2016年11月1日火曜日

『南洲残影』江藤 淳 著

西郷隆盛は、なぜ西南戦争を戦わなければならなかったのかを考察する本。

西郷隆盛に関する本は、最初から西郷賛美を決めてかかっていることが多い。あるいは、西郷といえども、そんなたいしたものではなかったのだ、と言う逆の態度か。つまり、彼について語る時、人はなかなか客観的になれない。何があったか、歴史がどうだったか、という語り手に徹することができないのだ。どうしても、西郷をどう評価するか、という自分の内面が出てしまう。

それくらい、西郷隆盛という人物は、死してなお、我々に歩み寄ってくる存在である。

江藤淳は、その西郷南洲を適度な距離感で語りはじめる。南洲(西郷の雅号)の詩、彼を語った勝海舟の詩、薩摩琵琶の歌……、そうした文学の行間から、西郷の存在を浮かび上がらせる。勝ち目のない戦いに担がれ、望まない戦争に赴いた西郷。明治天皇に衷情を抱きながら、国賊にならざるをえなかった西郷を。

筆は西南戦争の有様へと進む。なぜ西南戦争が起こったのか、という直接の説明はほとんどない。私学校党も、暗殺問題も語られない。本書は、こうした薩摩と明治政府を巡る諸問題については既知の読者を対象としているのだろう。しかしそれ以上に江藤淳にとって、これらは語るに足るものではなかったのだと思う。それよりも、戦いが進む中で交わされた書簡、檄(指示)、そういったものを丁寧に紹介し、ほのかに見え隠れする戦いの本質を探っていく。この戦は、何かに反抗するための戦ではない。ただ、滅びるための戦なのだと——。

西郷はなぜ立たねばならなかったのか、その直接的な説明も本書にはない。ただ、本書を読み進めるうちに西郷の影が我々の前に立ち現れてくる。寡黙な彼のことである。自分から、私はこのために戦ったと説明はしない。雨あられと降り注ぐ銃弾の中で、平生と変わらぬ穏やかな顔をして、ゆっくりと死へと進んでいく。その後ろ姿がなにがしかを語るのだ。

こうして、西郷と適度な距離をもって語りはじめたはずの本書は、最後には西郷の姿へと飲み込まれる。「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」と江藤淳は言う。しかしそうだろうか? 西郷南洲は、「思想」だったのだろうか?

私は違うと思う。私は、西郷南洲は、日本人にとっての最後の「神話」になったのだと思う。そこにどんな思想を読み取るのかは、読み手の技倆による。最初から西郷賛美と決めてかかっては、浅はかな「敬天愛人」しか見えてこないかもしれない。いや、私もまだ、読みが浅いに違いない。

歴史家ではない江藤淳が、どれほどの読みができるのか、と人は思うだろう。しかし、文学的の行間から西郷を見る、という切り口一つとっても、かなりの深みある見方をしていると感じる。もちろんこれは西郷隆盛論の決定版ではない。江藤淳の、個人的な思いもかなり仮託されている。かといって西郷隆盛への挽歌でもない。これは、西郷隆盛を語るための、地平を確立するための本とでもいえるだろう。

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