「アルタリスト」の活躍はベネチアよりも遙かに重要だ。

しかし技術的には、国家政策によってガラス製造を推し進めたベネチアはアルターレの敵ではなかった。各国はベネチアのガラス器を競って買い求め、大きな鏡やシャンデリアなどの高価なガラス器の購入はその財政を傾けるほどであった。そのため各国は、ベネチアにスパイを送り込んでムラノ島に幽閉されているガラス工人たちの引き抜きを試み、逆にベネチアの隠密はそれを防禦するという激烈な産業スパイ戦が繰り広げられた。

このスパイ戦は意外な展開によって終わりをみせた。16世紀になって、ベネチアのガラス製造法が本になって出版されだしたのである。そして1612年、フィレンツェにおいてアントニオ・ネリがガラス工芸の集大成とも言うべき『ガラス製造法』を出版すると、ヨーロッパにはベネチアの進んだガラス技術が一気に伝播していった。ネリの『ガラス製造法』は、我が国でも翻訳・出版されており、世界各国にガラス技術を伝えていったガラス史上もっとも基本的な著作となった。

これ以降のガラスの歴史は、本書ではごく簡単に描かれるに過ぎない。ボヘミアン・グラスとかアール・ヌーボーのガラスについては専門の著作も多く、概説としては深入りするには及ばないとの判断であろう。

ところで、ユーラシア大陸の東へと伝わっていったガラスについては不思議な運命が待っていた。中国には早くも周代にはガラスが伝わっていたらしい。そして戦国時代にはトンボ玉が流行し、しかもその製造も始まっていた。だが古代において中国では粘土の低いガラスが製造されていて、ガラスといえば鋳作(型に鋳れて作る)するものとの観念ができあがってしまった。これにより、吹きガラスの技法が開発された後も、この観念に阻害されて吹きガラスをうまくこなせなかったほどの悪影響を与えたとのことだ。

さらに、古代中国では、象嵌ガラスなど装飾にはよくガラスは使われたが、不思議なことにガラス器はほとんど作られなかった。一方で、窓ガラスは唐の武帝が使ったという記録があり、これは事実とすれば地中海沿岸の諸都市に先んじており世界初のことだった。その形状は不明であるが、漢〜晋代には確実に窓ガラスが使われており、このような古代に窓ガラスを使うことが理想の建物の条件ともなっていたことは驚異的なことである。

このように、地中海世界とは違う形でガラス文化を発展させた中国文明であったが、その後はガラス器はほとんど発展しなかった。ユーラシア大陸中に広まったローマン・グラスも、さほど中国人の関心を引かなかったらしい。同じガラスの技術である釉薬を使う陶磁器は絢爛豪華に発展したのに、なぜガラス器は閑却されたのかよく分からない。中国人がガラスに再び熱を入れるのはずっと後代の清代になってからで、玉器を模したレリーフ(カメオ)・グラスである乾隆グラスの開発を待たねばならない。技術的にも困難であり、ガラス界にかつてなかったデザインで登場した乾隆グラスは世界的に影響を与え、乾隆グラスの工房自体は消失して廃絶してしまったが、アール・ヌーボーのカメオ・グラスの登場に繋がっていく。

中国とは違った形でガラス文化を受容したのが朝鮮半島の新羅で、著者は出土資料を丹念に紐解き、大量のローマン・グラスが中国を経由せずに新羅に輸入されていたことを突き止める。新羅は中国文化よりも遠方のローマ文化を積極的に導入し、国力の源泉としていたことがガラス器から見えてくるという。この考えは後に出版された『ローマ文化王国—新羅』でさらに詳細かつ大胆に展開されている。

本書は、一部専門的な記載もあるが概ね読みやすく、かつ情報は正確で考証が綿密であり、ガラスの歴史書として第一級の価値を持っている。著者は、本書が処女作というからビックリである。本書によって示された着想は著者のその後の著作によってさらに花開かされており、そういう意味では処女作にふさわしい、由水 常雄という人物を知る上でもキーになる本であろう。

あえて難点を言えば、ガラス工芸の歴史であるため、工芸ではないガラス器(例えば実験器具や医療器具など)についてはほとんど記載がないことと、イスラーム・グラスについてはかなり簡潔な記載しかないことである。私は、ガラスの実験器具こそが中世において化学が発展した主な要因ではないかと思っており、イスラーム・グラスやそれを受け継いだベネチアン・グラスから錬金術が展開されたことは象徴的である。未だ詳細が明らかになっていないイスラーム・グラスの実態が解明されるにつれ、こうした研究が進むことを期待したい。

文明の精華であるガラス器を通じて、文明の伝播・交渉を考えさせる素晴らしい本。

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