2016年11月8日火曜日

『陽気なヴッツ先生』ジャン・パウル著、岩田 行一 訳

ジャン・パウルの短編2編。

ジャン・パウルは、ドイツ散文芸術の大先達と讃えられているというし、ドイツの作家ではジャン・パウルに影響を受けた人はたくさんいるらしい。全集は数十巻に及ぶという。だが、日本ではほとんど翻訳されておらず、読まれていない。生粋のドイツの文学だから「日本人には理解不可能」とすら言われているくらいである(最近は、ドイツでもあまり読まれていないといわれているが)。

とても読みにくいというその前評判は聞いていたが、実際に本書を手にとって合点がいった。

この2編にも一応ストーリーはあるのだが、筋書きに関係あるようなないような雑談のような話が多すぎて、すぐに話を見失ってしまう。「で、今何が話題なんだっけ?」と分からなくなる。

そんなわけで、最初は読み進めるのに骨が折れた。だがこういう本にも「読み方」というのがあるもので、その「読み方」を心得ると意外とスムーズに読んでいけるものである。

ジャン・パウルの本は(というより、この『陽気なヴッツ先生』は)、それあたかも田舎の人間のとりとめのない立ち話と思って読むべきなのではないかと思う。「で、結局なんなんだ?」と思ってはいけない。おしゃべりそのものが娯楽という田舎の世界で、ただその場しのぎで思いつきや下らないダジャレをしゃべるのが立ち話というものだが、そういうものとして読むのである(ジャン・パウルの作品自体が思いつきで書かれているというわけではない)。

もちろん、話の筋というものはあるし、社会風刺のようなものもある。それどころか、文学的な問題提起と呼べるものすらある。例えば、『陽気なヴッツ先生』は、極貧の中でも自分の内面世界を充実させることで幸福な人生を生きた(と語り手に評価される)男の話であるが、幸福というものを貴族や大金持ちが独占していた時代に、「個人の内面」というそれまで評価の対象になりえなかったものを浮かび上がらせたということがこの作品の文学性だと思う。

しかしそういう理念的なことに着目しながら読んでも、なかなか作品世界に没頭することができない。それよりも、「ふーん、そうなんだー」くらいの気持ちで読むべきである。基本的には、田舎の立ち話なんだと思って、時間つぶしに付き合うくらいのゆったりした気持ちで向き合わないといけない。

そういう意味では、 日本人には理解不可能、ということは全然なくて、ただ現代日本のせわしい都会生活の中では読み通せない作品というだけなのかもしれない。ジャン・パウル自身がドイツの中で後進的な田舎の地域に生まれ、田舎の世界で一生を生きた人らしいから、その息づかいは(書かれていること自体は先進的、観念的なものであったとしても)田舎っぽい土着性があるように思われる。

収録されているもう一つの短編は『シュメルツレの大用心』というもので、これは実際には小心翼々としながら自分の中でだけ剛胆なシュメルツレという男が、臆病ゆえに解雇された従軍牧師に復帰させてもらうべく上司(将軍)に請願をしにいく話。これも話の筋は一応あるものの、とにかくシュメルツレ(と作者)のあれやこれやの随想に付き合わされる。それをいちいち頭の中で整理していたら、どうでもいいことに振り回されて逆に話が見えてこない。そういう雑然とした作品である。

しかしそのテーマはやはり「個人の内面」であって、行動はしょぼいが頭の中ではやたら小難しいことを考えているシュメルツレという男の頭の中を覗き見るという趣向なのだ。

ジャン・パウルが生涯追い求めたテーマは「自我」だったという。そして、彼は「自分の生が即文学である」と確信していた。つまり日本文学で言えば、彼の作品は「私小説」的であり、そこにストーリーテリングを期待してはいけないのだ。登場人物の内面のあり方そのものが、ジャン・パウルにとっての文学なのだろうと思う。

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