「音楽の都」ウィーン、その近代音楽シーンの中心にあったのがウィーン楽友協会である。ウィーン楽友協会の誕生以前には、音楽家が公に作品を発表する場合、自らが興行主となって演奏会を企画するしかほとんど道はなかった。つまりこの頃の「クラシック音楽」の在り方は、今のロックやポップスと似ていて、音楽家本人が会場手配・広告・チケット売りさばき・共演者手配・チケットもぎり…といったことを差配しなくてはならなかったのである。こうした演奏会開催の実務を引き受ける企画者がウィーン楽友協会であり、その誕生には画期的な意味があった。
ウィーン楽友協会の誕生以前も「音楽愛好協会」という団体が定期演奏会を開催したことはあったが、ナポレオン侵攻によって活動は頓挫していた。
やがてオーストリアがナポレオン軍に勝利すると、1812年、その戦勝や被災者の救援を目的に大演奏会が行われ、それがきっかけになってウィーン楽友協会が設立されることになる。この団体は単なる音楽の興行団体ではなくて、政治的な意味、愛国的な意味を付与された存在だった。それは当時のオーストリア皇帝フランツ1世の弟ルドルフ大公が楽友協会の名誉総裁を引き受けていたことからも明らかである。
オーストリア帝国はヨーロッパの新秩序の建設にあたり、芸術の力を政治的な立場の強化に活用しようとしたのである。
しかしウィーン楽友協会が政治的な使命を帯びた御用団体だったかというと、そうでもなかったのが面白いところで、この団体はまずディレッタントの集まりとして誕生する。つまり職業的音楽家は会員になれず、音楽を趣味とする人(多くは貴族)による音楽サークルみたいな存在だった。
彼らにとって音楽はあくまでも趣味であるために却って真剣であり、協会の活動方針は「音楽を高い水準で広めることこそ協会の主目的であり、協会員がみずから演奏したりそれを聴いたりすることは、副次的な目的である」とされていた。またこのために資料館と音楽院が併設され、その収蔵品と教育の水準も非常に高かった。
ところでウィーン楽友協会といえば、毎年お正月に演奏されるニュー・イヤー・コンサートの会場である「ウィーン楽友協会大ホール」が有名だ。実は楽友協会がコンサートホール(1831年建設の初代ホールは現存せず)を作るまで、ウィーンにはコンサートホールというものは存在していなかった。先述の1812年の大演奏会も、王宮内部のスペイン乗馬学校乗馬ホールを借りて開催されたのである。
現在のウィーン楽友協会会館が完成したのは1870年。ウィーンは1848年に革命が起き、その鎮圧からの政治的混乱、そこからの復興の気運の中での新会館の建設だった。革命後、楽友協会の活動が低迷し借金漬けになっていたところ、カルル・チェルニーが遺産を協会に寄贈したことをきっかけにして経営が好転し、皇帝から土地を下賜(無償寄贈)されて建設したのが現会館である。
日本ではコンサートホールというものは公共の施設として建設されるものがほとんどだと思うが、ウィーンでは政治とは近かったとはいえ民間の団体が最初の音楽ホールを建設したというのが、国の在り方の大きな違いを感じさせるところである。
ところで話が逸れるが、今の日本の小都市には結構コンサートホールがある。例えば鹿児島だと姶良市の「加音ホール」、霧島市の「みやまコンセール」などは有名だ。だがモーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンが活躍していた時代のウィーンには、コンサートホールがなかったというのだから驚きなのである。彼らが人類史に燦然と輝く珠玉の名曲を作っていたのは、コンサートホールすらない頃だった。今の日本では立派なコンサートホールがそれこそ日本中にある(もちろん世界にも)。にも関わらず第2のモーツァルトやベートーヴェンがどんどん生まれて来ないのはなぜなのか。本書を読みながら文化の在り方について考えさせられた。
本書には協会の歩みの他、「楽友協会と演奏会」「楽友協会音楽院」「ウィーン楽友協会資料館」について述べており、それぞれ興味深い話題が盛りだくさんである。特に音楽院に無試験で入学を許された上、さまざまな特別扱いを受けたマーラーの話と、家族がいなかったので協会が葬儀を行い、貴重なコレクションが遺贈されたブラームスの話が面白かった。
しかし本書にはちょっとした弱点がある。それは著者が協会の資料館館長・副館長なので、どうしても内容が宣伝というか自己紹介的になっていることである。よって本書はジャーナリスティックではなく、いいところだけを切り取ってまとめたような箇所がある。また創設の事情なども、どうも説明がボヤッとしていて、書き方が明解ではない。
関係者が書いているために貴重な情報が開示されている一方で、見栄えの良いところだけをまとめたような部分もある社史的な本。
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