2021年5月15日土曜日

『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編

諸子百家の思想の概観。

本書は、諸子百家の思想家の中から、墨子、荀子、管子、韓非子、孫子の5名を選んで、著作から主要な部分を日本語訳したものである。なお本書で収録されていない諸子百家(の主なもの)は、儒家本流(孔子・孟子)と道家(老子・荘子)である。

そもそも諸子百家とは春秋戦国時代に活躍した思想家であるが、実際には今のコンサルに近いもので、各国を遊説して政治経済政策を説いていた。

そこで説かれていることは、紀元前の社会への言説であるにもかかわらず、びっくりするほど現代に通じるものがある。人間の社会は、2000年以上経ってもそんなに変わっていないということのようである。 

春秋戦国時代というのは、非常なる乱世であった。それまでの安定した社会の仕組みが壊れ、戦争につぐ戦争の果てに社会が再構築されていく時代である。こういう時代背景は、今の世の中にも通じる所があるかもしれない。本書のような本は現実の社会には役に立たないもののように思うかも知れないが、決してそうではないと思う。

本書はもちろん気になる思想家のみを読むのでも十分に面白い。それに小さい活字の上下二段組み450ページは結構な分量だから通読を躊躇う人もいるだろう。しかしそれぞれの著作は抄訳であるため、読むのは意外と大変ではない(原著の半分〜2/3くらいになっている。ただし「孫子」は全訳)。諸子百家の主要思想がこの一冊で概観できると思うと、労力的にもかなりお得な本だと思う。

本ブログでは既に本書の内容それぞれについてメモを書いてきたが、以下簡単に紹介する(リンク先は読書メモブログ記事)。

墨子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19.html
実利と鬼神とが奇妙に同居した、不思議な「有神論的功利主義」の書。 

荀子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19_23.html
科学的な思考によって儒学を再解釈し、環境や努力の重要性を謳う、乱世を生きる力強い思想の書。

管子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/19.html
現実的な人間理解の上に構築された政治経済学。法治主義の思想は近代的ですらある。しかし論文集的であるため一貫性はなく、通読するにはちょっと冗長。

韓非子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19.html
人間不信の君主論。絶対主義国家を構築するための冷徹な政治経済学であるが、それを実行する君主もまたロボットのように非人間的であらねばならないという救いのない書。

孫子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_14.html
記述の態度が当時としては非常に新しい。故事ではなく論理性によって説明するのが現代的。最高の兵法書。

【関連書籍の読書メモ】
『大学・中庸・孟子』金谷 治・湯浅幸孫・日原利国・加地伸行 訳(世界文学全集 第18巻)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/08/18.html
儒教の重要な古典。日本においても、中国においても、思想史的な位置付けが興味深い独特な古典。

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2021年5月14日金曜日

『孫子』貝塚 茂樹 訳 (『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

孫子の思想。

本編は『孫子』の全訳である。『孫子』は思想書ではない。あくまで兵学書である。火攻めにする時はどうするかとか、どのような地形で攻めるべきか、退却するべきか、といったような戦いの細かい話もある。

ところが、諸子百家の様々な思想を読んでから『孫子』を読むと、これが紛れもなく新しい時代の「思想」のように感じられるのである。

その新しさは、第1に説明が論理的で全く故事に頼っていないことである。儒家はもちろん諸子百家の全てが、何かを説明する時は必ず故事(歴史)を持ち出す。歴史はあまり参考にならないと考えているらしき『韓非子』でさえも、やはり故事を踏まえて自らの主張をしている。しかし孫子は故事など全く使わない。歴史に疎かったのでなければ、自らの理論によほど自信があったのだと思う。そして故事に頼らず論理のみによって説明するため、文章が非常に簡明である。

第2に、観念論や名分論を廃した、実証・現実に立脚する態度である。例えば「戦争の原理から考えて将軍が勝てないと判断したならば、君主がぜひ戦えといっても、戦わないほうがいいのである」というような言葉は当時の言論の中では衝撃的である。「君主を諫めた方がいい」ならばあるが、将軍の判断で勝手に君主に背いてもよいというのは他の諸子百家の思想には存在しない。『韓非子』であれば、君主に背くなどそれだけで死刑になる。では『孫子』ではなぜこういうことを言うか。それは単純で「そのことがまた君主にも利益になる。そういうことができる将軍はじっさい国家の宝ということができるであろう」からだ。負け戦はしない方がいいに決まっている。君主がいくら戦争をしたくてもだ。そういう当たり前の価値判断をするところが『孫子』が革命的に新しい点である。

第3に、具体的な戦争の仕方を述べているにもかからず、言葉が妙に(?)普遍的であり、いろいろな応用が利く記載が多いことである。「たたかいは国の大事[…]であるから、事前によくよく調査が必要である」「戦争上手も、敵に敗けない態度をつくることはできるが、敵をして敗かされる態勢をとらせることはできない(常に負けないことはできるが必ず勝つということは不可能)」といったようなことは、非常に応用力が大きな言葉だと思う。そうであるのも、『孫子』の表現が本質をズバッと突いるからだ。『孫子』のいうことは、ある意味では当たり前のことばかりであるが、それを素直に表すところが新しい。つまり『孫子』の新しさは思想よりも、その「態度」にあると言える。

古来、孫子が最高の兵法書とされたのも納得である。

 

2021年5月13日木曜日

『韓非子』本田 済 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

韓非の主要思想。

本編は『韓非子』全55編の中から、主要な30編を日本語訳したものである。韓非は中国の戦国時代の末期、韓の公子として生まれた。彼は荀子の弟子となったが、生まれつき口が吃りでうまく喋れなかった。華麗な弁舌で思想や政策を説く儒家や墨家が貧窮の徒であったのとは対照的で、この境遇はその思想にも反映しているものと考えられる。

韓非の思想を一言でまとめれば、「人間不信の君主論」である。

韓非は、人間を利己的存在だと見なした。であるから信賞必罰以外にはその行動はコントロールできないのだという。儒家のみならず、多くの思想家が仁義礼智といった道徳によって社会規範を確立しようとしたのに比べ、韓非はそういった内面的なものを一切信じない。信じないどころか有害なものと見なす。君主はアメと鞭によって臣下を使役すべきであるが、もしそうしたものに靡かない臣下がいれば、それは殺してしまうしかない、と韓非は述べている。人間の良心や内面的な欲求というものを徹頭徹尾信じなかったのが韓非である。

しかし韓非がそのような人間不信に陥ったのも無理はない。当時は戦国時代の末期であり、血で血を洗う戦争が行われていた。しかも政治は混乱しており、有能で廉潔な士が冷や飯を食わされる一方で、自己の利益しか顧みない口先だけの奸臣が君主に取り入って幅をきかせていた。本来政治に携わるべきでない無能で有害なものが私利私欲のために国家を食い物にしていたのが韓非の時代であった。韓非の憂憤はその文章のみでも伝わって余りある。

では、一体どうすれば君主はそのような奸臣に蝕まれずにすむか。韓非に依れば、まず君主は誰も信じてはいけないという。たとえ家族であってもである。子に裏切られて弑されることも多いのだから、わが子すら警戒しなければならないし、愛妾などもってのほかである。

そして自らの好みや感情を表すことなく、常に冷徹で冷静でなければならない。なぜなら君主の好みが明らかになると、それに合わせて取り入ろうとする奸臣が出てくるからである。さらに臣下に対しては徹底的に言行一致させる。口だけうまくて何もしない無能な臣下を排除するためである。ただしこれは簡単ではない。臣下は君主に都合の良い報告しかしないからだ。であるから、君主は臣下の言葉が真実であるか検証しなくてはならない。そして計画されたものより成果が足りなかったらもちろん処罰し、多くても処罰する。計画以上に達成するのも言行不一致であり、それは君主に対する罪なのである。

このように、韓非の考えでは君主であることは決して楽ではない。諸子百家の他の思想家と違う点はここである。韓非と同じ法家の管子などは「優秀な宰相と法律の体系さえあれば、君主は何もしなくてよろしい。無為自然である」というようなことを言っている。儒家などもこのような調子で、「君主の仕事は人事であり、優秀な人材を配置したら後は君主の仕事はない」というような主張がある。これらの主張は、君主の責任を人事や立法に限定するものだから、君主にとっては都合がよかったに違いない。

ところが韓非では、国家運営の究極の責任は全て君主にあり、国が栄えるも滅ぶも君主次第、もし国が傾いたとすればそれは君主が悪い、と君主の責任を糾弾する姿勢が鮮明である。こういうことを遠慮仮借なく主張したのが韓非らしいところである。これは韓非が公子という身分であったためだろう。

しかし君主やそれを取り巻く重臣にはこのような正論が受け入れづらいことは韓非にもよくわかっていた。「説難(ぜいなん)」という篇には、政策を説く危険性が縷々述べられている。君主が元来持っている性向と合致しない政策は、いかに正しいものであっても受け入れられる可能性は少ない。それどころかそういうことを説く論客は我が身を危うくすると警告している。そのような危険性を十分認識していながら、使節として秦に赴いたとき韓非自身がその非運にあって、あろうことか相弟子の李斯に殺されてしまうのである。

ただし、それは秦の王(後の始皇帝)に疎まれたためではない。それどころか秦王は『韓非子』の「孤憤」と「五蠹(ごこ)」の2篇を読んで「この作者に会えるなら死んでもよい」と述べたと伝えられる。李斯は韓非が秦王に重用されるのを怖れて殺したのである。実際、秦王が始皇帝になると韓非の政治理論は実行に移された。李斯の文章や、その筆と考えられる始皇帝の告諭を見ると『韓非子』の剽窃に近いものが感じられるという。

始皇帝が実行した『韓非子』の政治理論の中心は法治主義である。『韓非子』では、法を厳密に実行することによって統治する方策が述べられている。しかし他の法家との大きな違いは、法を至上のものとするのではなく、あくまでも統治の道具と見なす考えである。『管子』では、緻密な法体系があれば君主のやるべきことはなにもなく、むしろ君主すらも法令に従う必要があるとしていたのに、『韓非子』では立法と行政はどちらが欠けてもだめで、また君主は法の上に君臨しなければならないと考えている。

法家思想の流れを考えると『韓非子』はその集大成に位置するのであるが、法の下の平等など近代法学に合致するのは『管子』の方で、『韓非子』はそういう近代法学的な部分は却って後退して、法が政治理論の一つの道具になっているように見受けられる。韓非にとっては君主絶対主義が重要で、法治主義はそれを支えるものに過ぎなかったようだ。

私は『韓非子』を読みながら、他の諸子百家の思想家と比べ何か物足りなさを感じざるを得なかった。文章は憂憤の情に溢れて激越であり、説得力も高い。特に始皇帝が唸った「五蠹」などは非常なる名篇である。しかしながら、その人間理解の皮相さに、「本当にそうだろうか、人間とは?」と自問してしまうのである。韓非によればほとんど全ての人間は利に従って行動するという。であるにしても、手近にある小さな利益と、辛抱して得られる大きな利益を比べた時にどう行動するかは千差万別であろう。利益を求めるにしても、何の利益をどのように求めるかを考えなくては人間の行動は理解できない。

しかし『韓非子』では、皆がみな刹那的な利益ばかりを求めるとでも言わんばかりなのである。もちろんこれは韓非の生きた時代が戦乱の世であったことによるのだろう。人々が刹那的な生き方をするのも当然である。ところがここに一つの矛盾がある(←ちなみに「矛盾」という言葉は『韓非子』が出典)。韓非の言うような統治を行うとして、それで君主が得られる利益はなんなのかということだ。

韓非の描く君主像は、とても幸福とはほど通い。誰も信じず、愛さず、好みは隠し、安逸を許されることもなく、冷徹で、お気に入りの臣下を贔屓することもできない。まるでロボットのような君主を演じなくてはならないからだ。ではそうした人間を演じることで、君主の得られる利益は何なのか? 『韓非子』によれば、それはひとえに他国に勝つということなのである。確かにそれは大きな利益には違いない。だが普通の君主は、贅沢をしたり美姫をかしづかせたり、親族の栄達を図ることに実際の利益を見出しており、他国に勝つというのはそのための方策に過ぎない。『韓非子』の人間不信を君主に向ければ、当然君主すらそうした卑近な欲望に従って生きているとせざるを得ないのである。

だが『韓非子』では、君主は他国に勝つということを第一の利益として、それ以外の人間的喜びを全て放棄した存在として描かれている。そのようなことがあるだろうか? ありうるとすれば、他国からの脅威を警戒している最中だけだろう。『韓非子』の説く政治理論はきわめて現実的であるにも関わらず、その君主像は空想的ですらある。

つまり『韓非子』では、人間をどう見るかという視点が一貫していない。だから『韓非子』は「人間の学」として見れば破綻していると思う。韓非は、古の聖人の統治は立派なものであったとしながらも、「世異なれば事(こと)異なる」と言って、そのような統治は今の世には現実的でないと言う。古の聖人のような立派な君主は今はいないし、民衆の方も昔とは違ってしまっているからだ。だから凡庸な君主でも実行可能な政治理論が必要だというのである。

それなのに『韓非子』の描く君主は、およそ不可能なほどストイックに統治を行うロボットのような人間にならざるをえなかった。それが『韓非子』のいきついた矛盾であったのである。

諸子百家の君主論の究極であるとともに、皮相的な人間理解に限界を感じる悲劇の書。


2021年5月10日月曜日

『ナショナリズム──その神話と論理』橋川 文三 著

日本のナショナリズムの起源を後期水戸学から探る本。

本書はアンバランスな論考である。著者自身があとがきで「敗退の記録」と述べているように、とりあえずぶち上げた「ナショナリズム論」をどうにかこうにか形にするべく悪戦苦闘した末、途中で投げ出したような代物だ。「この書物は、せいぜい全体として日本ナショナリズムというテーマに迫るための序説のうちの序論(p.245)」で終わったものなのだ。

では本書が内容の薄い本かというとそうではない。確かに論考のバランスは取れていない。序論で提出された壮大なテーマはほとんど消化不良のままに終わる。だが短い記述の中に日本のナショナリズムの特質が描き出されており、長大な思想史の一部分を垣間見たような気になる本である。

序論では、ヨーロッパのナショナリズム論のエッセンス(特にナチスを巡るもの)が紹介され、ナショナリズムは自然発生的なものではなく(それどころかしばしば郷土愛とは相容れず)人為的に作られたものであると述べる。さらにルソーのナショナリズム論に触れ、ナショナリズムは、神を失った社会で「一般意志」(主権者の意志)に服従させるための「新しい神」を創出するものであったと見る。ナショナリズムは、自国の誇りを鼓舞するというような単純なものでなく、最初から「公共の利益」のために全てを犠牲にすることを求めるグロテスクなものとして生まれた。ナショナリズムとは「新しい政治的共同体への忠誠と愛着の感情(p.49)」なのだ。

第1章では、日本におけるネーションの誕生を考察する。それにあたりまずは徳川斉昭(水戸藩主)、会沢正志斎(水戸学者)、大橋訥庵(儒学者)らの水戸学に関係した夷狄排撃論が紹介される。彼らは日本を「神州」と位置づけつつも、それはあくまで封建領主の所有であると考え、また民衆を愚民視して露骨に猜疑した。その論には挙国一致を呼びかける風はなく、彼らの頭に共同体の一員としての民衆(=ネーション)は存在していない。後期水戸学はナショナリズムの母体ではあるが、そのものはネーションを生まなかった。

一方、脱藩して東北に行き、水戸学と出会って「歴史」を発見した吉田松陰は違った人間観を持っていた。彼は男女を対等なものと見なし、民衆どころか部落民をも差別しなかった。しかも理詰めでそうしていたわけではなく、ごく自然な人間の情感や「善意」からの行動だった。この「善意」が(ある意味では皮肉なことに)ネーションを予見させた。

松陰は猛烈に歴史を勉強し、歴史の核心に「忠誠心」を据えた。その忠誠とは体制に盲従するのではなく、時として君主に諫言するのも厭わないもので、表面的な忠誠のみしかない佞臣は最も彼が嫌ったところである。であるから、彼はあくまでも幕府に忠誠を誓っていた。ところが倒幕論者の勤王僧黙霖とのやりとりの中で松陰は転向し、正統な統治者は天皇のみであると考えるようになった。そして天皇に対する「億兆」として、天皇以外の人々が相対化されることになったのである。

こうして体制擁護の学であった水戸学から倒幕の思想が生まれてきたのであるが、豪農層・商人層が信奉していた国学からも、別の面から一種の革命思想が生長してきた。それは、本居宣長が古代をユートピアとして描きつつ、この世の全てを神のはからいとして肯定し、ただあるがままに身を任せることを理想化したことから始まる。あるがままの対極が儒教的な規範、すなわち封建的社会論であったので、国学は結果的に封建社会の仕組みを根底から批判することになった。宣長の思想は徹底的に非政治的であったために、かえって現実の政権を相対化する役割を果たしたのである。

さらに平田篤胤は、宣長の思想を神学に転化させた。日本人はみな神の後裔であるとされ、彼の鼓吹した天皇に対する仰望=恋闕(れんけつ)はキリスト教の「神への愛」にも比すべきのとなった。ここでも人々は天皇の前に平等であると考えられるようになる。

幕末にネーション形成への機運が起こった背景には現実的な要請があった。夷狄を攘うための武力を必要としたことから国民兵(農民も兵士としてとりたてる)の構想がむしろ民衆側から提出されたし、また下級武士たちは無能な上級武士たちを押しのけるため能力本位な社会の仕組みを求めていた。そうした階級上昇を求める切実な要望に呼応するかのように、水戸学からも国学からも、天皇を超越的な支配者とし、それによって全ての階級を相対化する一種の平等思想が生まれていたのである。「自己の身命にいたるまで皆天皇の御物」という意味で、天皇以外の全ての人は平等なのである。どうやら日本における「平等」の概念は、まずは「天皇の前における平等」として理解されたようだ。

第2章では、このように準備されていた思想が明治政府樹立後にどのように変節して行ったかが述べられる。明治政府は攘夷の実現のために樹立されたにもかかわらず、実際的な必要から開国を進めた。いくら日本が神州だと述べたところで、現実には日本は多くの国の中の一国に過ぎず、列強に伍するための富国強兵には「万国公法」に従うべしとされた。

国学者たちはその時勢の流れについていけず、大国隆正のように「日本」への狂信と世界への開明性が奇妙に繋がった例外もあったにしろ、古代社会を理想とする国学は急速に顧みられなくなっていった。そうした国学者たちの失望を島崎藤村は『夜明け前』に書いた。

そして本書には詳らかでないが、国学と共倒れしたのが水戸学を含む儒学であった。国学との無意味な主導権争いによって政府首脳から愛想を尽かされ、より実用的かつ倫理的でもあった洋学が明治政府によって大々的に採用されることになるのである。

このように、幕末に意図せずして成長しつつあった「平等」の思想は、十分に形にならないままうやむやに立ち消えてしまった。そして「文明開化」に邁進する政府によって従前の思想が全て無意味化されてしまい、武士も民衆も、思想的なアノミー状態に突入する。雨あられのように乱発された難解で朝令暮改な布告は民衆を苦しめ、むしろ無気力で刹那的にしていった。旧時代は安定し自律した生活を営んでいたのに、新政府はその基盤を破壊したのである。

しかし今度は、政府の方がネーション=国民を求めることになる。それは、対外的な脅威に対抗する挙国一致体制を作るため、進んで国家に身を献げる民衆を創出する必要があったからだ。民衆は「国民」として国家に組み込まれた。そのための一手が「天皇親政」であった。ここで「天皇の前における平等」が持ち出された。しかしそれよりも国民意識を持たせたのは、納税や兵役の義務、そして戸籍の作成であったと著者は見る。

特に戸籍法は、「国民概念の法的表現」であり画期的な意義を有した。そしてそれが戸(家族)を単位としたことは日本のナショナル・キャラクターに大きな影響を与えた。国家が直接個人を支配するのではなく、家を介して支配する仕組み・前提が出来上がっていったからである。それまで一般民衆は家(イエ)にはまるで無縁だったのに(そもそも名字すら持っていなかった)、歴史的にそうであった以上に権威主義的でしかも上位権力に卑屈な家の概念が国家によって持ち込まれ、それによって明治期のネーションが形成されていったのである。

そしてもう一つ、国民の創出を別の方向から訴えていたのが自由民権運動であるが、これにしても国家に進んで命を捧げる共同体を作るために国会を作ることが必要だ、というようなロジックを使っており、「愛国」のための国民創出という点では政府の考えとほとんど変わらなかった。

すなわち、日本では「国民のナショナルな目醒めを経て国民国家が成立したのではない。列強に伍すべき「国民国家」が少数の専制的指導者によって設計され、それに必要な国民は教育によて創り出された(p.252 渡辺京二による解説)」のである。そして、日本は国民国家であるにもかかわらず、国民の意思(一般意志)は顧みられることはなく、主権者はあくまでも天皇であった。そして戦後、主権者が国民となっても、未だに確固たる「国民」は生まれていない。

本書は、著者自身が「序説のうちの序論」という通り、日本ナショナリズム論のアイデアが提示されただけで終わった感がある。特に不十分に感じたのが、吉田松陰の転換がどう幕末の思想史に繋がってくるかという点と、戸籍法についての考察である。しかしそういう点はあるにせよ、本書の視点はユニークで十分に読む価値がある。というのは、水戸学や国学が明治国家の政治にどう繋がって行ったのかという論考は多いのだが、それが民衆の「思想」にどう反映したかという論考は意外と数少ないからだ。

私なりに本書の結論をまとめると次の通りである。(1)日本においては「国民」はあくまでも天皇=国家と億兆(個人)という縦の関係のみで創出され、共同体を構成する「同胞」といった横の関係は十分に発達しなかった(むしろ明治政府は横の関係が発達することを恐れ民衆の団結を弾圧した)。(2)そして縦の関係は、それまで武士以外では見られなかった権威主義的な家父長制を導入することによって具体化した。(3)日本国民は、天皇ー戸主ー家族という関係で位置付けられ、そこに国民の意思を代表する機関が中間に存在しなかったために、国民の一般意志(主権)はないがしろにされ、またその発達を阻害した。

幕末明治における「国民」の成立を通じて語られる出色の近代日本論。

【関連書籍の読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html
朱子学の日本的変容を述べる本。現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。本書は前期水戸学までで筆が擱かれているため、後期水戸学から出発する『ナショナリズム』と合わせて読むと現代までの接続がよく理解できる。

『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。

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2021年4月30日金曜日

『ハイドン 新版(大作曲家・人と作品)』大宮 真琴 著

ハイドンの伝記。

ハイドンは古典派音楽の黎明を担った人物であり、音楽史上に重要な位置を占めている。しかし日本では評伝に恵まれておらず、本書は1962年に出版された時点で日本語での最初のハイドン伝であった。この頃、ハイドン研究は日進月歩で進んでおり、特に著者とも交友があったロビンス・ランドンは1978年に全5巻の『ハイドン』を完成させてハイドン研究に画期をもたらした。本書は、ランドンの『ハイドン』によって旧版を改訂した新版である(1981年出版)。

ヨーゼフ・ハイドンはオーストリアのローラウという村に生まれた。ハイドンの生家は特別に音楽の教育を施せるほどではなかったが、ハイドンは早くから音楽的才能を示し、特に歌がうまかったので、8歳でウィーンのステファン寺院の合唱童児として引き取られる。

ステファン寺院にいた10年間、ハイドンは体系的な音楽教育を受けることはできなかったものの、ヴァイオリンなどの楽器の習練を行い、またその音楽的雰囲気によって生きた音楽の訓練を積んだ。しかし変声期を迎えて使いものにならなくなるとすげなく解雇され、17歳のハイドンは金も希望もない状態でウィーンの街に投げ出された。

宿無しのハイドンはある親切なテノール歌手の家の屋根裏に身を寄せ、半年後、暖炉もなければ窓もない惨めな屋根裏に居を構えた(ミヒャエラーハウス)。しかしハイドン自身はとにもかくにも独立した部屋を持ち、虫食いのクラヴサンを所有していることに満足していた。そしてこの頃、ハイドンは作曲を独学した。フックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』、マテゾンの『完全なる楽長』、ケルナーの『ゲネラルバス教程』の3冊で作曲理論を学んだらしい。またこの頃、エマヌエル・バッハ(J.S.バッハの子)のソナタと出会って熱心に研究した。 

やがてハイドンに運が向き始める。19歳の時には最初の劇音楽「せむしの悪魔」を作曲、成功させた。そして様々な幸運に導かれ、音楽好きな貴族フュールンベルク男爵に雇われる。ハイドンは男爵の自邸での音楽会を担った。この時期、ハイドンは最初期の弦楽四重奏曲を書いた。またハイドンのもとには様々な仕事が舞い込み、不安定だが多忙で自由な生活を送った。

ハイドンは27歳の時、フュールンベルク男爵の推挙によってボヘミアのモルツィン伯爵に楽長兼作曲家として仕えることになった。12〜16名のオーケストラを率いる立場だった。この時期、ハイドンは生涯最大の過ちを犯す。それはマリア・アンナ・アロイジアという女性と結婚したことだ。彼女は喧嘩好きで嫉妬深く、偏屈で浪費家だった。結局彼女との間には子どもを授かることもなく、暖かい家庭を築くことはなかった。ハイドンは家庭で孤独だった。そしてそのために、「いっそう彼は、芸術の世界に沈潜して(p.53)」 いった。

そして1761年、29歳のハイドンはオーストリアとハンガリーの境界あたりにあるアイゼンシュタットの町に赴任する。ハンガリーの大貴族、エステルハージ家の副楽長として仕えるためだった。当主パウル・アントン侯は大変な音楽愛好家で楽団を増強したが、その一環としてのハイドンの起用だったようだ。だがハイドンが雇用されて1年もたたないうちにパウル・アントン侯は死去し、弟のニコラウス・ヨーゼフが後を継いだ。ハイドンが30年にわたって仕え、親密な主従関係を結んだのはこのニコラウス侯である。

ハイドン赴任の当時のエステルハージ家の楽団は16人で、楽長は名目的なものだったので副学長だったハイドンが事実上楽長としての職務を果たした。 ハイドンは演奏に関しては厳格で細かい指示を与えたが、人柄は穏和で、何事につけても争うことがなく、楽団員を温かく保護した。そしてオーケストラを自由に使えるという、作曲家としてはこの上ない環境で、ハイドンは交響曲や室内楽曲を精力的に作曲していった。

ニコラウス侯は、エステルハージ家の「ヴェルサイユ宮」を作ることを思い立ち、避暑地としてノイジートラー湖畔に「エステルハーザ」と名付けた新しい宮殿を造営した(1784年完成)。ここは見渡す限り泥土に覆われた田舎の寂しいところだったが、ニコラウス侯はここが気に入って一年の大半を過ごすようになり、またここを芸術のセンターにしようとした。エステルハーザでは週に2回もオペラが上演され、他に人形芝居(マリオネット:音楽付き人形喜劇)も頻繁に演じられた。ハイドンは楽長に昇進し、交響曲、オペラ、マリオネット、そしてニコラウス侯が演奏するバリトン(チェロとギターを足したような楽器)の曲など、侯の要望に応じて厖大な作品を生みだした。

1781年、ハイドンは「ロシア四重奏曲」と呼ばれる弦楽四重奏曲のセットを出版する。これはソナタ形式の完成を告げるものだった。この頃、ハイドンの全ヨーロッパ的な名声が確立し、外部からの作曲の依頼が多数舞い込むようになった。1785年にはスペインのカディスの司教座聖堂参事会からの依頼で『十字架上のキリストの七語』が作曲され、同じ頃、パリの民間のオーケストラ、コンセール・ド・ラ・オランピックからの依頼で「パリ交響曲」と呼ばれる交響曲群(82番〜87番)が生みだされた。

また1780年代には、ハイドンはウィーンでモーツァルトと会うようになった。「ロシア四重奏曲」はモーツァルトに影響を与え、モーツァルトは6つの弦楽四重奏曲を作曲してハイドンに献呈した(ハイドン・セット)。二人は様々な点で正反対だったが、互いに天才として認め合っていた。ハイドンはモーツァルトが不遇だった時期に、彼を「最も偉大な作曲家」「100年に一度の天才」と言って憚らなかった。

ところで、ハイドンの音楽が最も人気を博したのはイギリスだった。折しも1790年、ニコラウス侯が亡くなり、後を継いだアントン侯は音楽好きではなかったので、ハイドンは名誉楽長となって暇になった。そこでハイドンはエステルハーザを離れてイギリスに行くことにした。ロンドンではヨハン・ペーター・ザロモンというヴァイオリニストが演奏会を企画し(ザロモン演奏会)、ハイドンの交響曲は喝采を浴びた。社交界からもハイドンは大歓待を受けた。

ハイドンは人気者としてチヤホヤされる騒々しい生活はあまり好きではなかったらしい。しかしロンドンにおける日々はハイドンの生涯で最も幸福な時期でもあった。しかも演奏会からは莫大な収益があった。ハイドンは2度ロンドンに渡り、一度はロンドンに永住する気にもなったほどだ。

2度目のロンドン旅行から帰ってきたハイドンは、アントン侯を継いだ新しいエステルハージ家当主ニコラウス2世から再び楽長に任じられた。ニコラウス2世は、かつてのエステルハージ家の楽団を再建しようとし、また今や全ヨーロッパ的名声を持つハイドンを抱えるという誘惑に勝てなかったのである。

しかしニコラウス2世の音楽の趣味はかなり偏っていた。彼は伝統的な宗教音楽を好み、新しい時代の音楽を切り拓いてきたハイドンの音楽はあまり好きでなかった。それでもハイドンは古くからの恩があるエステルハージ家から離れようとはせず、むしろ新しい主人の好みに合わせて宗教音楽の作品を作るようになった。ハイドンの晩年を飾る一連のミサ曲がエステルハージ家のために生みだされた。

そしてロンドン旅行の際、オラトリオ『メサイア』などヘンデルの偉大な作品に触れ刺激を受けていたハイドンは、全ての力を傾注してオラトリオ『天地創造』を作曲した。『天地創造』はロンドンで手に入れた台本をスヴィーテン男爵が翻訳し、また男爵が音楽愛好家の貴族から作曲の費用を集めるなど、男爵との協力のもとで作られたものである。これは各地で異常な成功を収めた。また男爵は『天地創造』の成功を受けて、「四季」の台本を作成してハイドンにオラトリオを作曲させた。「四季」の台本はあまり詩的ではなく、ハイドンは乗り気でなかったがこれも傑作となった。『天地創造』『四季』はハイドンの全声楽作品の中で燦然と輝く作品である。

ハイドンの晩年は様々な栄誉に彩られていた。ハイドンほどの名声を手中にした音楽家は、西洋音楽史でも初めてだったかもしれない。1809年、77歳でハイドンは死んだ。ちょうどナポレオン軍がオーストリアに侵攻してきた時で、ウィーンは占領下だったので死去時にはほとんど知られなかったが、葬式の後日、ウィーン中の名士が集まって追悼式が行われた。そこでウィーンの音楽家たちが歌った曲は、親友モーツァルトの『レクイエム』だった。

ハイドンの人生で特徴的なことは、キャリアの中心がエステルハージ家の楽長という地味で地方的なポジションだったことだ。エステルハーザ宮はヨーロッパの端っこで、周りには何もない田舎だった。ハイドン自身、田舎に勤務することの不利を感じていた。しかしこのヨーロッパの音楽シーンの中心とは離れた浮世離れした環境で新しい時代の音楽が生まれ、しかもそれが認められることになったのが不思議である。このあたりの事情は本書には詳らかではない。

ハイドンはロンドン旅行の前には、ウィーンとエステルハーザを往復する以外には大旅行をしたことがなかった。この時代の音楽家は各地の宮廷を渡り歩くのが成功の常道であったにもかかわらずだ。ハイドンの成功は、当時のセオリーとは違った形であったのは間違いないようだ。エステルハーザでの職務は多忙だったが、孤独で喧騒のない環境は却って芸術が醸すのによかったのかもしれない。

本書は、伝記が約半分で、4分の1が作品の簡単な解説、その他に作品リストと年表、交友リストなどとなっている。本書は、ハイドンの生涯を知ることの出来る良書であるが、一つ物足りない点がある。それは、記述のスタンスとして、音楽の内容には極力踏み込まないようにしていることである。主役はあくまでもハイドンの人生であるということだ。

音楽についての記載は簡略だが、正確かつ抑制された筆によるハイドンの伝記。


2021年4月18日日曜日

『女犯—聖の性』石田 瑞麿 著

女犯(にょぼん)を中心に、日本仏教における破戒の歴史を述べる。

東アジアの仏教圏においては、日本の僧侶は戒律を守らないことで有名だ。妻帯や肉食は普通で、しかも信者からそれが問題であるとも見なされない。では歴史的にはどうだったか。殺人や盗みといった破戒ももちろんあったのであるが、事例として圧倒的に多いのは女犯——つまり姦淫——であった。そこで本書は、古代・中世・近世における女犯の歴史を繙く。

といっても、かつてどれくらい僧侶の女犯が行われたか、統計資料があるわけでもない。そこで著者は、女犯の事例を様々な資料から博引旁証する。寺院の記録、随筆、裁判記録、そして時には物語(フィクション)の力も借りて、女犯の歴史を語ったのが本書である。

本書ではあまり述べられていないが、本題に入る前に、そもそも戒律とは何だろうか? 戒律とは、元来は世俗社会から離脱して僧尼のコミュニティに入る際に制約した規約である。インドで誕生した仏教は、僧尼が集団生活(サンガ)を営んだ。そこにコミュニティを破壊するような「異分子」が入ってくると大変な問題になる。現代でも、友だちグループの中に新しいメンバーが入ってきてグループが瓦解するようなことはよくあるが、そういうことを避けるために、仲間に入れるかどうか全員で討議したのが元々の「受戒」であった。

しかし僧尼が巨大な集団になってくると、グループ全員で討議するのは現実的でない。そこで、新参者の加入の際、規約(戒律)を誓約させるにあたってグループの代表者10人でその吟味を行った。それが「十師」(三師七証)である。やがて討議の機能は失われて、十師は受戒の証人というような位置づけに変わっていった。要するに、受戒とは「戒律」とその「証人」の両方を必要とする行為なのだ。

一方で、日本における仏教集団は国家が「僧尼令」で作ったものだが、受戒に必要となる最初の10人はどうするかという問題があった。最初の仏教集団は誰も証人立ち会いの下で戒律を授けられていなかったので、いわば古代の僧尼全員が無戒律の状態にあったのである。こうして、そもそも出家という方法が仏法に適っているのかという疑問が出てきた。その疑問を抱き続けたのが元興寺の隆尊である。彼は時の政権に働きかけ、結果として中国から道璿(どうせん)が来日した。

さらに鑑真らの来日によって十師が揃い、ここでようやく日本でも如法の十師受戒を行うことができるようになったのである。ところが、こうして苦労して十師を揃えたのにもかかわらず、肝心の戒律護持については日本の僧侶はほとんど関心を持たなかったように見える。受戒を形式的に成立させることには熱意をそそいだのに、それを実行することには無関心だったというのが日本の戒律の出発であった。

また最澄は、十師受戒は必要ないと考えて、従来は副次的なものだった「梵網戒」のみにより受戒が可能とした。それは死後国家にも認められ、天台宗は独自の戒壇を持つことになった。これは日本独自の受戒制度であった。なお比丘尼の場合は、中国から比丘尼の十師が来日することはなかったので十師受戒はいつまでもできなかった。そこで天台宗は、万寿4年(1027)山下の法成寺に「比丘尼戒壇」を建立。ここに比丘尼が受戒できる体制がようやく整った。しかし約30年後、法成寺は消失する。以後、比丘尼戒壇は再建を見ることはなかった。

【古代】

先述の通り、古代においては受戒は大きな問題であったが、肝心の中身についてはすぐに閑却された。多くの僧尼は、戒律の内容がなんであったのかさえ分かっていないと考えられるという。十師受戒の内容は「二百五十戒」と呼ばれる250条の規約であったが、少なくともこれが全ての僧に認知されていた様子はない(尼の場合は348条)。

そして妻帯が横行することになり、沙弥(まだ受戒していない見習い僧)の場合は即妻帯者と考えられるほど一般化した。比丘(受戒後の僧侶)の場合も寺にいながら妻帯する場合が多く見られた。古代の場合、出家は国家に管理された行為である。受戒し僧尼になれば、国家が課していた義務から解放されたのである。にも関わらず、その行為が俗人と変わらないとなれば何のための出家かということになる。そこで延暦23年(804)、仏教界の腐敗・戒律の無視を批判する勅が出されたが、破戒を取り締まる側の僧綱・指導的立場にある諸寺が積極的に動いた形跡はない。眼に余る破戒僧は「僧尼令」によって処罰されたものの、それも見せしめ的なものに留まった。

平安時代に入ると、妻を持つ僧侶は普通のこととなり、しかもそれが悪いことだという認識もなくなったようだ。僧と尼のカップルも散見される。説話文学などでも、僧が懸想した相手と結ばれたことを「めでたし、めでたし」という調子で語っているものがある。そこには男女の間の結びつきを自然なものと考える態度があり、戒律は護持しなければならないという意識自体がない。

一方、宇多法皇は出家後に子供をもうけているが、世間体を気にして醍醐天皇の子ということにしている。高僧なども含め、社会の上層には一応破戒という意識はあったようである。ところが一般僧の場合は女犯は一般的だったようであまり悪びれた様子がなく、問題にもされていない。密通の事実が明らかになっても何の処罰も行われなかったケースもある。

また、男色については女犯以上に多かったようである。

さらに日本仏教に特異な風習として成立したのが「父子相伝」である。自分の子を弟子にしたのを「真弟(しんてい)」といい、寺を相続させるのだ。要は寺院の実子相続であり、破戒を前提とした制度である。天台口伝法門ではこの世襲制が重視された。

【中世】

授戒が全く形式的・儀式的なものになってしまって、内実が伴わないことへの反省が律学の徒から起こってきた。そもそも破戒僧ばかりを10人集めても十師にはならないので、形式的にも授戒を行うことはできない。そこで天台・真言の両宗を学んだ俊芿(しゅんじょう)は宋に渡り、律を極めて帰国した。俊芿は(十師を招聘することができなかったので)授戒の面では現状を打開することはできなかったが、律学の新たな局面を切り拓いた。

一方、興福寺の貞慶の弟子、戒如の門下から、覚盛(かくじょう)、叡尊、有厳(うごん)、円晴という律宗復興を果たす「自誓の四哲」が輩出された。「自誓」とは、自らの内面によって得戒できるという考えで、彼らは受戒の形式的な要件ではなく戒律護持の内面をこそ重視した。覚盛・叡尊によってこの新しい受戒が進められ、覚盛に教えを受けた円照によって東大寺の戒壇院も再興された。

西大寺の叡尊は新しい戒律の考えによって多くの人に授戒を行い、貴賤の人が一千人単位で受戒していった。また門下では忍性(にんしょう)が傑出し叡尊の後を継いだ。しかし、多くの人が受戒に殺到したのは、心から戒律護持を決意したためではなかった。叡尊らの内面重視の考え方とは逆に、受戒によって戒体(止悪作善の力を持つなにか)を得られ、それがある限りは戒を犯しても大丈夫だという「受戒による功徳」を人々は期待していたのである。例えば病気平癒を祈って受戒する、といったようなことがあった。やはり戒律は形無しになっていったのである。

しかも叡尊自身、たとえ相手が婬女(売春婦)であっても授戒したし、亀山上皇から授戒を求められた際は婬戒を外しておいて(!)、上皇がその後も女性と性的関係を結べるようにするなど(戒の全部ではなく一部のみ授戒する=少分戒)、厳格な戒律護持を念頭に置いていなかったことは明らかである。

一方、『貞永式目』の追加法(1235)で破戒僧を鎌倉から追放することが定められ、『公家新制』(朝廷が定めた法規)でも戒律護持を求めるなど、戒律は法規的に位置づけられるようになった。ところがその禁制は厳格なものでなく、常態化していた僧侶の妻帯・女犯を半ば黙認していた雰囲気がある。

なお諸寺においても禁制が作られたが、そこで「尼は常住できない」といった規制を設けていることが注目される(例:摂津の勝尾寺)。つまり寺に尼が住んでいたからこういう規制ができたということだ。古代寺院では僧尼は別住していたが、中世ではその規範が崩れていたのである。僧の妻帯は、寺に僧の(母や姉などの女性を含む)家族が同居していることを意味し、さらに家族以外の尼も常住していたのである。

さらに中世には念仏者の破戒が問題になってくる。念仏のみによって往生できるならば戒律は不要だとの(法然によれば間違った)認識が広まってきたからだ。そうした専修念仏者の破戒行為は他宗派の僧侶(特に興福寺)から批判が出たが、実際の行状は五十歩百歩であったらしい。

そんな中、本書に挙げられた宗性(東大寺別当に任じられた学識高い僧)の例は衝撃的である。彼は34歳の時、節制の誓いを立てたのであるがその内容は、

  • 笠置寺にいるうちは節制する。ただし休暇の際に山を下りた時は酒を飲み淫事を行い勝負ごともする。
  • 酒宴を禁断する。ただし良薬として用いることを除き、飲む際は一日3合までにする。

といったことで、ここまで緩い節制なのにそれを自分では「善心」と評価している。さらに36歳の時は禁欲の誓いを立てたが、その内容は、

  • これまで95人の男と関係を持ったが100人で止めにしよう。
  • 特に41歳で笠置寺に籠居したら、亀王丸の他は関係を持たない。
  • 自房の中には上童を置かない。(自房の中じゃなかったらいいのか?)

などだ。男との関係は100人で止める、ということなどは、禁欲というより「百人斬り」の誓いのようなもので、しかも100人で止めると言っておきながらお気に入りの亀王丸との関係は続ける気満々である(ちなみに戒律では男色も禁じられている)。本人はこれが「禁欲」だと大まじめに信じており、当時の僧は現代の普通の人よりも性的に放縦であったように思われる。

この他、各宗における女犯の事例やその受容など詳しく述べられているが、総じて言えば、戒律護持が叫ばれることはあっても現実に横行する破戒行為が多すぎていかんともしがたく、消極的にであれ破戒は容認され、しかも一般の社会からも問題視されることは少なかった、とまとめることができる。

【近世】

近世に至って破戒への政権の対応は一変する。江戸幕府は諸宗に対して強い規制を以て臨み、『公事方御定書』では、女犯の僧は遠島、密夫の僧の場合は獄門、などと破戒に対して極めて厳しい刑罰を加えたのである。

しかしそれでも、僧侶の女犯(特に遊郭通いと妻帯)はかなり多かった。また寺に女性を住まわせる場合も多かったようである。寺で遊女を囲っていた事例も紹介されている。またそうした女性関係は犯罪も誘発した。そこで『御定書百箇条』では僧の女犯は磔(はりつけ)となって極刑となった。これは主人・親・師匠などの殺人に適用されたのと同じ量刑であった。

遊郭帰りを一挙に検挙された事例では70人もの僧が召し捕らえられたこともあり、取り締まる側では、破戒を減らそうとしたようである。しかし女犯が顕著に減少したということはないようだ。僧は「梵妻」などといって寺に半ば公然と妻を置いていた。当局が検挙キャンペーンを行うと多くの寺がお咎めを受けたが、また暫くすると元に戻ってしまった。

こうした仏教の腐敗堕落に対して、社会の方から批判が起こってきたのが中世とは異なった点だった。例えば熊沢蕃山、中山竹山、上田秋成は、破戒の寺は破却されて当然だというようなことを述べている。中世の頃は、いくら破戒でも僧は有り難いものだという観念があったのに対し、江戸時代では破戒僧などいないほうがましだ、というような態度になっている。

このようにすっかり堕落した状態で仏教界は明治維新を迎え、政府による「妻帯肉食自由」の太政官布達によって国家の規制の箍が外れると、自然消滅的に戒律は空文化していった。

全体を通じ、本書は非常に多くの事例が引かれており、資料的価値が高い。僧の女犯について語る際には必ず参照すべき基本図書と言える。一方で、尼の破戒については記載が少ない。比丘尼寺もたくさんあったわけだが、そこでの戒律護持はどうだったのだろうか。例えば臨済宗の尼五山ではどうだったのか? そのあたりはさらに知りたくなったところである。

また、本書は事例列挙の面が強くそれを横断的に分析することはしないが、僧+俗人の妻、僧+尼、俗人の夫+尼、といった破戒のいろいろなケースについて分析してみたら面白いと思った。本書の研究を基盤にしてさらなる破戒の研究がなされることを期待したい。

大量の資料から根気よく僧の女犯の事例を探し出した大変な労作。初めてまとめられた破戒の日本史。


2021年4月16日金曜日

『星の古記録』斉藤 国治 著

歴史に記された天文現象。

著者は「古天文学」の第一人者(というより他にいるのか?)である。古天文学とは、古い歴史書や日記などに記された天文現象を現代の科学を用いて検証し、史料の記録の真否を判断したり、史料の誤りや錯簡・判読不能字などを読み解いたりする学問である。

例えば、『日本書紀』『続日本紀』には日食の記事がたくさん記載されているが、検証してみるとそれらの記録のうちの多くが実際にはその時には日食が起こっていなかったことが明らかになった。

その頃は日食(が起こる可能性のある日)の予測計算が行われており、それを機械的に当て嵌めたことで大量の日食予測がなされたようである。『日本書紀』等はその予測を記録に留めたものと考えられる。この頃、天文観測を担った陰陽寮は多めに予測を出した。というのは、日食は凶兆とされたので、日食の予測が出たら日食を避ける仏道祈祷が行われたのである。つまりその予測が外れたら(日食を追い払ったことになって)手柄となったために予測を乱発した可能性がある。

しかしながら、古代の中国や日本では概ね正確な天文観測が行われていた。特に古代中国の天文観測は正確無比だそうで、記録としても正史に「天文志」という天文観測専門の史書を作った。なぜなら、天体現象を「天意」の現れと見たので政治的に重要だったからだ。日本でも陰陽寮が設けられて毎日夜空を観測していた。

古代においては現在と違ってどのような天体現象が起こるかは事前に予測ができなかったので、毎晩じっと夜空を見上げて「天変」がないか確認していた。しかも天文官らは見たところを他言することを許されず、陰陽寮の上級官吏は天子との間に密奏という直通のパイプで結ばれていた。天変を明らかにすることは失政を暴露する行為だったからである。

本書には記載がないが、月を詠んだ和歌は大量にあるのに星を詠んだ和歌はごく僅かしかない、ということはよく指摘される。本書を読んで、その背景には天体現象が国家機密であったために、みだりに(!)星を観ることの自主規制があったのかもしれないと思った。

さて、日食や月食はやがて正確に予測できるようになって、天変とはいわなくなっていく。特に中国では、日・月食の予測が文字通り命がけ(予測が外れたら死刑とか)だったので科学的な観測が行われたからだ。そして天変とは、彗星の出現、月による星食犯(月が星を隠す)、惑星同士の合犯(重なり、近づき)などを示すようになった。

本書では、古天文学のケーススタディとして、日食、惑星の合犯、『明月記』に記録された超新星爆発、流星と隕石、ハレー彗星、カノープス(南極老人星)(北半球からはほとんど見えない星なので観測できたらめでたいこととされてお祝いをした)、ガリレオ衛星の観測などが取り上げられている。

最後に、明治時代に行われた金星過日(金星が太陽の中を通過する現象)の模様と、皆既日食(のコロナ)の観測が述べられている。この部分は「古天文学」ではなく、日本がどのように現代の科学を受容したのかということがテーマである。明治7年の金星過日については、数カ国の観測隊が日本を訪れて観測を行ったが、これは科学における「黒船」であったと同時に、日本初の国際科学交流の機会でもあった。

明治20年の皆既日食については、政府がこの観測を国民に勧奨し、官庁・学校については当日午後1時以降を臨時休業とした。時の政府は日蝕の観測を科学振興の契機としたのである。

本書に述べられる古天文学の事例は、どれも興味深いものばかりで楽しく読んだ。これまで古代の日本人は星空に無関心だったのかと思っていたが、そうではなかったのである。例えば星の観測記録については、日本は世界的に見て豊富であり、特に獅子座流星群については日本の記録が圧倒的に多い。にもかかわらず不思議なことに、日本では獅子座流星群の出現周期を発見することもなかった。少し注意すれば周期を割り出すことはたやすかったのに、そういう理論化をしなかったのである。日本では星の観測で「科学」が育つことはなかった、ということは哀しい真実のようである。

「古天文学」の楽しい入門書。

【関連書籍の読書メモ】
『密教占星術—宿曜道とインド占星術』矢野 道雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/11/blog-post.html
密教占星術「宿曜道」の理論を解明する本。宿曜道を理解する上での必読書。