2021年7月31日土曜日

『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳

不朽の女性論。

『第二の性』は哲学者ボーヴォワールの主著である。彼女は1949年という早い時期にフェミニズム運動の先駆けとなる本書を発表した。彼女自身が、哲学者のサルトルと恋人同士でありながら婚姻も子供を持つことも拒否し、互いの性的自由を尊重しつつ共同生活するという新しい時代の女性観・夫婦観の実践者であった。

『第二の性』は、第1巻「事実と神話」第2巻「体験」によって構成され、原語(フランス語)版で1000ページ以上にもなる大著である。この生島遼一訳では、第2巻「体験」の方から訳出されており、本書は「体験」3分冊のその1である。

その内容は、あまりにも有名な冒頭「人は女に生まれない。女になるのだ」が象徴する。男が作った、男が実権を持つ社会の中で、女は少女時代から老年に至るまで副次的な役割だけが割り振られるという「第二の性」に甘んじなくてはならない。(セックスではなくジェンダーの)「女」は生得的なものではなく、社会によって作られたものなのだ。

幼児期は男女の区別はさほど厳しくないが、少女時代になるといろいろな点で女の子は行動に制限が加えられる。女の子は木登りなんかしない方がいいとか、ズボンをはくべきじゃないとか、そういう些細なことから区別は始められる。

そして少女は、自分は人生を主体的に生きることができない「第二の性」なのだということを理解するようになる。最も野心に富み、自らの可能性を開花させていきたいという欲望を持つ若者の頃に、そういう残酷な現実が少女に降りかかってくるのである。女性は自分の可能性を十分に発揮することが許されておらず、あくまでも男の付属品として生きなければならないという現実に。「少女は大人に変形するためには、女性なるがために課せられる狭い限界のうちにちぢこまらなければならない(p.87)」のである。

もちろん、本書執筆の時点(約70年前)においても、ボーヴォワールを含め自らの信じた道を突き進む女性はいた。女性であっても仕事中心の生き方をする人は皆無ではなかった。しかし一方で、その女性たちは、結婚や出産といった(ある意味では唾棄すべき役割だったとしても)世間並みの幸せを諦めなくてはならなかった、というのも事実だったのである。男たちは当然のように仕事も家庭も手に入れているのにだ。

しかも、女性が男性の付属品として生きる――つまり子供を産み、それを育てるという役割を男のために果たす――のは、自分の自主性を押し殺すのを別にしても、楽ではない。なぜなら、女性は値打ちある男に気に入られなくては、値打ちある女になれない。そして男に気に入られるためには、たいていの場合は可愛さ以外のことは評価されないからだ。「王女さまだろうと、羊飼いの娘だろうと、愛と幸福を手に入れるためには、きっと美しくなければならない(p.47)」のである。

男の場合は、スポーツや勉強、面白い話、リーダー性といったいろいろな観点で女性から評価されるのに、女性の場合は、そうした長所を持っているだけでは十分ではなく、さらに美しくなければ男性から評価されない。しかも、しばしば「あまり教養があるのや、あまり賢いのや、あまり個性的な女は、男たちを恐がらせる(p.117)」。

だから女性は、時としてあえて堕落したり自分を傷つけたりすることで世間に反抗してみたりもする。だが「若い娘は――特に不器量者でないかぎりは――けっきょく女らしさを受諾する(p.168)」。自分が主体になるのを諦めなければならないにしても、大部分の若い娘にとっては、「まじめな恋人・夫」を手に入れることが結局は有利だからだ。

それに若い娘がおしゃれをすることは、単に男性に媚びを売っているだけでもない。自分を美しくしつらえることは、それ自体が喜びであることも多い。また若い娘は(空想的な)「まじめな恋人」を夢想することも多いが、それも一つの遊戯であり、別にそういう男を手に入れるための「取引」を肯定しているわけでもない。しかし長い目で見れば、女性は「自主的個体」であることを諦め、男性に気に入れられる客体(モノ)となる選択をせざるをえないように追いつめられ、むしろ「受け身のかたち」で成功することが女性の夢となっていくのである。

こうして女は作られていく。だがもちろん、それは男性にだって言えることだ。男性だって、「男」として与えられた役割をこなさなくてはならない。でも歴史を顧みれば、重力を発見したのも、アメリカ大陸を発見したのも、憲法を作ったのも男だった。「男だって苦しんでいる」のが事実だとしても、ジェンダー(という用語は本書にはない)が平等でないのは明らかなのである。

本書は、「第1章 幼年期」「第2章 若い娘」「第3章 性の入門」「第4章 同性愛の女」で構成され、以上は第1章と第2章の内容である。第3章からは、発表当時かなりスキャンダラスに受け取られた(批判が殺到した)ところで、女性の性について率直に語られている。月経の問題などは最近になってようやく世間がボーヴォワールに追いついてきたと感じた。一方、女性の性欲についての論考は、当時は衝撃をもって受け取られた(そのおかげで本書はベストセラーになった面もある)のであるが、現代から見ると穏当である。

女性の性について多角的に述べる中でも、特に「冷感症の女」の話題が長かったように感じた。つまり性の快楽を感じない女がいるのはどうしてかということで、処女が暴力的に奪われる場合が多いこと、夫や恋人の冷たい態度、モノとして扱われることなどをその原因に求め、「冷感症」を改善させるためには、性の技巧ではなく「肉体と精神との両面の相互的な思いやり」が大事だと結論付けている。

また当時としては「第4章 同性愛の女」もかなり先進的である。若干時代を感じさせる部分もあるが、同性愛を(「正常」と対置する)「変態」として扱わなかったのは慧眼だと思った。なお本性は「同性愛」自体を考察するものではなく、同性愛の女はどうして存在するのか、ということを入口にして、女性のおかれた苦しい状況を再確認させるような内容だ。

女性は、様々な面で男性に比べ苦しい立場に置かれている。にもかかわらず、彼女は弱さを 武器として魅力として生きなければならない。女性は、主体的に戦うことを奪われているのである。ボーヴォワールは本書執筆の後に女性解放運動に加わるが、本書には女性の闘争を呼びかける要素はほとんどないのに、女性が不当に受動的な社会的役割を押し付けられていることを緻密に論証することでその戦いの土台を作っていたといえる。

なお本書は、ほとんど改行がなく切れ目なく話題が続いていく形式(小見出しなどがない)であるため、現代の読者にはちょっと読みづらい。議論がどこへ向かっているのかよくわからない哲学者的な書き方である。それに、やはり70年も前の著作であるため、女性のおかれた立場も今とは少し違う。だが70年経っても、むしろ全然変わっていないところも多いのである。それは、生殖は女性にしかできない、という普遍的な前提があるためだ。だからこそ両性の不平等を是正していかななくてはならないのに、ボーヴォワールの頃とさほど変わっていない日本の状況にも暗澹たる思いがした。


2021年7月29日木曜日

『ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き』オットー・ビーバ、イングリード・フックス著、小宮 正安 訳

ウィーン楽友協会の歴史を述べる本。

「音楽の都」ウィーン、その近代音楽シーンの中心にあったのがウィーン楽友協会である。ウィーン楽友協会の誕生以前には、音楽家が公に作品を発表する場合、自らが興行主となって演奏会を企画するしかほとんど道はなかった。つまりこの頃の「クラシック音楽」の在り方は、今のロックやポップスと似ていて、音楽家本人が会場手配・広告・チケット売りさばき・共演者手配・チケットもぎり…といったことを差配しなくてはならなかったのである。こうした演奏会開催の実務を引き受ける企画者がウィーン楽友協会であり、その誕生には画期的な意味があった。

ウィーン楽友協会の誕生以前も「音楽愛好協会」という団体が定期演奏会を開催したことはあったが、ナポレオン侵攻によって活動は頓挫していた。

やがてオーストリアがナポレオン軍に勝利すると、1812年、その戦勝や被災者の救援を目的に大演奏会が行われ、それがきっかけになってウィーン楽友協会が設立されることになる。この団体は単なる音楽の興行団体ではなくて、政治的な意味、愛国的な意味を付与された存在だった。それは当時のオーストリア皇帝フランツ1世の弟ルドルフ大公が楽友協会の名誉総裁を引き受けていたことからも明らかである。

オーストリア帝国はヨーロッパの新秩序の建設にあたり、芸術の力を政治的な立場の強化に活用しようとしたのである。

しかしウィーン楽友協会が政治的な使命を帯びた御用団体だったかというと、そうでもなかったのが面白いところで、この団体はまずディレッタントの集まりとして誕生する。つまり職業的音楽家は会員になれず、音楽を趣味とする人(多くは貴族)による音楽サークルみたいな存在だった。

彼らにとって音楽はあくまでも趣味であるために却って真剣であり、協会の活動方針は「音楽を高い水準で広めることこそ協会の主目的であり、協会員がみずから演奏したりそれを聴いたりすることは、副次的な目的である」とされていた。またこのために資料館と音楽院が併設され、その収蔵品と教育の水準も非常に高かった。 

ところでウィーン楽友協会といえば、毎年お正月に演奏されるニュー・イヤー・コンサートの会場である「ウィーン楽友協会大ホール」が有名だ。実は楽友協会がコンサートホール(1831年建設の初代ホールは現存せず)を作るまで、ウィーンにはコンサートホールというものは存在していなかった。先述の1812年の大演奏会も、王宮内部のスペイン乗馬学校乗馬ホールを借りて開催されたのである。

現在のウィーン楽友協会会館が完成したのは1870年。ウィーンは1848年に革命が起き、その鎮圧からの政治的混乱、そこからの復興の気運の中での新会館の建設だった。革命後、楽友協会の活動が低迷し借金漬けになっていたところ、カルル・チェルニーが遺産を協会に寄贈したことをきっかけにして経営が好転し、皇帝から土地を下賜(無償寄贈)されて建設したのが現会館である。

日本ではコンサートホールというものは公共の施設として建設されるものがほとんどだと思うが、ウィーンでは政治とは近かったとはいえ民間の団体が最初の音楽ホールを建設したというのが、国の在り方の大きな違いを感じさせるところである。

ところで話が逸れるが、今の日本の小都市には結構コンサートホールがある。例えば鹿児島だと姶良市の「加音ホール」、霧島市の「みやまコンセール」などは有名だ。だがモーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンが活躍していた時代のウィーンには、コンサートホールがなかったというのだから驚きなのである。彼らが人類史に燦然と輝く珠玉の名曲を作っていたのは、コンサートホールすらない頃だった。今の日本では立派なコンサートホールがそれこそ日本中にある(もちろん世界にも)。にも関わらず第2のモーツァルトやベートーヴェンがどんどん生まれて来ないのはなぜなのか。本書を読みながら文化の在り方について考えさせられた。

本書には協会の歩みの他、「楽友協会と演奏会」「楽友協会音楽院」「ウィーン楽友協会資料館」について述べており、それぞれ興味深い話題が盛りだくさんである。特に音楽院に無試験で入学を許された上、さまざまな特別扱いを受けたマーラーの話と、家族がいなかったので協会が葬儀を行い、貴重なコレクションが遺贈されたブラームスの話が面白かった。

しかし本書にはちょっとした弱点がある。それは著者が協会の資料館館長・副館長なので、どうしても内容が宣伝というか自己紹介的になっていることである。よって本書はジャーナリスティックではなく、いいところだけを切り取ってまとめたような箇所がある。また創設の事情なども、どうも説明がボヤッとしていて、書き方が明解ではない。

関係者が書いているために貴重な情報が開示されている一方で、見栄えの良いところだけをまとめたような部分もある社史的な本。


2021年7月11日日曜日

『廃仏毀釈—寺院・仏像破壊の真実』畑中 章宏 著

各地の廃仏毀釈の事例を述べる本。

本書は、安丸良夫『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)で描いた廃仏毀釈の経過を、事例面で補足するものである。『神々の〜』は明治政府の宗教政策を包括的に明らかにした名著であるが、廃仏毀釈で何が行われたかについては、象徴的な事例がいくつか引かれるだけで全国の具体例が掲載されていない。また近年刊行された廃仏毀釈関連本では、それが乱暴狼藉だったという一面的な捉え方をしているものが多く、多面的な見方では描かれていない。

そこで著者は、全国の主な信仰の地における廃仏毀釈の経過をまとめ、またその伝承を民俗学的な視点—つまり伝承をそのまま事実として見なすのではなく、なぜその伝承が生まれたのか考察するという見方—で捉えようとした。

具体的には、神仏分離以前のいわゆる「神仏習合」と呼ばれる状態がどうであったのかを簡単に紹介し、それから第1章:日吉社・薩摩藩・隠岐・松本藩と苗木藩の事例を述べる。次に第2章:奈良・京都・宮中・鎌倉の事例、第3章:伊勢・諏訪・住吉・四国の事例、第4章:各地の「権現」がどのように排除されたか、特に山岳信仰と金比羅信仰について述べ、第5章:各地の牛頭天王信仰(八王子・祇園・大和など)の改変、と続く。そして終章において、廃仏毀釈はどの程度”順調に”果たされたのかについて改めて検証している。

ただし最後の検証結果については、『神々の〜』における安丸の叙述や、その他の廃仏毀釈の研究とあまり異ならない。それは、大寺院の僧侶の場合は一部に反抗はあったものの多くは廃仏の指令に素直に従った一方、民衆や地方的な寺院については抵抗するものがけっこういた、というものである。

本書のやや新しいところは、前述の「民俗学的な視点」であり、これまでの廃仏毀釈の本では、例えば興福寺の五重塔が25円で売りに出された、といった伝承がそのまま事実として描かれていたのに比べ、「本当にそういうことがあったのかは分からないが、そういう伝承が残っている」という形で、留保しながら記述されていることである。

それらの伝承は、今となっては事実であったかそれとも誇張であったのかは検証できない。とはいえ廃仏毀釈を免れた仏像とその破壊の伝承が微妙に整合していないことを考えると、一部誇張が混じっているだろう、というのが著者の考えのようである。しかしながら「民俗学的な視点」は本書の全体には貫徹していないように見える。というのは、事例紹介がほとんど公刊されたものや公的な記録(郷土誌とか)に負っており、伝承の聞き取りといったものが行われていないからである。そこはやや期待はずれの点である。

ところで、本書を読みながら、ある地域の廃仏毀釈では堂宇の取り壊しが徹底的に行われているのに、別の地域では堂宇のいくつかが神社の社殿に転用されている、という違いが気になった。神仏分離令では神社から仏教的なものを取り除け、といっているだけなので、 必ずしも建物を壊す必要はない。例えば五重塔のような、完全な仏教建築を壊すのはしょうがないとしても、経堂とか金堂は神社の社殿に転用が可能なのである。にも関わらず、なぜ頑なに全部破却しようとした人がいたのだろうか。建物は残して神社の社殿にしてしまった方が合理的に思えるのに、どうも「壊す」こと自体に価値を置いていたように感じてしまう。やはり暴動的な心理が働いていたのだろう。

それから、明治7〜8年になって廃仏毀釈が行われている事例がいくつか紹介されていて興味を引いた。本書には記載がないが、明治5年には大教院体制が出来て神仏合同の国民教化運動が行われる。つまり明治7〜8年の頃は仏教勢力も国家に協力する立場になっていて、必ずしも一方的に弾圧される存在ではない。にも関わらず「神仏分離令」が停止されていたわけではないため、この頃になっても神仏分離とそれに続く廃仏は行われていたのである。「神仏分離令」はいつくらいまで実効性を持っていたのだろうか。これはさらに検証してみたいところである。

なお、本書では神仏習合の様相が大きく取り上げられており、今のような(仏教的ではない)神社の存在は廃仏毀釈によって生まれたものだということが強調されている。 そして例えば八坂神社については元々が疫病を抑える「牛頭天王」を奉ったものであるのに、神仏分離によって「牛頭天王」が抹消されたためにその信仰内容が不明確になってしまった…というような事例をいくつか引き、神仏分離・廃仏毀釈は単に神社から仏教的要素を取り除いただけでなく、信仰そのものの改変であったとしている。

著者自身が「問題追及の途中経過」と言うとおり、全体的に必ずしも調査内容は重厚ではないが、廃仏毀釈の全国的な動向がまとまっているのは便利であり、「民俗学的な視点」は今後の研究に期待できるものである。

廃仏毀釈の事例集として分かりやすい本。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。地方の廃仏毀釈の実態を探るためには、このくらいの情報量が必要と思う。

 

2021年7月10日土曜日

『中世の罪と罰』網野善彦・石井 進・笠松宏至・勝俣鎮夫 著

日本中世における罪と罰の在り方を考察する論文集。

何を悪事と見なし、どのような罰を加えるか、ということは社会の特質を示す格好の素材である。例えば外国に行ったとき、日本ではごく普通に許されていることが罰せられたり、逆に日本ではしてはならないことが堂々と行われたりしていて、その文化の違いにハッとさせられることは多い。その一つひとつが、その国の人々が考える社会のあるべき姿と繋がっているからである。

だから、日本の中世における罪と罰の在り方を知ることは、その社会がどのようなものであったかを照射するテーマとなるのである。

しかしながら、中世の刑法システム—今で言えば刑事訴訟法とか民事訴訟法のようなもの—は完全な形では残っていない。というよりも、中世においてはそれはその場しのぎで増築されていった建物のようなもので、当時の人にとってもその全貌が分かりづらいものだったようだ。よって、それは史料に残る片言隻句から推測・考察していくしかない。

本書には、そのようなスタンスで書かれた10の論文と著者たちによる討論会(の速記録)が収録されている。

1「お前の母さん……」(笠松宏至):鎌倉時代、悪口は重罪の一つだった。御成敗式目は前時代までの罪を踏襲していたが、唯一「悪口」だけは式目で規定された罪である。著者は特に母子相姦を表す悪口について考察している。

2 家を焼く(勝俣鎮夫):荘園領主はその領民が罪を犯したとき、追放とその住居を破却・焼却するだけでそれ以外の断罪の手段をほとんど持たなかった。では追放はともかく家の破却はどうして行われたのか。それは犯罪を穢れと見なしていたためで、穢れている犯罪者の住居を領内からなくすためだったのだという。

3「ミゝヲキリ、ハナヲソグ」(勝俣鎮夫):中世では、追放・所領没収・死刑が代表的な刑罰であったが、劓刑(はなそぎけい)や指斬り刑などの肉体刑、また片側だけ鬢を剃るとか女性の髪を切るといった刑罰も行われた。これらは「異形の姿にする刑罰」であり、詐欺や密通など「あざむきの罪」に対応していたと見られる。

4 死骸敵対(勝俣鎮夫):死骸を辱めることは中世ではよく行われた。合戦で死骸が敵方に渡らないように処置することは残されたものの務めだった。死骸は意志あるものと考えられ、その意志に反する行為は「死骸敵対」として非難された。

5 都市鎌倉(石井 進):鎌倉は政治の中心として数々の規制にがんじがらめになっていたが、実際にはその禁制が現実に力を持っていたとは限らない。また相次ぐ災害や飢饉によって鎌倉は荒廃して人肉が喰らわれていたことさえあった。そのような環境を踏まえて罪と罰の体系を考察していく必要がある。 

6 盗み(笠松宏至):盗みは公家法・幕府法では盗んだものの金額次第で罪の軽重が計られる軽罪だったが、実際に機能していた在地法(荘園本所法)では金額によらず本人の死刑のみならず妻子所従に及ぶ重罪と見なされた。盗みは不浄なことと考えられたため、このようなダブルスタンダードが長く続いたのかもしれない。

7 夜討ち(笠松宏至):現代の感覚では、昼の討ち入りと夜討ちは同じものに思えるが、中世では夜討ちは斬罪が原則の凶悪犯罪だった。やることは同じなのになぜ夜に行うことが問題になるのか。他にも夜間の通行に対する規制も多かった。どうやら中世の夜には昼と違うルールが存在していたようである。

8 博奕(網野善彦): 博奕は古代から盛行し、10世紀から11世紀には「芸能」の一つとなった。博奕は巫女と同様に神と関わりを持つ呪術的な側面があったらしい。しかし鎌倉期になると博奕は公権力によって禁止され重罪と見なされるようになり、戦国時代には刑罰も厳しくなり、その姿勢は江戸幕府にも引き継がれる。

9 未進と身代(網野善彦):未進、すなわち納入すべき年貢を納められないことは罪であった。それは借銭・借米の未返済と同じような契約不履行の罪であって、その罰として身代を取り上げられる=債務奴隷化するということが多く行われた。これは年貢の制度自体が出挙の仕組みを基盤としていたからではないかという。

10 身曳きと”いましめ”(石井 進):「9 未進と身代」での考察が再び取り上げられる。未進だけでなく犯罪の場合も「身曳き」といって、自分の身を領主の下人とすること、即ち犯罪奴隷化が行われた。 しかしその場合も上位権力による命令によったのではない。「曳文(ひきぶみ)」、すなわち「自分はこれこれの罪を犯したので自分の意志で所従になります」という自発的な文書を作成した(形にした)。「刑罰に処される人間が、自発的にそれを承認する文書を提出する形式をふまざるをえなかったところに、われわれは中世という時代の特色をもとめることができる(単行本版p.178)」。

討論[中世の罪と罰]: 興味深い話題が次々に、脈絡なく語られている。特に面白かったのは、「2 家を焼く」では荘園領主は犯罪者に対して追放・家の破却しかできなかったとしているのに、「9 未進と身代」「10 身曳きと“いましめ”」では明らかに債務奴隷・犯罪奴隷にするという処罰が存在していたとする矛盾をどう考えるか。それは荘園領主(=公家)と在地領主(=武士)では違う罪観念があったことの反映ではないかという。公家では犯罪は穢れであり遠ざけておきたいもので、その検断(逮捕・裁判・処罰)にもできるだけ関わりたくなかったが、逆に武士では積極的に摘発や追捕してその人間を殺すなり奴隷にしたりということが行われた。つまり武士は犯罪=穢れと思っていなかったフシがある。だからこそ武士が検断権を独占的に請け負うようになり、それが武士の力を高めたのではないかという指摘は面白い。

本書は雑誌『UP』に連載されたもので、論文集とはいっても、普通の論文では成立しないアイデア段階のものが自由に書かれており大変エキサイティングである。中世の刑法システムを体系的に語るものではなくトピック的なのでやや分かりづらいところもあるが、全体像がわからなくても面白く読める。

中世の罪観念を繙き、そこから中世社会の特質を窺うエキサイティングな本。


2021年6月20日日曜日

『破戒』島崎 藤村 著

被差別部落出身の青年の苦悩を描く小説。

本書は、日本近代文学の重要作品として名高いものであるが、読むのが暗鬱な本である。

主人公の瀬川丑松は、被差別部落出身(穢多)であることは絶対に隠せという父の言いつけを守り、小学校教員になって生徒からも慕われるが、校長などからは生一本な性格が疎まれて、やがて出生の秘密を探られるようになる。周囲の差別意識が徐々に露わになり、丑松は追い詰められる。その上、自分が穢多であることを隠しているという自意識が丑松自身を蝕み、丑松は鬱病のような状態へと陥る。

このプロセスは見ていて痛々しく、読み進めるのが苦痛なほどである。そこにどんな救済も用意されていないことを感じるからである。

一方、丑松が尊敬するのが猪子蓮太郎という人物で、彼はいわば「目覚めた人」として力強く描かれる。猪子は「我は穢多なり」と公言し、穢多も平等な一人の人間であることを訴える。その猪子が暴漢に襲われて死亡したことで、丑松は自らの人生の欺瞞に耐えかね、何もかも捨てる覚悟で穢多であることを公言。丑松は小学校の生徒たちの前で跪き、「今まで隠していて済まなかった」と謝り学校を去った。

その後、同じく穢多で社会から放逐された大日向という人物がテキサスに移住するという話に乗り、また以前より思いを寄せていた落ちぶれ士族の娘・お志保と両想いだとわかって、将来の結婚を臭わせて物語は終わる。

この終わり方は、「捨てる神あれば拾う神あり」という安易なラストであるが、私にとっては、最後の最後に少しでも丑松に救済が訪れてよかったと安堵できた。

しかしながら、丑松には本当の意味での救済は訪れていない。それは、丑松にとって穢多であることはあくまで恥ずべきことであり、自ら穢多を卑下してしまう差別意識を持ってしまっているからだ。その点が真に目覚めた人物である猪子とは違う。

そしてそれは、作者である島崎藤村自身にもおそらく言えることだ。藤村は、この優れた反差別小説を書きながら(そして猪子という反差別の旗手を登場させながら!)、やはり穢多を賤民視する「常識」から抜け出ることができず、言葉の端々で穢多を卑賤なものとして描いてしまったのである。

このことは『破戒』が部落解放同盟から問題視されたことからも明らかだ。藤村はそれに応じて(特に「穢多」を他の言葉に言い換えるなど)作品を訂正したが、それは本当の問題が何かを理解しない表面的な訂正で、しかも文学的に意味の通らないものとなり、むしろ改悪と呼べるものであった(本書はこの改悪が批判されて復活した初版本に基づくもの)。このことを見ても、藤村自身に拭いがたい差別意識があり、しかも差別意識の底にある本当の問題は何かということを閑却していたことの証左であるように思われる。

しかし、本書が藤村初の長編小説として自費出版されたのは明治39年で、これは差別問題がようやく社会の表面に出てきた頃である。このような早い時期に差別をテーマにしてこの重厚な作品を書いたということだけでも画期的なことであるし、今では暗鬱すぎて読むのが苦痛なほどであるが、当時は評判となって新潮社が出版権を2千円(破格)で買い取ったことから見ても、少なくとも同時代の読者に広く理解される描き方であったことは間違いない。

そして、丑松の態度は、非常にリアルなものだと私は思う。差別されてきた人間で、猪子のように突き抜けられるものはめったにいない。「差別されても強く生きなよ!」というのは、差別されないものの勝手な言い草で、実際には萎縮した生き方になってしまうのがやむを得ないのである。丑松が(まだ本当には問題が起こってもいないのに)徐々に自暴自棄になっていく姿、思いを寄せるお志保にまともに話すことができない意気地のなさ、穢多であるという自意識に押しつぶされていく様子など、等身大の若者の姿が描かれているような気がした。

そして丑松は言う。「何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕うような、そんな思想(かんがえ)を持ったのだろう。同じ人間だということを知らなかったなら、甘んじて世の軽蔑を受けてもいられたろうものを」と。

本書のテーマは「目覚めたものの哀しみ」だといわれることがある。確かにそれはそうかもしれない。丑松は、学生時代には穢多を隠すことは何とも思っていなかった。しかし猪子の思想と出会ったことで、素性を隠しながら生きていることに後ろめたさを感じるようになるのである。それは、猪子が「穢多も人間だ。恥じることはない」と力強く主張することに共感しながら、実際には素性を隠して生きているという矛盾に耐えかねたためであった。

しかし既に述べたように、最後まで丑松は本当の意味では目覚めることはない。目覚めるということはどういうことかを知り、また自分では目覚めたのだと思っていながら、実際には未だ古い社会通念に自分自身が囚われているのである。そしてそれが、私が非常にリアルだと感じた部分でもある。

例えば、小説の最後に丑松は「隠していて済まなかった」と惨めに土下座する。しかし丑松は何も悪いことをしていないのである。悪いのは、穢多を差別してきた社会の方なのだ。丑松は被害者である。にもかかわらず、丑松は「隠していて済まなかった」と謝ってしまう。それまで散々、「なぜ穢多は穢多であるというだけでこんな目にあわなければならないのか」と煩悶しながら、ついにそれが社会批判として昇華することはないのだ。それが、目覚めたつもりになっているのに、いまいち目覚めきれない丑松の限界である。そしてそういう丑松の心理は、現実の人間の非常に精確な写実であると感じた。

明治時代の反差別小説の傑作。

 

【関連書籍の読書メモ】
『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。明治維新を反省させる大作。

 

2021年6月16日水曜日

『ハプスブルク 記憶と場所——都市観相学の試み』トーマス・メディクス 著、三小田 祥久 訳

ハプスブルク帝国の残滓を見つめる旅。

本書は、副題に「都市観相学の試み」とつけられているが、このような学問があるわけではないらしい。それは、観相学——すなわち顔立ちから内面を窺う技術——を都市に応用し、都市の相貌からその内面を覗いてみようというもののようだ。しかし本書は学問的というよりは、エッセイや旅行記に近く、結論じみたものもない。

正直に言えば、私は本書の叙述の半分もピンと来なかった。なぜなら、私は本書に取り上げられる都市の一つも訪問したことがないからで、本書には写真もないため、著者のいうことが現実の場所とどう繋がるのかが全く分からなかったからである。なので以下は甚だ心もとない読書メモである。

本書では、ウィーン、プラハ、ヴェネツィア、ブダペスト、トリエステが取り上げられる。これらはヴェネツィアを除きハプスブルク帝国(ハンガリー=オーストリア二重帝国)の版図に含まれた都市である。著者はこれらの都市に残されたハプスブルク帝国の記憶をその相貌を頼りに辿っていく。

ハプスブルク帝国とは、失敗したもう一つの「ヨーロッパ」である。それは現在の「ヨーロッパ」、即ち「欧州連合」とは違った原理で他民族・多言語を統合しようとし、瓦解した。本書では、そういうことが批評家風に語られるわけではない。しかしなんとなく浮かび上がってくるのは、ハプスブルク帝国という経験が、ヨーロッパに何をもたらしたか、であるように思われる。

それは、ヨーロッパにとって18世紀が何であったのか、ということなのかもしれない。激動の19世紀を迎える前、比較的平穏だったヨーロッパが、その平穏さの中に、暗鬱な火種を宿していたことを、なんとなく都市の相貌からえぐり出しているような気がした。ハプスブルク、という豪華絢爛な言葉のイメージとは逆に、本書から滲み出てくるのはむしろ崩壊の響きである。

しかし実際、本書はそういうものではないのである。著者は都市を巡り、歴史に思いを致す。そのシンプルな営みの中で、都市が置いてきた前近代の記憶をそこはかとなく掘り起こしていくだけなのだ。


『時代と人間』堀田 善衛 著

「時代の観察者」を描く本。

本書は、「NHK人間大学 時代と人間」のテキストを単行本化したものである。その内容は、ある時代の中で活躍しつつも、それをどこか醒めた目で見つめた人々を紹介するというもので、鴨長明、藤原定家、法王ボニファティウス、モンテーニュ、ゴヤの6人が取り上げられている。

平安時代、世の中は飢饉、大火事、地震などが立て続けに起こり、人々の暮らしは惨憺たる有様になっていた。そうでありながら、同時に宮廷では、そういう悲惨な現実とはすっかり遊離した『新古今和歌集』のようなシュルレアリスム的でさえある文学が組み立てられつつあった。

鴨長明は、自身でもそうした文学をつくりながら、批評家としてはその限界を認識し、遂には世を捨てて小さな移動式の家で無所有の暮らしをした。そこで彼は、「一人の孤独な、少し大仰なことばを使えば全人間というものに長明はなったのだろう(p.60)」と著者はいう。時代に背を向けるのではなく、むしろ時代をとことんまで見極めた人=「時代の観察者」、それが本書のテーマである。

一方、『新古今和歌集』の中心にいたのが藤原定家である。定家は日記『明月記』を書き続け、時代の様相を記録した。著者は定家が「紅旗征戎我ガ事ニ非ズ(戦争なんて俺の知ったことか)」と書いたのに衝撃を受けて『明月記』にのめり込んでいく。戦時中の日本で、仮にそんなことを書けば非国民と誹られたにもかかわらず、日記とはいえ平安時代に、自由で個人主義的な言論があったのである。

とはいえ『明月記』は変則的な漢文で書かれていて読むのに大変骨が折れる。そこで著者は自分の年齢の分の日記を読む、というやり方で20年以上も『明月記』に付き合い、その時代を見る目を追体験していった。それは平安時代が終わり、武家の時代が始まっていくことのヴィヴィッドな記録であった。

ところ変わって、フランスのモンテーニュ(著者は「ミシェルさん」と呼ぶ)も稀代の「時代の観察者」であった。ミシェルはボルドーの廻船問屋のお坊ちゃんで、当時最高の教育を受け、学校に入る前にラテン語がペラペラだった。長じてはボルドー高等法院の裁判官になったが、13年間務めながら一度も昇進しなかった。ミシェルは、法の公正性に疑問を感じ、裁判が欺瞞に満ちたものであることを見抜いていたからである。そこで39歳の時に公職を辞し、モンテーニュ領のシャトー(城館)へ引っ込んでしまうのである。

そして彼は、シャトーの塔の3階に引きこもって思索に耽った。透徹した目で時代を見つめながら、宗教戦争で荒れ狂う社会とは距離を置き、何者にも囚われない自由な発想で人間とは何か、国家とは何か、権力とは、理性とは…と考え抜いた。このような思索が『エセ—』として残されているということは、人類にとって僥倖であると言わねばならない。

それとは全く違うタイプの「時代の観察者」がゴヤである。彼は宮廷画家であったが、貴族にこびへつらうような宮廷人とは全く違った。それは貴族の時代が終わりを迎えていたからでもあって、絢爛豪華な宮廷文化が内側から腐っていき、新しい時代がわき出すのを皮肉っぽい目で観察していた。そしてナポレオン軍がスペインにやってきてゴヤは悲惨な戦争を目撃する。正視に耐えないような蛮行——それを彼はある程度時間が経ってから銅板に刻みつけた。その連作銅板が『戦争の惨禍』である。

彼は「この絶望を超えてなお生きていくことができるためには、人間がかかるものであることを身を徹して見聞きし、かつ表現しなければならない(p.184)」と言っている。人間の非常に醜いところ、下劣なところをも直視し、なおも進んでいこうとしたところにゴヤのすごみがある。人間なんてこんなものさ、と突き放すのではなく、人間の醜さを引き受けようとしたのがゴヤだった。

ちなみに著者はゴヤに惹かれ、晩年になってスペインに10年間住んでいる。著者は『明月記』を読み解いた『定家明月記抄』を上梓しているが、これもスペインで書かれたものだ。堀田善衛自身が、社会から距離を置いて、歴史から今の時代を見つめた「時代の観察者」であった。

また、鴨長明、モンテーニュ、ゴヤについても著者はそれぞれ名著と呼ばれる本を書いており、私はその全てを読みたいと思った。本書は、それらの本のエッセンスで構成されているとも言える。

「時代の観察者」を通じて、人間について深く考えさせる優れた本。